ページ6 女神と日記
「望月颯太さーん。生きてますかー。」
ボーっとしている颯太に大輔が声を掛ける。
「むしろこの日常が生きてる心地を与えてくれます。」
大輔は「何言ってんだ」と言わんばかりに、カウンターに突っ伏している颯太にデコピンを食らわす。
颯太はその衝撃で一度天井を見上げるが、
「あぁー」と気の抜けた声で元の姿勢に戻る。
「しかし本当に実在してるとは。颯太の女神様。」
「あれは小悪魔だ。いや、女神に返り咲いたんだった。」
こういう冗談を言えるのが大輔のいいところだと颯太は思っていた。
悪口を言っているわけじゃない。
からかっているわけでもない。
ただ颯太のテンションに合わせて、うまく言葉を返してくれる。こいつは要領が良すぎて腹が立つことも多いが、こういう時だけは素直にありがたいと思う。
「まあ、でもこんだけ来ないと振られたな。」
澪と陽菜が来店してから二週間が過ぎていた。
世はゴールデンウイークだ。
この日は颯太と大輔も学校が休みなためランチからバイトに出ていた。
ゴールデンウイーク中の昼間は普段より客入りが多い。
海沿いの観光客がちらほら立ち寄ったりして、
カフェ・ドゥ・ソレイユはいつもより賑やかだった。
颯太はそのぶん忙しくケーキを作り、コーヒーを運び、レジを打った。
忙しい時間は余計なことを考えなくて済むから、颯太は嫌いじゃなかった。
昼のピークが過ぎると、客も引いてきた。
カウンターの中で颯太が一息ついた瞬間に、大輔がのんびり話しかけてくる。
「そこの給料泥棒たち、仕事をしたまえ。」
マスターが二人に告げる。
「仕事って言っても、客なんていないし。」
そう言っているが、常連が何人か座っていた。
颯太たちにとっては常連は客としてカウントされていない。
常連さんたちも、颯太たちのこの感じを許してくれている。
長年通い続けてくれているこの人たちにとっても、颯太たちの存在はもはや店の内装の一部みたいなものなのかもしれない。
「いや、いるから」
そう言われた先の席は、カウンターからは見づらい奥の席。
颯太はその席へ目をやって、一瞬時間が止まった。
そこにいたのは澪だった。
「え?」
颯太と大輔の息が揃う。
「いつ来たんすか!?」
「さっき君たちが休憩している時」
「言えよ!」
またもや息が揃う。
「言ったところで何が変わる。」
マスターは口の下のひげを触りながら、涼しい顔でそう言った。
颯太はエプロンを直して、奥の席へと向かう。
「コーヒーのおかわりや他のご注文はございませんでしょうか。」
なるべく落ち着いた声で言ったつもりだった。
でも心臓がうるさかった。
相変わらずこの小悪魔、否、女神は美しい。
「あの、今日は望月颯太さんっていらっしゃいますか?」
そう言われた。
颯太はその言葉を一秒ほどかけて処理した。
澪は颯太の顔を見ながら、颯太のことを名前で尋ねてきた。
つまり、目の前に立っている男が望月颯太だと認識できていない。
ショックだった。
そんなに影が薄いかな、と悲観しながらも颯太は答える。
「私が望月颯太です。」
澪はぱっと顔を明るくした。その表情の変わり方が、まるで探し物が見つかった時の子供みたいだった。
「望月さん! じゃあ今日のおすすめケーキをください。」
この間の唐突チーズケーキを反省したのか、陽菜がいないからか、今日の声はとても落ち着いていた。
前回は「チーズケーキ!」と店中に響き渡るような声だった。
でも今日は穏やかで、どこか行儀がいい。
それはそれで、颯太にとっては少し寂しかった。
でもその落ち着き方もまた、澪らしいと思った。
「お待たせいたしました。
本日の日替わりはショートケーキになります。」
颯太が丁寧に告げると、澪は「はい、それで」と素直に頷いた。
厨房に戻りながら颯太はフォームを整える。スポンジは朝のうちに仕込んであった。
クリームを泡立てて、いちごを切り分けて、丁寧に重ねていく。丁寧にというのはいつもそうだが、今日は特にそうした。
何のためにかは分かっていた。
澪の前に皿を置いた。
一口目を食べた瞬間のことは、颯太は一生忘れないだろうと思った。
「美味しい!」
この間と同じだった。同じ声で、同じ顔で、同じ言葉だった。
でも澪にとっては初めてだったのかもしれない。
その事実が颯太の中でちくりと刺さった。
いや、刺さるという感覚とも違った。
何か、今まで持ったことがない種類の感情が、そこにあった。なんと呼べばいいのか、颯太にはまだ分からなかった。
ケーキを一口食べると、澪は手帳を取り出してペンを走らせはじめた。
食べて、書く。また食べて、また書く。
その繰り返しをしばらく眺めてから、颯太は思いきって声をかけた。
「あの、もしよければなんですが、それ見せてもらえますか?」
「はい、どうぞ。」
差し出された手帳には、びっしりと細かい文字が並んでいた。
颯太はそのページを読んだ。
――朝8時半に起きた。
――歯を磨いて朝ごはんを食べる。
――朝ごはんを食べながらお母さんと話をした。
――昨日の晩御飯の唐揚げが美味しかったと伝えるとお母さんは喜んでいた。
――次、唐揚げを食べられるのを楽しみにしてる。
――テレビで天気予報を見る。
――今日は雨が降るから傘がいる。(赤で強調)
――今日の病院は陽菜がついて来てくれる。
――それまでの間、1人でカフェに行く。
――店名:カフェ・ドゥ・ソレイユ
――場所:XXXXX
――もし「望月颯太」さんがいたらケーキを作ってもらう。
――でもチーズケーキじゃなくて日替わりケーキを頼む!!
――カフェに来た。
――「望月颯太」さんがいた。
――今日はショートケーキだ。楽しみ♪
――ショートケーキも美味しい!
――スポンジがふわふわでクリームも優しい。
颯太が認識できただけでもこれだけあった。
一日分でまだ今日は昼を過ぎたばかりだというのに、こんなにも事細かく書かれていた。
唐揚げの話も、天気予報の話も、病院に行く話も。全部、この人が今日経験したことだ。
全部、この人が覚えていようとして書いた言葉だ。
颯太は手帳の文字をもう一度なぞるように見た。
「望月颯太さんがいたらケーキを作ってもらう。」
自分の名前が、澪の手帳に書かれていた。
赤でも青でもない、普通の黒インクだった。
でもその四文字が、颯太の目には何故か鮮明に浮かんで見えた。
「すごい。」
颯太がそう呟くと、「日課ですからね」と言って澪は日記を颯太から取り上げた。
その後も少し彼女のことを観察していたが、ケーキを一口食べるたびに、会話の合間に、さりげなく日記を出しては書き加えていた。
もはや日記というより備忘録に感じる。
いや、備忘録よりもっと切実な何かのような気もした。
備忘録でなぜか急に思い出した。
そうだ、35分の価値について聞いてみよう。
颯太が口を開こうとしたその瞬間、
「澪!」
店のドアが勢いよく開き、陽菜が息を切らしながら飛び込んできた。
颯太はその瞬間、自分の中で何かが止まる感覚を覚えた。
あと数秒あれば、聞けていたかもしれない。
でも陽菜の表情を見た瞬間、颯太はそれどころではないと気がついた。
陽菜の目は、颯太を見ていた。
ただ警戒しているのではなかった。
何かを決意したような、覚悟のある目だった。
「あなた、この後時間ある?」
颯太はその言葉の重さを、まだ知らなかった。
「望月颯太さーん。生きてますかー。」
ボーっとしている颯太に大輔が声を掛ける。
「むしろこの日常が生きてる心地を与えてくれます。」
大輔は「何言ってんだ」と言わんばかりに、カウンターに突っ伏している颯太にデコピンを食らわす。
颯太はその衝撃で一度天井を見上げるが、
「あぁー」と気の抜けた声で元の姿勢に戻る。
「しかし本当に実在してるとは。颯太の女神様。」
「あれは小悪魔だ。いや、女神に返り咲いたんだった。」
こういう冗談を言えるのが大輔のいいところだと颯太は思っていた。
悪口を言っているわけじゃない。
からかっているわけでもない。
ただ颯太のテンションに合わせて、うまく言葉を返してくれる。こいつは要領が良すぎて腹が立つことも多いが、こういう時だけは素直にありがたいと思う。
「まあ、でもこんだけ来ないと振られたな。」
澪と陽菜が来店してから二週間が過ぎていた。
世はゴールデンウイークだ。
この日は颯太と大輔も学校が休みなためランチからバイトに出ていた。
ゴールデンウイーク中の昼間は普段より客入りが多い。
海沿いの観光客がちらほら立ち寄ったりして、
カフェ・ドゥ・ソレイユはいつもより賑やかだった。
颯太はそのぶん忙しくケーキを作り、コーヒーを運び、レジを打った。
忙しい時間は余計なことを考えなくて済むから、颯太は嫌いじゃなかった。
昼のピークが過ぎると、客も引いてきた。
カウンターの中で颯太が一息ついた瞬間に、大輔がのんびり話しかけてくる。
「そこの給料泥棒たち、仕事をしたまえ。」
マスターが二人に告げる。
「仕事って言っても、客なんていないし。」
そう言っているが、常連が何人か座っていた。
颯太たちにとっては常連は客としてカウントされていない。
常連さんたちも、颯太たちのこの感じを許してくれている。
長年通い続けてくれているこの人たちにとっても、颯太たちの存在はもはや店の内装の一部みたいなものなのかもしれない。
「いや、いるから」
そう言われた先の席は、カウンターからは見づらい奥の席。
颯太はその席へ目をやって、一瞬時間が止まった。
そこにいたのは澪だった。
「え?」
颯太と大輔の息が揃う。
「いつ来たんすか!?」
「さっき君たちが休憩している時」
「言えよ!」
またもや息が揃う。
「言ったところで何が変わる。」
マスターは口の下のひげを触りながら、涼しい顔でそう言った。
颯太はエプロンを直して、奥の席へと向かう。
「コーヒーのおかわりや他のご注文はございませんでしょうか。」
なるべく落ち着いた声で言ったつもりだった。
でも心臓がうるさかった。
相変わらずこの小悪魔、否、女神は美しい。
「あの、今日は望月颯太さんっていらっしゃいますか?」
そう言われた。
颯太はその言葉を一秒ほどかけて処理した。
澪は颯太の顔を見ながら、颯太のことを名前で尋ねてきた。
つまり、目の前に立っている男が望月颯太だと認識できていない。
ショックだった。
そんなに影が薄いかな、と悲観しながらも颯太は答える。
「私が望月颯太です。」
澪はぱっと顔を明るくした。その表情の変わり方が、まるで探し物が見つかった時の子供みたいだった。
「望月さん! じゃあ今日のおすすめケーキをください。」
この間の唐突チーズケーキを反省したのか、陽菜がいないからか、今日の声はとても落ち着いていた。
前回は「チーズケーキ!」と店中に響き渡るような声だった。
でも今日は穏やかで、どこか行儀がいい。
それはそれで、颯太にとっては少し寂しかった。
でもその落ち着き方もまた、澪らしいと思った。
「お待たせいたしました。
本日の日替わりはショートケーキになります。」
颯太が丁寧に告げると、澪は「はい、それで」と素直に頷いた。
厨房に戻りながら颯太はフォームを整える。スポンジは朝のうちに仕込んであった。
クリームを泡立てて、いちごを切り分けて、丁寧に重ねていく。丁寧にというのはいつもそうだが、今日は特にそうした。
何のためにかは分かっていた。
澪の前に皿を置いた。
一口目を食べた瞬間のことは、颯太は一生忘れないだろうと思った。
「美味しい!」
この間と同じだった。同じ声で、同じ顔で、同じ言葉だった。
でも澪にとっては初めてだったのかもしれない。
その事実が颯太の中でちくりと刺さった。
いや、刺さるという感覚とも違った。
何か、今まで持ったことがない種類の感情が、そこにあった。なんと呼べばいいのか、颯太にはまだ分からなかった。
ケーキを一口食べると、澪は手帳を取り出してペンを走らせはじめた。
食べて、書く。また食べて、また書く。
その繰り返しをしばらく眺めてから、颯太は思いきって声をかけた。
「あの、もしよければなんですが、それ見せてもらえますか?」
「はい、どうぞ。」
差し出された手帳には、びっしりと細かい文字が並んでいた。
颯太はそのページを読んだ。
――朝8時半に起きた。
――歯を磨いて朝ごはんを食べる。
――朝ごはんを食べながらお母さんと話をした。
――昨日の晩御飯の唐揚げが美味しかったと伝えるとお母さんは喜んでいた。
――次、唐揚げを食べられるのを楽しみにしてる。
――テレビで天気予報を見る。
――今日は雨が降るから傘がいる。(赤で強調)
――今日の病院は陽菜がついて来てくれる。
――それまでの間、1人でカフェに行く。
――店名:カフェ・ドゥ・ソレイユ
――場所:XXXXX
――もし「望月颯太」さんがいたらケーキを作ってもらう。
――でもチーズケーキじゃなくて日替わりケーキを頼む!!
――カフェに来た。
――「望月颯太」さんがいた。
――今日はショートケーキだ。楽しみ♪
――ショートケーキも美味しい!
――スポンジがふわふわでクリームも優しい。
颯太が認識できただけでもこれだけあった。
一日分でまだ今日は昼を過ぎたばかりだというのに、こんなにも事細かく書かれていた。
唐揚げの話も、天気予報の話も、病院に行く話も。全部、この人が今日経験したことだ。
全部、この人が覚えていようとして書いた言葉だ。
颯太は手帳の文字をもう一度なぞるように見た。
「望月颯太さんがいたらケーキを作ってもらう。」
自分の名前が、澪の手帳に書かれていた。
赤でも青でもない、普通の黒インクだった。
でもその四文字が、颯太の目には何故か鮮明に浮かんで見えた。
「すごい。」
颯太がそう呟くと、「日課ですからね」と言って澪は日記を颯太から取り上げた。
その後も少し彼女のことを観察していたが、ケーキを一口食べるたびに、会話の合間に、さりげなく日記を出しては書き加えていた。
もはや日記というより備忘録に感じる。
いや、備忘録よりもっと切実な何かのような気もした。
備忘録でなぜか急に思い出した。
そうだ、35分の価値について聞いてみよう。
颯太が口を開こうとしたその瞬間、
「澪!」
店のドアが勢いよく開き、陽菜が息を切らしながら飛び込んできた。
颯太はその瞬間、自分の中で何かが止まる感覚を覚えた。
あと数秒あれば、聞けていたかもしれない。
でも陽菜の表情を見た瞬間、颯太はそれどころではないと気がついた。
陽菜の目は、颯太を見ていた。
ただ警戒しているのではなかった。
何かを決意したような、覚悟のある目だった。
「あなた、この後時間ある?」
颯太はその言葉の重さを、まだ知らなかった。




