表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35分の記念日  作者: 芒雲 紘真
第一章 35分の出会い
6/33

ページ5 日常と非日常

「これは35分の価値があるよ。」

その言葉が、澪たちが帰った後もずっと店内に残っているような気がした。

二人が席を立ったのは、ちょうど夕日が水平線に半分沈んだ頃だった。

「ごちそうさまでした。」

陽菜がそう言って財布を出すのと、澪が立ち上がって鞄を肩にかけるのがほぼ同時だった。

颯太はレジに向かいながら、さりげなく澪の方を見た。澪は窓の外を眺めていた。

橙色の光が彼女の横顔に落ちていた。

いつも澄んでいる澪の顔が、夕日を受けてさらに柔らかく見えた。颯太はその一瞬、レジを打つ手が止まりそうになったのを、かろうじて誤魔化した。

 

「また来ます。」

陽菜がそう言った。

颯太には聞こえていたが、その言葉が誰に向けられたものか少し迷った。

マスターかもしれない。大輔かもしれない。

でも颯太は「ありがとうございます」と答えながら、少しだけその言葉を自分のものとして受け取った。


澪は扉のところで一度だけ振り返り、

「美味しかった。」とだけ言った。

それだけだった。

それだけなのに、颯太はその瞬間から数分間、カウンターの前で突っ立ったままになっていた。


「おい。」

大輔に肩を叩かれて我に返った。

「茫然としすぎやろ。」

「うるさい。」

「いや、ほんまに惚れてるんやな。」

普段は関西弁なんて使わない大輔が、呆れた時だけこうなる。

颯太はそれ以上何も言わず、空になったグラスとカップを片付けに行った。

澪が座っていた席には、小さな紙ナプキンが一枚残っていた。

何かが書いてある。

颯太はそれを拾い上げた。

「チーズケーキ、また食べたい。」

几帳面な丸文字で、そう書いてあった。

颯太はしばらくその紙を眺めた。

捨てるべきか、取っておくべきか。

一秒も迷わず、エプロンのポケットにしまった。

――――――

 

バイトが終わったのは夜の九時を過ぎた頃だった。

夜のネットカフェのバイトは今日は休みだったから、そのまま帰れる。

それだけで少し得した気分になる、普段の颯太なら。

でも今日は歩きながら、なんとなくぼんやりしていた。

海沿いの道を通って帰る。

この道は昼間に通ると景色がいいが、夜は夜で違う良さがある。

街灯がいくつか並んでいて、その光が海面にぽつぽつと映っている。

波の音が聞こえる。

車の音も人の声もない。

いつもなら耳にイヤホンを突っ込んで音楽をかけながら歩くのに、今日はそれをする気になれなかった。

静かな方が、今日の記憶を整理できる気がした。


「35分の価値がある。」

もう一度その言葉が脳内で再生される。

35分というのは何の35分なんだろう。

 

颯太はここから自分の家までの距離を頭の中で計算してみた。歩いて約15分。自転車で7分くらい。バス停は近くにあるが、本数が少ないのであまり使わない。

じゃあ澪の家はどこだ。

いや、知るわけがない。

当たり前のことに気づいて、颯太は苦笑した。


紙ナプキンのことを思い出してポケットに手を入れると、まだそこにあった。ちゃんとある。夢じゃない。

今日、確かに澪が来てくれた。チーズケーキを食べて、笑って、35分の価値があると言って、また来ると書いてくれた。

それだけの事実が、夜の海沿いの道を歩く颯太の足取りを、いつもより少しだけ軽くしていた。

――――――


家に帰ると、母が不機嫌な顔で玄関に立っていた。

どうやら、頼まれていた買い物を忘れていたらしい。

「全く、あんたはすぐ忘れちゃうんだから。しっかりしなさい!」

怒られながら、冷蔵庫に準備してもらっているご飯を取る。

レンジで温めている間も母のお叱りが聞こえてくる。

颯太は現実逃避をするように、箱の中でオレンジ色の光を灯されながら回るお皿を眺める。

これが俺の現実だ。

バイトが終わり、ご飯を食べ、お風呂に入り、眠りにつく。

ネットカフェのバイトがある時は、お風呂の後にまた外に出る。

そして朝が来たら学校に行く。

誰かに話せば笑われるような、何でもない毎日だ。

でも今日は、眠れなかった。

布団に入って目を閉じても、澪の声が耳の中で響いている。「美味しい」という声と、「35分の価値があるよ」という声が交互に浮かんでは消えた。


35分ってなんだろう?

流行りのドラマか?

専門学校に入り、バイト漬けになってからはTVなんて見なくなった。

見るのは風呂上がりのYouTubeくらいだ。

風呂に入り、いつものようにYouTubeを付ける。

颯太はため息をついた。

なぜか今日はいい動画が見つからない。

今日の自分の日常はいつもと同じだった。

補講をさぼったわけでも、バイトをさぼったわけでも、特別なことをしたわけでもない。

母に買い物を頼まれていたことを忘れた、その程度のいつも通りだ。

それなのに、今日は違う。


そうだ。

今日は違うんだ。

いや、今日からだ。


俺の日常に、非日常が忍び込んできた。

颯太はそう思いながら、天井を見つめた。

暗くて何も見えない。でも頭の中には澪の笑顔がある。

また会えるかな。

脳内に住みついた天使に、颯太は話しかけた。天使は答えない。でも笑っている、気がした。

またよぎる「35分の価値」という言葉。

今度会ったら聞いてみよう。

澪のあの几帳面な日記のことも、なぜ日記を書くのかも、なぜ陽菜がそんなに警戒しているのかも、全部ひっくるめて知りたいと思った。

でもまず、また会えるかどうかだ。

颯太は信じることにした。

信じるしかなかったし、信じたかった。

そう思い、颯太はようやく眠りについた。

 

次の朝、起きると母がドラマを見ていた。

録画か?こんな時間にドラマなんてやってないしな。

そう思いながら、食パンにバターを塗りその上にハムとマヨネーズのいつもの朝食を頬張る。

「あっ、そうだ。」

その声に母が耳を傾けるのを感じたので、そのまま続けた。

「35分って言葉が出てくるドラマとかある?」

ん〜という思考の後、「知らん」と一言返ってきた。

ドラマじゃないのかな。

とその場を収めようとすると、「牛乳」と追加の一言。

「へーい」

と言いながら、俺には関係ないと言わんばかりに颯太はコーヒーを飲む。


学校に向かう道でスマホのメモ帳に「牛乳」と打ち込んだ。その時に日記のことを思い出した。

そんなことを考えながら周りを見渡すと、いつのまにか

あの海沿いの道にいた。

昨日の夕日はとっくに消えて、朝の光が海に広がっていた。まるで昨日のことなど何もなかったかのように、いつもと同じ景色だった。

でも颯太のポケットの中には、まだあの紙ナプキンがあった。

これだけが現実だという証拠だった。

いつもと同じ道を、いつもと同じ時間に歩いている。

それなのに、足の下の地面の感触が少しだけ違う気がした。

颯太はイヤホンを耳に入れて、音楽をかけた。

それでも澪の声の方が、音楽よりも大きく聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ