ページ25 泣き虫と笑顔
笹川澪はよく泣く子だった。
転んだら泣く。
怒られたら泣く。
友達と喧嘩したら泣く。
テレビで動物が死んだら泣く。
泣く理由はいくらでもあった。
それでも両親からしたら可愛い一人娘だった。
父親は、娘が産まれた日のことをよく覚えている。
2月29日。四年に一度しか来ない日に、澪はやってきた。
「損じゃないか」と周りには言われた。
でも父親には特別に思えた。
四年に一度しかない誕生日。
そんな稀な日に来た子だから、きっと特別な人間になる。根拠のない確信だったが、父親はずっとそう思っていた。
名前は澪にした。
水がすっと流れる音のように、穏やかで周囲を癒す存在になってほしい。そんな願いを込めた。
願いの半分は叶った。
澪は確かに周りを癒す存在になった。
ただし、泣くことによって。
泣いている澪を見ると、誰かが駆け寄ってくる。
慰める。笑わせようとする。
気づけば澪の周りにはいつも誰かがいた。
泣き虫が人を集めていた。
父親はそれを見て、これはこれで願い通りかもしれないと思っていた。
中学になっても泣き虫は健在だった。
でも少し笑顔が増えた気もする。
「澪はかわいいからいくらでも泣きな。」そう言ってくれた友達がいたと母親は聞いた。
確か名前はユイちゃん。
苗字も漢字も、今になっては澪も覚えてないそうだ。
その頃の澪はよく家に友達を連れてきた。
玄関が急に賑やかになって、父親が顔を出すと「お父さんだ」と笑われる。
照れくさかったが、嫌いじゃなかった。
澪が笑っている。それだけで十分だった。
母親もよく澪の友達にお菓子を出していた。
台所で嬉しそうにしている母親の背中を見て、父親はこれが普通の幸福というものだと思っていた。
特別なことは何もない。
ただ、娘が笑っている家に帰れる。それだけで一日の疲れが消えた。
そんな日常は長くは続かなかった。
父親は仕事中、母親からの電話を受ける。
「澪が交通事故にあって救急車で運ばれた。」
その声はとても震えていて、真実だと信じるのに時間はかからなかった。
でも事実だと理解するのには時間がかかった。
事実だと確信を得られたのは病院で澪を見た時だった。
酸素マスク。点滴。白い天井。
見慣れた娘の顔が、見慣れない場所に横たわっている。
その光景が、父親の頭の中で何度も上書きされた。
帰り道に見る澪の顔が、学校に送り出す朝の澪の顔が、全部この光景に塗り替えられていくような気がした。
なぜ自分の娘なのか。
その問いに答えはなかった。
答えを探す気力も、その夜はなかった。
病院に着くと澪と同じ制服の女の子がいた。
「もしかして君がユイちゃんかい?」
父親は尋ねた。
「いいえ、私は橘陽菜と言います。」
そう言うと少女は事故の経緯について話してくれた。
事故の概要を話終わるまでは淡々と言葉を並べていたのに、急に声が震え出した。
「ごめんなさい。」
責任を感じているんだろう。
でも話を聞いて、父親はこの子が悪いとは思えなかった。
ましてや嘘をついているとも疑わなかった。
「こちらこそ、ごめんね。」
何に対して謝っているかは分からなかったが、少女を慰めるのにそれ以外の言葉が見つからなかった。
陽菜はしばらくその場を動かなかった。
「今日はもう帰りなさい」と言っても首を横に振った。
父親も、母親もそれ以上何も言わなかった。ただ三人で、廊下の長椅子に座っていた。何も話さなかった。
でも、その静けさの中に、この子は本当に澪のことを心配しているのだとの父親には分かった。
言葉よりも、その場を離れないことが、何より雄弁だった。
幸いなことに澪の怪我は大したことなく、学校にもすぐに復帰できた。
退院してからは、よく家にも来てくれていてその中に例のユイちゃんも見かけた。
そしてしばらくしてから、澪の記憶障害が発覚した。
家に訪ねてくる友達も減った。
もしかしたら澪の方から避けていたのかもしれない。
澪はまた、泣き虫になった。
でも前とは違い、部屋で1人で泣くことが増えた。
少し不登校気味にもなっていった。
扉越しに聞こえる澪の声が、父親には一番つらかった。
声をかけようとして、ノブに手をかけて、でも開けられない。
開けたら澪が泣き止む気がした。
泣き止んで、また一人で抱えてしまう気がした。
だから父親は何度も、廊下に立ったまま、引き返した。
父親というのはこういう時に無力だと、父親は初めて知った。
ピンポーン。
自宅のチャイムがなる。
朝と夕方の2回。
夕方は宿題や連絡事項を届けに。
朝は一緒に学校に行かないかと誘ってくれた。
澪は不登校にはならなかった。
きっと陽菜が居てくれたからだ。
父親は毎朝、陽菜が来るのを玄関で待つようになっていた。
玄関を開けて「おはようございます」と頭を下げる陽菜に、父親はいつも「ありがとう」と返した。
それだけだった。でもその一言の中に、父親が言えないすべてが入っていた気がした。
でももしかしたら、陽菜は責任感で友達でいてくれるのかもしれない。
彼女の人生を大きく変えてしまうかもしれない。
でも澪の笑顔を見て、父親は陽菜の責任感に甘えることにした。
しばらくすると、笹川家に泣き虫が増えた。
母親だった。
毎日記憶がリセットされる娘を見て泣いていた。
楽しかったこと、悲しかったこと。
澪と共有することが自分だけの思い出になることに、心が着いていかなかった。
「いってきまーす。」
元気よく出ていく澪に同じ元気で返すことができなかった。
父親も最初は泣いた。風呂の中で、声を殺して泣いた。
誰にも見せなかった。母親が泣いているのに、自分まで崩れたら誰が支えるのかと思った。
でも本当は、泣くことの意味が分からなくなっていた。
泣いても澪の記憶は戻らない。
泣いても明日はまたゼロから始まる。それでも涙が出た。人間というのは意味のないことでも泣けるのだと、父親はその時初めて知った。
そして、いつしか澪は泣かなくなった。
むしろ、前よりも笑顔が増えた気がする。
母親のせいだろうか。
それとも陽菜のおかげだろうか。
父親は前者と分かっていて、後者を信じたくなった。
でも分かってしまう。
澪の笑顔は、太陽のように可愛かった。
でもそれは光だけで、温かさがなかったから。
どこか我慢を隠しているような笑顔。
でも、その笑顔のおかげか母親も泣くことが減っていった。
澪は笑うことを覚えた。
記憶がなくても笑える。泣かなくてもいい。
そう自分に言い聞かせているのかもしれなかった。
父親にはそれが分かった。澪の笑顔はきれいだった。
でも父親だから分かる。その笑顔は、誰かのために作っている笑顔だと。
誰かを心配させないための、覚悟の笑顔だと。
それが分かるたびに、父親は胸の奥で静かに泣いた。
澪が成人を超えたある日、母親と話しているのを父親は見かけた。
「颯太くん」という男の子の話をしていた。
その表情は以前と同じかそれ以上の温かさを持った笑顔だった。
それが嬉しくもあり、苦しくもあった。
きっと今、澪は幸せなんだろう。
でも、記憶障害が残る限り苦しい時間が来る。
幸せになればなるほど、その苦しさは重さを増す。
きっと今まで1番大きな涙を見せるだろう。
それを考えると苦しくてしょうがなかった。
颯太くん、という名前を父親は頭の中で何度か繰り返した。
どんな子だろう。
澪のことを知った上で、それでも一緒にいようとしているのだろうか。それとも、まだ何も分かっていないのだろうか。
どちらにしても、父親には簡単に受け入れられなかった。受け入れたくなかった、という方が正確かもしれない。
澪が幸せになること。
それは父親の願いだ。
でも幸せの先に必ず来るものがある。
記憶がリセットされるたびに、積み上げてきたものが崩れる。その痛みを、この子はまた一から引き受けることになる。
それが怖かった。
だから父親は胸で思った。
今後、彼氏なんて認めない。
たとえ澪が苦しむことになっても、それ以上の苦しみを澪に与えたくなかったから。
廊下から聞こえる澪の笑い声が、その夜も続いていた。
楽しそうだった。本当に楽しそうだった。
光だけじゃない。温かさのある笑い声だった。
父親はその声を聞きながら、目を閉じた。
嬉しいのか、悲しいのか、分からなかった。
多分、その両方だった。
父親というのはいつまでも、娘の幸せを願いながら、娘の幸せを恐れる生き物なのかもしれない。




