ページ33 希望と忘却
「学生時代、力を入れたことを教えてください。」
いわゆる「ガクチカ」。
学生のことをよく知らない大人が、学生のことを知るために聞いてくる。
知るというのは「力を入れたこと」ではなく、どれだけ言語化して活躍する未来を想像させられるかというテストだ。
「私はボランティア活動に力を入れました。」
このボランティアは善意なのか、就活のためのファッションボランティアなのか。
「私は自作のアプリ作成を行いました。」
IT企業の就活だ。こういう人もいるだろう。
この集団面接の最後の志望者は素で勝負できるほどのガクチカは持っていない。
しかし、取り繕うことはこの熱が許さなかった。
「私が学生時代に力を入れたことは、『写真を撮ること』です。今しかない瞬間を収め、それを見返して未来への希望にしてきました。」
「ではあなたの今、一番の希望は何ですか?」
「それは——」
就活生、望月颯太は面接を終えるとカバンにしまっていたスマートフォンを取り出して電源をつけた。
連絡が入っていた。
「手術は成功した。」
陽菜から届いたその一言に安堵する。
よし、次の希望だ。
面接室を出た颯太は、ビルの外へ歩きながらもう一度その一言を読み返した。
手術は成功した。たった七文字。
でもその七文字が、颯太の今日という一日全部を支えていた。
面接の間中、颯太の頭の中には澪のことがあった。
答えを言葉にしながら、その奥では別のことを考えていた。
早く会いたい。
我ながら最悪だと思った。でも止められなかった。
「今、一番の希望は何ですか?」という問いに、颯太は何と答えたのか。
面接官の前では、きちんと言葉にしたはずだ。
でも今その答えを思い出そうとすると、靄がかかったように出てこなかった。
颯太が今一番望んでいることは、言葉にするまでもなかった。
その次の希望の結果が分かるまでに、一週間がかかった。
その一週間、颯太は普通に過ごした。
大学に行き、バイトに行き、夜は自室で明日の準備をした。普通の一週間だった。
でも、毎日同じ場所でスマートフォンを確認した。陽菜からの連絡を待ちながら、何も届かない画面を何度も点けては消した。
眠れない夜もあった。
天井を見上げながら、澪のことを考えた。
手術が成功した、と陽菜は言った。
それは分かった。
でもその先が分からない。
目が覚めた時、澪に何が残っているのか。
残っていないのか。
颯太にはそれが一番怖かった。
――――――
一週間後、澪が目を覚ました。
颯太と大輔、彩花は3人で待ち合わせてからお見舞いに行くことにした。
陽菜は目を覚ます前からずっと通っていた。
病室に向かう廊下は、白くて長かった。
消毒液の匂いがした。
靴底が床に触れる音が、静かな廊下に響いた。三人は並んで歩いたが、誰も話さなかった。
颯太は自分の手がかすかに震えているのに気づいた。
緊張なのか、怖いのか、楽しみなのか、自分でも分からなかった。
多分全部だった。
病室に着くと、陽菜が楽しそうに話していた。
その相手は病室の窓から差し込む光に照らされていた。
まるで天使のように。
あの日のように。
輝かしい笑顔の、澪がいた。
颯太は、ドアを開けた瞬間に止まった。
一歩も動けなかった。
後ろから大輔に軽く背中を押されて、やっと室内に入った。
澪が振り返った。
その顔は颯太が知っている顔だった。
でも、その目は颯太を知らなかった。
「あの、」
澪は、3人のことを覚えてなかった。
「私、高瀬彩花。澪ちゃんの友達だよ。」
「藤原大輔。俺も友達?ってか元ライバル?笑」
「望月颯太……。俺は……。俺も……。」
自分が澪にとって何者か。
それを口に出来ずにいると、澪があることに気づく。
「それ何?」
颯太は脇に抱えていたアルバムを渡した。
澪はアルバムを受け取った。
最初は丁寧にページをめくっていた。
でも途中から手が止まった。
そのアルバムを見て、自分の知らない自分がいる。
澪は頭を抱えて泣き出した。
颯太は何も言えなかった。
何か言わなければいけない気がした。
でも何を言えばいいのか分からなかった。
大輔も彩花も、誰も口を開かなかった。
陽菜だけが、澪の背中にそっと手を置いた。
長く、その手を置き続けた。
あとから聞いた。
澪の記憶は事故が起きたあとからの物が残っていない。
つまりはあの頃の泣き虫な澪に戻ったんだ。
颯太の知らない澪に。
颯太が知っている澪は、日記を持ち歩いて、毎日をゼロから始めて、それでも笑っていた澪だ。
コーヒーを美味しいと言って、魚が跳ねた海辺で笑っていた澪だ。
でも今の澪は、その全部を知らない。
あの時間が澪の中にない。
颯太の中には全部あるのに、澪の中には何もない。
その非対称さが、颯太には堪えた。
それから颯太の足は病院から遠のいた。
就活もあったからだが、1番は向き合う覚悟が出来ていなかった。
正直に言えば、逃げていた。
病院に行けば澪に会える。
でも澪は颯太を知らない。
アルバムを渡して泣かせてしまったあの日が、颯太の中で繰り返し再生された。
自分が行くことが、澪を苦しめるのではないか。
そう思うと、足が止まった。
就活を言い訳にした。
でも就活の合間に、颯太は何度も病院のある方向を見た。行こうと思えば行けた。でも行かなかった。
しばらくぶりに行くと、陽菜はもちろん、大輔と彩花もすっかり澪と友達になっていた。
まだ細かい検査は続けているが、かなり記憶は引き継げているようなことを後で大輔から聞いた。
颯太が来なかった間に、みんなが澪と新しい時間を積み上げていた。颯太だけが、その時間の外にいた。自分で選んだことだ。でも、それが少し苦しかった。
颯太を見るなり澪はアルバムを開こうとした。
陽菜が止める。
「でも見なきゃいけない気がするの」
さっきまでの楽しい感じと違い、重苦しい雰囲気になる。
アルバムを見て、また頭を抱える。
「なんで、思い出せない。」
颯太はアルバムを取り上げようとしたが、澪は離さなかった。
「お願い。」
その一言が、颯太には刺さった。
取り上げようとした颯太の手が止まった。
澪はアルバムを抱きしめるようにして、頭を下げていた。
思い出せない、と言いながら、思い出したいと言っている。
そのどちらも本当のことだと、颯太には分かった。
でも颯太には、何もできなかった。
隣に座ることも、声をかけることも、うまくできなかった。
アルバムを渡した自分を、颯太はこの瞬間初めて後悔した。
自分が病院に行かなければ見ようとは思わないんじゃないか。
そう思い、また病院に行かなくなった。
颯太は分かっていた。
これは澪のためじゃない。
自分のためだ。
澪が苦しむのを見たくないのは、澪を思っているからじゃなく、自分がその場にいられないからだ。
情けなかった。
でも、どうしたらいいのか分からなかった。
颯太になかった覚悟は、新しく友達から始める覚悟だった。あのアルバムに囚われているのは颯太の方なのかもしれない。
アルバムの中の時間を、澪は持っていない。
でも颯太は持っている。
だから颯太は、あの時間を手放せないでいる。
手放したら、何もなくなる気がして。
でも手放さなければ、新しいものが始まらない気もして。
颯太はその狭間で、まだ立ち止まっていた。




