ページ4 再会とチーズケーキ
「チーズケーキ!」
俺の女神がそうご所望だ。
その声はいつも通り、店内のどこにいても届くような澄んだ声だった。カウンターの奥に立っていた颯太の背筋が、反射的にすっと伸びる。あの声を聞くたびに体がそう反応してしまう。まるで条件反射のように。
いや、違う。条件反射じゃない。
あの声が好きなんだ。
颯太はそう自分に言い聞かせながら、冷蔵庫へと向かった。
オリジナルのチーズケーキを作る。
今日の日替わりケーキではないが、この日のためにチーズケーキ用の材料はストックしていた。
澪がまた来てくれた時のために。
いや、来てくれると信じて。
我ながら気持ち悪いとは思うが、これを用意することが颯太にとって、毎日バイトの日課となっていた。
やっとこの日課が日の目を見る時が来た。
材料はシンプルだ。
・クリームチーズ 大さじ3
・ヨーグルト 大さじ2
・砂糖 小さじ2〜3
・レモン汁 少々
・お好みのジャムやビスケット 適量
冷蔵庫から指定の材料を取り出す。
まずクリームチーズをレンジで10秒温めてやわらかくする。たった10秒だ。でも時間をはかる間、颯太の頭の中には席に座っている澪の横顔が浮かんでいた。
今頃陽菜と何を話しているんだろう。
自分のことを話題にしてくれているんだろうか。
いや、さすがにそれは都合が良すぎる。
チン、という音で我に返る。
やわらかくなったクリームチーズにヨーグルトと砂糖を加え、スプーンでくるくると、すばやく混ぜる。
混ぜるたびに生地がなめらかに、艶やかになっていく。
白くて柔らかいそれが均一になっていく様子を眺めながら、颯太は無心になった。
厨房に立っている間だけは、余計なことを考えなくていい。
手を動かしながら、自然と集中する。
それがこの仕事の好きなところだった。
レモン汁を少しだけ垂らして、さらにひと混ぜ。
ふわりと酸味の香りが立ちのぼる。
グラスに市販のビスケットを砕いて入れ、その上に生地をそっと流し込む。
上からブルーベリージャムをひとさじ───色彩がきらりと輝いた。
白い生地に、濃い紫のジャムが落ちる瞬間。颯太はいつもその瞬間だけ、なんとなく息を止める。絵みたいだな、と思うから。
完成まで、わずか5分。
のはずだが今日は10分もかかってしまった。
何度も味見はした。
そして見た目にも気を使った。
完璧だ。
出来上がった白い宝石を彼女に届ける。
彼女は餌を待ちきれない動物かのように、その宝石に夢中だった。
そして来るなり、それをひとくち。
「美味しい!」
しばらくの目を瞑った後に、透き通った天使の声が店内に広がる。
注文時の元気さに加えて、幸せそうな音色を奏でていた。
その言葉だけで、俺の心は満たされた。
本当に美味しそうに食べる彼女の横顔を、俺はしばらく眺めていた。その時間は、永遠にも思えた。
スプーンがグラスの淵にこつんと当たる音。
口に運ぶたびに少しだけ目を細める、その表情。
ケーキを食べる人間をこれほど見ていたいと思ったのは初めてだった。
颯太は自分がカウンターを拭く振りをしながら、その姿をずっと視界に収めていたことに気づいて、少し恥ずかしくなった。
颯太の恋心は、気づけばもう底なし沼の深海に沈んでいくように、彼女に捕らわれていた。
「美味しい。」
悔しそうに澪もケーキを褒めてくれた。
最初から明らかに警戒している様子だった陽菜が、思わず本音を漏らしたのだと分かった。
こっちを見ないようにしていたくせに、ケーキの前では素直になるんだなと颯太は少しおかしくなった。これで邪魔者も手懐けられたと、少しほっとした。
「よかったです。もう来てくれないかと思ってました。」
その言葉に陽菜がギクっとしたような気がした。
やっぱりそうか。
こいつ、わざと来ないようにしてたんだな。
颯太は少し陽菜を睨む。
当の陽菜は目を逸らし、急にコーヒーカップを両手で包んで視線をそちらに落とした。
分かりやすい。
でもそんな陽菜の制止を押し切って来てくれたんだろう。
「楽しみにしていた。」「やっとこれた。」
そんな言葉を澪の口から聞けることを颯太は期待していた。
もしかして「あなたに会いたかった」なんて言葉すら期待していた。
しかし、澪の反応は全く違うものだった。
こちらを見てきょとんとしている。
そして口の中に残っているチーズケーキをゆっくりと咀嚼すると、満面の笑みをこちらに浮かべた。
悪気は、まるでない。
その笑顔に悪気がないことは一目瞭然だった。むしろ純粋すぎるくらい純粋な顔だ。だからこそ、なおさら始末に負えないとも思った。
この子は天使じゃない小悪魔だ、と颯太は自分の中の澪を変換させた。
気を取り直して、颯太は尋ねる。
「あの、俺の名前、覚えてますか?」
そう告げると、澪は手元に置いていた小さな日記を取り出し、パラパラとページをめくり、何事かを確認している。
颯太はその間、なんとも言えない気持ちで立っていた。
覚えてもらえているのか。
覚えてもらえていないのか。
日記をめくるということは記録してくれているということか。
だとしたら悪くない。
でも顔を見て思い出してもらえなかったということは、あの日の自分はそこまで印象に残っていなかったということか。
目の前で日記がめくられるたびに、颯太の中でせわしなく感情がひっくり返った。
そして、パッと顔を上げ、驚いたような、嬉しそうな顔で澪は言った。
「あなたが、望月颯太君!」
よかった、と思うと同時に、顔までは覚えてもらっていなかったのかと少しショックだった。
名前は覚えてもらっていた。
でも、それは日記に書いてあったから思い出せたのだ。
つまり、颯太の顔は日記の文字には及ばなかったということになる。
大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせながら、颯太はカウンターの向こうで姿勢を正した。
今日の俺はきっと覚えてもらえるだろう。
今日のチーズケーキが、俺の代わりに印象を残してくれているはずだ。
澪はケーキを食べ終わると、空になったグラスをそっとソーサーに置き、颯太を見て言った。
「本当に美味しかった!これは35分の価値があるよ。」
35分の価値。
その言葉の意味は分からなかった。
けれど颯太は、その言葉がどこか嬉しくて、少し気になった。35分というのは具体的すぎる数字だ。バスで来たのか、歩いてきたのか。それとも澪の中には何か独自の価値基準でもあるのだろうか。
聞いてみようか、と口を開きかけて、やめた。
今は、素直にこの褒め言葉だけを受け取っておこうと思った。
小悪魔が──
いや、やっぱりこの笑顔は天使だ。
その天使が褒めてくれたことを颯太は素直に喜んだ。
この天使との時間は颯太に非日常な時間を味わわせてくれた。バイトの制服を着て、カウンターの中に立っているいつも通りの自分なのに、今日だけは少しだけ違う世界にいるような気がした。
ジャズの音が流れていた。窓の外では夕日が海に近づきはじめ、店内がオレンジ色に染まっていく。
颯太はその光の中で、もう少しだけ、この時間が続けばいいと思っていた。




