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35分の記念日  作者: 芒雲 紘真
第一章 35分の出会い
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ページ4 再会とチーズケーキ

「チーズケーキ!」

俺の女神がそうご所望だ。

その声はいつも通り、店内のどこにいても届くような澄んだ声だった。カウンターの奥に立っていた颯太の背筋が、反射的にすっと伸びる。あの声を聞くたびに体がそう反応してしまう。まるで条件反射のように。

いや、違う。条件反射じゃない。

あの声が好きなんだ。

颯太はそう自分に言い聞かせながら、冷蔵庫へと向かった。

オリジナルのチーズケーキを作る。

今日の日替わりケーキではないが、この日のためにチーズケーキ用の材料はストックしていた。

澪がまた来てくれた時のために。

いや、来てくれると信じて。

我ながら気持ち悪いとは思うが、これを用意することが颯太にとって、毎日バイトの日課となっていた。

やっとこの日課が日の目を見る時が来た。

 

材料はシンプルだ。

・クリームチーズ 大さじ3

・ヨーグルト 大さじ2

・砂糖 小さじ2〜3

・レモン汁 少々

・お好みのジャムやビスケット 適量

 

冷蔵庫から指定の材料を取り出す。

まずクリームチーズをレンジで10秒温めてやわらかくする。たった10秒だ。でも時間をはかる間、颯太の頭の中には席に座っている澪の横顔が浮かんでいた。

今頃陽菜と何を話しているんだろう。

自分のことを話題にしてくれているんだろうか。

いや、さすがにそれは都合が良すぎる。

チン、という音で我に返る。

 

やわらかくなったクリームチーズにヨーグルトと砂糖を加え、スプーンでくるくると、すばやく混ぜる。

混ぜるたびに生地がなめらかに、艶やかになっていく。

白くて柔らかいそれが均一になっていく様子を眺めながら、颯太は無心になった。

厨房に立っている間だけは、余計なことを考えなくていい。

手を動かしながら、自然と集中する。

それがこの仕事の好きなところだった。

レモン汁を少しだけ垂らして、さらにひと混ぜ。

ふわりと酸味の香りが立ちのぼる。

 

グラスに市販のビスケットを砕いて入れ、その上に生地をそっと流し込む。

上からブルーベリージャムをひとさじ───色彩がきらりと輝いた。

白い生地に、濃い紫のジャムが落ちる瞬間。颯太はいつもその瞬間だけ、なんとなく息を止める。絵みたいだな、と思うから。

 

完成まで、わずか5分。

のはずだが今日は10分もかかってしまった。

何度も味見はした。

そして見た目にも気を使った。

完璧だ。

 

出来上がった白い宝石を彼女に届ける。

彼女は餌を待ちきれない動物かのように、その宝石に夢中だった。

そして来るなり、それをひとくち。


「美味しい!」

しばらくの目を瞑った後に、透き通った天使の声が店内に広がる。

注文時の元気さに加えて、幸せそうな音色を奏でていた。


その言葉だけで、俺の心は満たされた。

本当に美味しそうに食べる彼女の横顔を、俺はしばらく眺めていた。その時間は、永遠にも思えた。

スプーンがグラスの淵にこつんと当たる音。

口に運ぶたびに少しだけ目を細める、その表情。

ケーキを食べる人間をこれほど見ていたいと思ったのは初めてだった。

颯太は自分がカウンターを拭く振りをしながら、その姿をずっと視界に収めていたことに気づいて、少し恥ずかしくなった。

 

颯太の恋心は、気づけばもう底なし沼の深海に沈んでいくように、彼女に捕らわれていた。

 

「美味しい。」

悔しそうに澪もケーキを褒めてくれた。

最初から明らかに警戒している様子だった陽菜が、思わず本音を漏らしたのだと分かった。

こっちを見ないようにしていたくせに、ケーキの前では素直になるんだなと颯太は少しおかしくなった。これで邪魔者も手懐けられたと、少しほっとした。


「よかったです。もう来てくれないかと思ってました。」

その言葉に陽菜がギクっとしたような気がした。

やっぱりそうか。

こいつ、わざと来ないようにしてたんだな。

颯太は少し陽菜を睨む。

当の陽菜は目を逸らし、急にコーヒーカップを両手で包んで視線をそちらに落とした。

分かりやすい。

でもそんな陽菜の制止を押し切って来てくれたんだろう。

「楽しみにしていた。」「やっとこれた。」

そんな言葉を澪の口から聞けることを颯太は期待していた。

もしかして「あなたに会いたかった」なんて言葉すら期待していた。

しかし、澪の反応は全く違うものだった。

こちらを見てきょとんとしている。

そして口の中に残っているチーズケーキをゆっくりと咀嚼すると、満面の笑みをこちらに浮かべた。

悪気は、まるでない。

その笑顔に悪気がないことは一目瞭然だった。むしろ純粋すぎるくらい純粋な顔だ。だからこそ、なおさら始末に負えないとも思った。

この子は天使じゃない小悪魔だ、と颯太は自分の中の澪を変換させた。


気を取り直して、颯太は尋ねる。

「あの、俺の名前、覚えてますか?」

そう告げると、澪は手元に置いていた小さな日記を取り出し、パラパラとページをめくり、何事かを確認している。

颯太はその間、なんとも言えない気持ちで立っていた。

覚えてもらえているのか。

覚えてもらえていないのか。

日記をめくるということは記録してくれているということか。

だとしたら悪くない。

でも顔を見て思い出してもらえなかったということは、あの日の自分はそこまで印象に残っていなかったということか。

目の前で日記がめくられるたびに、颯太の中でせわしなく感情がひっくり返った。

 

そして、パッと顔を上げ、驚いたような、嬉しそうな顔で澪は言った。

「あなたが、望月颯太君!」

よかった、と思うと同時に、顔までは覚えてもらっていなかったのかと少しショックだった。

名前は覚えてもらっていた。

でも、それは日記に書いてあったから思い出せたのだ。

つまり、颯太の顔は日記の文字には及ばなかったということになる。


大丈夫だ。

そう自分に言い聞かせながら、颯太はカウンターの向こうで姿勢を正した。

今日の俺はきっと覚えてもらえるだろう。

今日のチーズケーキが、俺の代わりに印象を残してくれているはずだ。

澪はケーキを食べ終わると、空になったグラスをそっとソーサーに置き、颯太を見て言った。

「本当に美味しかった!これは35分の価値があるよ。」


35分の価値。

その言葉の意味は分からなかった。

けれど颯太は、その言葉がどこか嬉しくて、少し気になった。35分というのは具体的すぎる数字だ。バスで来たのか、歩いてきたのか。それとも澪の中には何か独自の価値基準でもあるのだろうか。

聞いてみようか、と口を開きかけて、やめた。

今は、素直にこの褒め言葉だけを受け取っておこうと思った。

 

小悪魔が──

いや、やっぱりこの笑顔は天使だ。


その天使が褒めてくれたことを颯太は素直に喜んだ。

この天使との時間は颯太に非日常な時間を味わわせてくれた。バイトの制服を着て、カウンターの中に立っているいつも通りの自分なのに、今日だけは少しだけ違う世界にいるような気がした。

ジャズの音が流れていた。窓の外では夕日が海に近づきはじめ、店内がオレンジ色に染まっていく。

颯太はその光の中で、もう少しだけ、この時間が続けばいいと思っていた。

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