ページ32 点と線
病院の屋上は高いフェンスで囲われている。
唯一開けているのは、雲と青空に繋がる。
神様が天にいるとするならば、神様から丸見えな場所。
ここでは嘘なんかつけないと澪は思った。
「怖いですか?」
そう話しかけてきたのは、澪のカウンセリング担当である一ノ瀬だ。
澪は明日、手術を受ける。
「35分しか記憶が残らない」——そんな記憶障害が治る代わりに、もしかしたら記憶障害になってから、最悪は今までの記憶が全て消えてしまう。
「怖いのとは違う気がします。」
この場所は嘘を許さない。だから本心だった。
「昔、陽菜に言われたんです。ドラマの最終回を見る時って、あんなに楽しみにしていたはずなのに悲しい気持ちになるって。私は覚えられないから、その気持ちが分からなかったけど、今の私の気持ちは多分それと同じだと思うんです。」
会話のターンの交代を告げるように、少し強めの風が吹く。
「じゃあ今の感情は『悲しい』なのかな?」
「うーん」
悲しいでも間違いではなかった。でも一つ選ぶとしたら別の言葉だ。
「『寂しい』かな?それくらい楽しかったんです。ここ一年くらい。」
風は吹かなかった。
この風が澪の心の揺れだとするならば、この答えには何の揺らぎもない純粋な答えなのだろう。
「そーいえば出たよ!宿題の答え!」
「ほー、聞こうじゃないか。」
一ノ瀬が出した宿題。「なぜ愛は憎しみに変わるのか」
颯太と同じく、澪もこの宿題を一ノ瀬から出されていたのだ。
「恋って点で、愛って線だと思うの。そしてその線が繋がって丸になって。その中にいろんな想いが溜まって愛が育つの。でも線が繋がらなくて隙間から零れちゃう想い。それが憎しみになっちゃうんじゃないかな。」
「じゃあどうして愛の線は繋がらない時があるんだろうね。」
「それはまだ分かんないんだよね。
でもね、間違ってないと思うんだ。」
澪は続けた。
「日記を見返すとね、それぞれ単体の出来事だし、私はもちろん覚えてないし。だから点なの。でも気づくと読み進めてて、私の中で物語が出来ていく。それが線!それで私の日記のはずなのに、何故か颯太の想いも流れ込んできて。」
「そっか。」
「お互いの線が、想いが繋がった時、それが丸になるんだ。」
一ノ瀬には一つの映画でも見てきたかのように感じた。
きっと話しながら脳内で今までの思い出を——颯太との思い出を振り返ったのだろう。
ポツ。
灰色のコンクリートが黒くなる。
ひとつふたつ。
雫が黒い斑点を増やしていく。
「先生、私やっぱり怖い。」
「うん。」
「手術が怖いんじゃない。記憶が無くなるのが怖いんじゃない。」
「うん。」
「颯太に。みんなに嫌われるのが怖い。」
「うん。」
「きっと嫌われるのは、私であって私じゃないのに。それでも怖い。」
「うん。」
「やっと繋がった円が、線に戻るのが怖い。」
「うん。じゃあ楽しみなことは?」
澪は考えもしなかった。
怖い時は怖い以外出てこないと思っていた。
「記憶が消えなくて、みんなと笑えること。」
「そっか、なら祈ろう。」
「祈る?それだけ?」
「それだけ。それだけで人は少し強くいられるんだ。」
「そっか。なら祈る。」
澪は思い出したように続けた。
「あっ、でも忘れて思い出すってのもロマンチックだよね!陽菜とこの前初めて喧嘩したんですよ!また、喧嘩して友情パワーで思い出すとか。クリスマスのメンバーで集まって遊んでる時に、仲間パワーで思い出すとか。あとは、あとは。」
地面の黒い斑点は大きな塊になるほどに濡れていた。まるで澪の想いが大きく強くなっていくように。
まるで35分ずつというまばらな思い出がひとつに集まっていくように。
「颯太にまた恋して恋愛パワーで思い出すとか。」
「うん。それが一番いい。」
「じゃあ今度は僕の答えを言おう。」
泣きじゃくる澪に一ノ瀬はそう言って話し出した。
「愛は自分じゃ貯められない。そして愛が枯渇した時、
それが憎しみに変わってしまう。」
澪の涙は止まらなかった。
目から愛がこぼれ落ちている。
でもこの子は大丈夫だ。
きっと、大丈夫。
何かないかと周りを見渡した。
「笹川さん。見てごらん。」
一ノ瀬が顔を向ける方向にはフェンス越しに海が広がっていた。
「すごい。綺麗。」
必死に涙を拭いながら海を眺める澪を見て、一ノ瀬はそれ以上何も言わなかった。ただただ水平線上まで伸びる海の姿は、これから先の澪の、若者たちの未来を示しているような——そんな感じがした。
海を見ていた澪はそこに何かを見つけたようだった。
「先生、お願いがあるの。」
――――――
同じ夜、颯太は部屋でアルバムを作っていた。
テーブルの上に写真が広がっていた。
コンビニで現像してきた写真が、三十枚以上。
スマートフォンの画面と見比べながら、一枚ずつ順番を考えた。
最初の一枚は決めていた。
水族館のクラゲ。
あの日が始まりだったから。
次は、公園。
空を見上げている澪。
陽菜に「ちゃんと顔写して」と言われる前の、気づかれていない瞬間の顔。
コンビニでへんな顔をしているやつ。
どや顔のアイスのやつ。
電車の中でうとうとしているやつ。
バイト帰りに二人で歩きながら、何かを喋っている澪の横顔。
一枚ずつ並べるたびに、その日のことが戻ってきた。
あの時何を話していたか。
どんな天気だったか。
澪が何に笑って、何に驚いたか。
写真には音も温度も映らない。でも見ると、音と温度が戻ってくる。
これが写真を撮っておく理由なのだと、今更ながら思った。
台紙に貼って、余白に言葉を書き添えた。
日付と、短いひとこと。
――水族館で二時間迷子になった日
――陽菜が張り切りすぎたピクニックの帰り
――初めてケーキを食べてくれた日
文章が得意なわけじゃない。
うまいことを書こうとすると嘘になる気がして、全部ありのままにした。
最後のページは空白にした。
まだ続くから、という意味で。
表紙に文字を書いた。
「35分の記念日」
澪が35分しか記憶を保てなかった時間のこと。
でも颯太にとっては記念日の積み重ねだった。
35分ごとに、また会いに来てくれた日々のこと。
書き終えて、テーブルの上のアルバムを眺めた。
上手くできているかどうかはわからない。
澪が喜ぶかどうかも、思い出してくれるかどうかも、わからない。
でも、これが今の颯太にできる全部だった。




