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35分の記念日  作者: 芒雲 紘真
第七章:35分の記念日
33/37

ページ32 点と線

病院の屋上は高いフェンスで囲われている。

唯一開けているのは、雲と青空に繋がる。

神様が天にいるとするならば、神様から丸見えな場所。

ここでは嘘なんかつけないと澪は思った。

「怖いですか?」

そう話しかけてきたのは、澪のカウンセリング担当である一ノ瀬だ。

澪は明日、手術を受ける。

「35分しか記憶が残らない」——そんな記憶障害が治る代わりに、もしかしたら記憶障害になってから、最悪は今までの記憶が全て消えてしまう。

「怖いのとは違う気がします。」

この場所は嘘を許さない。だから本心だった。

「昔、陽菜に言われたんです。ドラマの最終回を見る時って、あんなに楽しみにしていたはずなのに悲しい気持ちになるって。私は覚えられないから、その気持ちが分からなかったけど、今の私の気持ちは多分それと同じだと思うんです。」

会話のターンの交代を告げるように、少し強めの風が吹く。

「じゃあ今の感情は『悲しい』なのかな?」

「うーん」

悲しいでも間違いではなかった。でも一つ選ぶとしたら別の言葉だ。

「『寂しい』かな?それくらい楽しかったんです。ここ一年くらい。」

風は吹かなかった。

この風が澪の心の揺れだとするならば、この答えには何の揺らぎもない純粋な答えなのだろう。

「そーいえば出たよ!宿題の答え!」

「ほー、聞こうじゃないか。」

 

一ノ瀬が出した宿題。「なぜ愛は憎しみに変わるのか」

颯太と同じく、澪もこの宿題を一ノ瀬から出されていたのだ。

「恋って点で、愛って線だと思うの。そしてその線が繋がって丸になって。その中にいろんな想いが溜まって愛が育つの。でも線が繋がらなくて隙間から零れちゃう想い。それが憎しみになっちゃうんじゃないかな。」

「じゃあどうして愛の線は繋がらない時があるんだろうね。」

「それはまだ分かんないんだよね。

 でもね、間違ってないと思うんだ。」

澪は続けた。

「日記を見返すとね、それぞれ単体の出来事だし、私はもちろん覚えてないし。だから点なの。でも気づくと読み進めてて、私の中で物語が出来ていく。それが線!それで私の日記のはずなのに、何故か颯太の想いも流れ込んできて。」

「そっか。」

「お互いの線が、想いが繋がった時、それが丸になるんだ。」

一ノ瀬には一つの映画でも見てきたかのように感じた。

きっと話しながら脳内で今までの思い出を——颯太との思い出を振り返ったのだろう。

ポツ。

灰色のコンクリートが黒くなる。

ひとつふたつ。

雫が黒い斑点を増やしていく。

「先生、私やっぱり怖い。」

「うん。」

「手術が怖いんじゃない。記憶が無くなるのが怖いんじゃない。」

「うん。」

「颯太に。みんなに嫌われるのが怖い。」

「うん。」

「きっと嫌われるのは、私であって私じゃないのに。それでも怖い。」

「うん。」

「やっと繋がった円が、線に戻るのが怖い。」

「うん。じゃあ楽しみなことは?」

澪は考えもしなかった。

怖い時は怖い以外出てこないと思っていた。

「記憶が消えなくて、みんなと笑えること。」

「そっか、なら祈ろう。」

「祈る?それだけ?」

「それだけ。それだけで人は少し強くいられるんだ。」

「そっか。なら祈る。」

澪は思い出したように続けた。

「あっ、でも忘れて思い出すってのもロマンチックだよね!陽菜とこの前初めて喧嘩したんですよ!また、喧嘩して友情パワーで思い出すとか。クリスマスのメンバーで集まって遊んでる時に、仲間パワーで思い出すとか。あとは、あとは。」

地面の黒い斑点は大きな塊になるほどに濡れていた。まるで澪の想いが大きく強くなっていくように。

まるで35分ずつというまばらな思い出がひとつに集まっていくように。

「颯太にまた恋して恋愛パワーで思い出すとか。」

「うん。それが一番いい。」


「じゃあ今度は僕の答えを言おう。」

泣きじゃくる澪に一ノ瀬はそう言って話し出した。

「愛は自分じゃ貯められない。そして愛が枯渇した時、

 それが憎しみに変わってしまう。」

澪の涙は止まらなかった。

目から愛がこぼれ落ちている。

でもこの子は大丈夫だ。

きっと、大丈夫。

 

何かないかと周りを見渡した。

「笹川さん。見てごらん。」

一ノ瀬が顔を向ける方向にはフェンス越しに海が広がっていた。

「すごい。綺麗。」

必死に涙を拭いながら海を眺める澪を見て、一ノ瀬はそれ以上何も言わなかった。ただただ水平線上まで伸びる海の姿は、これから先の澪の、若者たちの未来を示しているような——そんな感じがした。


海を見ていた澪はそこに何かを見つけたようだった。

「先生、お願いがあるの。」

――――――


同じ夜、颯太は部屋でアルバムを作っていた。

テーブルの上に写真が広がっていた。

コンビニで現像してきた写真が、三十枚以上。

スマートフォンの画面と見比べながら、一枚ずつ順番を考えた。

最初の一枚は決めていた。

水族館のクラゲ。

あの日が始まりだったから。

次は、公園。

空を見上げている澪。

陽菜に「ちゃんと顔写して」と言われる前の、気づかれていない瞬間の顔。

コンビニでへんな顔をしているやつ。

どや顔のアイスのやつ。

電車の中でうとうとしているやつ。

バイト帰りに二人で歩きながら、何かを喋っている澪の横顔。

一枚ずつ並べるたびに、その日のことが戻ってきた。

あの時何を話していたか。

どんな天気だったか。

澪が何に笑って、何に驚いたか。

写真には音も温度も映らない。でも見ると、音と温度が戻ってくる。

これが写真を撮っておく理由なのだと、今更ながら思った。

台紙に貼って、余白に言葉を書き添えた。

日付と、短いひとこと。

――水族館で二時間迷子になった日

――陽菜が張り切りすぎたピクニックの帰り

――初めてケーキを食べてくれた日

文章が得意なわけじゃない。

うまいことを書こうとすると嘘になる気がして、全部ありのままにした。

最後のページは空白にした。

まだ続くから、という意味で。


表紙に文字を書いた。

「35分の記念日」

澪が35分しか記憶を保てなかった時間のこと。

でも颯太にとっては記念日の積み重ねだった。

35分ごとに、また会いに来てくれた日々のこと。

書き終えて、テーブルの上のアルバムを眺めた。

上手くできているかどうかはわからない。

澪が喜ぶかどうかも、思い出してくれるかどうかも、わからない。

でも、これが今の颯太にできる全部だった。

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