ページ5 日常と非日常
「これは35分の価値があるよ。」
その言葉が、澪たちが帰った後もずっと店内に残っているような気がした。
二人が席を立ったのは、ちょうど夕日が水平線に半分沈んだ頃だった。
「ごちそうさまでした。」
陽菜がそう言って財布を出すのと、澪が立ち上がって鞄を肩にかけるのがほぼ同時だった。
颯太はレジに向かいながら、さりげなく澪の方を見た。澪は窓の外を眺めていた。
橙色の光が彼女の横顔に落ちていた。
いつも澄んでいる澪の顔が、夕日を受けてさらに柔らかく見えた。颯太はその一瞬、レジを打つ手が止まりそうになったのを、かろうじて誤魔化した。
「また来ます。」
陽菜がそう言った。
颯太には聞こえていたが、その言葉が誰に向けられたものか少し迷った。
マスターかもしれない。大輔かもしれない。
でも颯太は「ありがとうございます」と答えながら、少しだけその言葉を自分のものとして受け取った。
澪は扉のところで一度だけ振り返り、
「美味しかった。」とだけ言った。
それだけだった。
それだけなのに、颯太はその瞬間から数分間、カウンターの前で突っ立ったままになっていた。
「おい。」
大輔に肩を叩かれて我に返った。
「茫然としすぎやろ。」
「うるさい。」
「いや、ほんまに惚れてるんやな。」
普段は関西弁なんて使わない大輔が、呆れた時だけこうなる。
颯太はそれ以上何も言わず、空になったグラスとカップを片付けに行った。
澪が座っていた席には、小さな紙ナプキンが一枚残っていた。
何かが書いてある。
颯太はそれを拾い上げた。
「チーズケーキ、また食べたい。」
几帳面な丸文字で、そう書いてあった。
颯太はしばらくその紙を眺めた。
捨てるべきか、取っておくべきか。
一秒も迷わず、エプロンのポケットにしまった。
――――――
バイトが終わったのは夜の九時を過ぎた頃だった。
夜のネットカフェのバイトは今日は休みだったから、そのまま帰れる。
それだけで少し得した気分になる、普段の颯太なら。
でも今日は歩きながら、なんとなくぼんやりしていた。
海沿いの道を通って帰る。
この道は昼間に通ると景色がいいが、夜は夜で違う良さがある。
街灯がいくつか並んでいて、その光が海面にぽつぽつと映っている。
波の音が聞こえる。
車の音も人の声もない。
いつもなら耳にイヤホンを突っ込んで音楽をかけながら歩くのに、今日はそれをする気になれなかった。
静かな方が、今日の記憶を整理できる気がした。
「35分の価値がある。」
もう一度その言葉が脳内で再生される。
35分というのは何の35分なんだろう。
颯太はここから自分の家までの距離を頭の中で計算してみた。歩いて約15分。自転車で7分くらい。バス停は近くにあるが、本数が少ないのであまり使わない。
じゃあ澪の家はどこだ。
いや、知るわけがない。
当たり前のことに気づいて、颯太は苦笑した。
紙ナプキンのことを思い出してポケットに手を入れると、まだそこにあった。ちゃんとある。夢じゃない。
今日、確かに澪が来てくれた。チーズケーキを食べて、笑って、35分の価値があると言って、また来ると書いてくれた。
それだけの事実が、夜の海沿いの道を歩く颯太の足取りを、いつもより少しだけ軽くしていた。
――――――
家に帰ると、母が不機嫌な顔で玄関に立っていた。
どうやら、頼まれていた買い物を忘れていたらしい。
「全く、あんたはすぐ忘れちゃうんだから。しっかりしなさい!」
怒られながら、冷蔵庫に準備してもらっているご飯を取る。
レンジで温めている間も母のお叱りが聞こえてくる。
颯太は現実逃避をするように、箱の中でオレンジ色の光を灯されながら回るお皿を眺める。
これが俺の現実だ。
バイトが終わり、ご飯を食べ、お風呂に入り、眠りにつく。
ネットカフェのバイトがある時は、お風呂の後にまた外に出る。
そして朝が来たら学校に行く。
誰かに話せば笑われるような、何でもない毎日だ。
でも今日は、眠れなかった。
布団に入って目を閉じても、澪の声が耳の中で響いている。「美味しい」という声と、「35分の価値があるよ」という声が交互に浮かんでは消えた。
35分ってなんだろう?
流行りのドラマか?
専門学校に入り、バイト漬けになってからはTVなんて見なくなった。
見るのは風呂上がりのYouTubeくらいだ。
風呂に入り、いつものようにYouTubeを付ける。
颯太はため息をついた。
なぜか今日はいい動画が見つからない。
今日の自分の日常はいつもと同じだった。
補講をさぼったわけでも、バイトをさぼったわけでも、特別なことをしたわけでもない。
母に買い物を頼まれていたことを忘れた、その程度のいつも通りだ。
それなのに、今日は違う。
そうだ。
今日は違うんだ。
いや、今日からだ。
俺の日常に、非日常が忍び込んできた。
颯太はそう思いながら、天井を見つめた。
暗くて何も見えない。でも頭の中には澪の笑顔がある。
また会えるかな。
脳内に住みついた天使に、颯太は話しかけた。天使は答えない。でも笑っている、気がした。
またよぎる「35分の価値」という言葉。
今度会ったら聞いてみよう。
澪のあの几帳面な日記のことも、なぜ日記を書くのかも、なぜ陽菜がそんなに警戒しているのかも、全部ひっくるめて知りたいと思った。
でもまず、また会えるかどうかだ。
颯太は信じることにした。
信じるしかなかったし、信じたかった。
そう思い、颯太はようやく眠りについた。
次の朝、起きると母がドラマを見ていた。
録画か?こんな時間にドラマなんてやってないしな。
そう思いながら、食パンにバターを塗りその上にハムとマヨネーズのいつもの朝食を頬張る。
「あっ、そうだ。」
その声に母が耳を傾けるのを感じたので、そのまま続けた。
「35分って言葉が出てくるドラマとかある?」
ん〜という思考の後、「知らん」と一言返ってきた。
ドラマじゃないのかな。
とその場を収めようとすると、「牛乳」と追加の一言。
「へーい」
と言いながら、俺には関係ないと言わんばかりに颯太はコーヒーを飲む。
学校に向かう道でスマホのメモ帳に「牛乳」と打ち込んだ。その時に日記のことを思い出した。
そんなことを考えながら周りを見渡すと、いつのまにか
あの海沿いの道にいた。
昨日の夕日はとっくに消えて、朝の光が海に広がっていた。まるで昨日のことなど何もなかったかのように、いつもと同じ景色だった。
でも颯太のポケットの中には、まだあの紙ナプキンがあった。
これだけが現実だという証拠だった。
いつもと同じ道を、いつもと同じ時間に歩いている。
それなのに、足の下の地面の感触が少しだけ違う気がした。
颯太はイヤホンを耳に入れて、音楽をかけた。
それでも澪の声の方が、音楽よりも大きく聞こえた。




