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35分の記念日  作者: 芒雲 紘真
第四章:35分の遊園地
17/33

ページ16 お連れ様と助言

「颯太くーん。顔が緩んでますよ。」

バイト中、なんとも言えない表情をしている颯太に大輔がクレームを入れる。

「だってさー。」

颯太は写真フォルダを眺めていた。

この夏のデートの写真だ。

「みなさん、信じられますか?これだけデートして毎回振られてるんです。」

「振られてねーよ!」

大輔の客もいない一人語りに、颯太がつっこむ。


実際、振られてはいない。

あれから。

2人だけの水族館を見たあの日から。

颯太はデートの度に告白をしているが、未だに澪の35分には残らない。

なんなら水族館もだ。

訂正、1人だけの水族館だ。

それでも颯太にはそんな日々が楽しくて仕方なかった。

 

カラン、コロン。

そんな颯太の気を引き締めるかのように、店のドアが開く鈴が鳴った。

「いらっしゃいませ。」

颯太は元気よく挨拶をする。

来店してきたのは澪だった。

いつものように窓際の席へ歩いていく澪。

颯太の姿を見つけると、彼女は満面の笑みで手を振った。颯太も嬉しくなって手を振り返そうとすると、大輔が颯太の頭を軽く叩いた。

「バイト中はバイトに集中しろ。」

大輔は真面目な顔で颯太に注意する。

颯太は「真面目だなぁ」と苦笑した。

でも今日の大輔は真面目とは違う感じもした。

 

澪が入ってきた後で扉がもう一度開く。

「え?」

それは颯太と大輔もよく知る人物だった。

その人物はサッと二人に会釈をすると、澪と同じ席に着いた。

颯太は二人に水を運び、「どういうご関係ですか?」と言わんばかりの目線を一ノ瀬という男に送った。

一ノ瀬は颯太と大輔の専門学校の講師だ。

颯太は内心穏やかではなかった。

澪の担当カウンセラーであることは知っている。

でも、こうして二人が並んで座っている光景は、何度見ても慣れそうになかった。

澪は一ノ瀬が来たことを当然のように受け入れていた。

日記には「病院でお世話になっている先生」と書いてあるのだろう。

颯太への笑顔と、一ノ瀬への笑顔は同じ明るさだった。

それがまた、颯太には複雑だった。

「……お連れ様でしょうか?」

颯太は不機嫌そうな声で声をかけた。

我ながら隠せていないと思った。

澪が楽しそうに答えた。

「一ノ瀬先生、病院でお世話になってるんです。」

話を聞くと、澪は一ノ瀬が研修医をやっている病院に通っているそうだ。

颯太には既に知っていることだったが、知らないふりをして相槌を打った。

「そう邪険にしなさんな。最近よく行くお店だと笹川さんが勧めてくれたんだよ。」

後ろで澪が敬礼している。

「そうですか。ごゆっくりどうぞ。」

颯太は明らかな作り笑いを向けて席を後にした。

大輔は先程とは打って変わって嬉しそうだった。

そんな大輔に目を細めてみせる。

 

颯太は厨房でコーヒーを二人分準備しながら、一ノ瀬のことを頭の中で整理しようとした。嫌いというわけではない。専門学校の講師としては、むしろ話しやすい部類だ。頭が回って、言葉が正確で、嘘をつかない。そういう人だということは颯太も知っている。だからこそ、余計に落ち着かなかった。

一ノ瀬が澪を見る目は、医師が患者を見る目だ。颯太にはそれが分かる。でも、澪はその目の違いに気づかないかもしれない。笑顔を向けてくれる人に、澪は同じ笑顔を返す。それが澪の良さでもあり、颯太の不安の根っこでもあった。

 

コーヒーをトレイに乗せて、フロアに戻る。

澪は一ノ瀬と楽しそうに話していた。何の話をしているのかは聞こえなかった。

ただ、澪がコロコロと笑っていた。

颯太はそのテーブルにコーヒーを置いて、「ごゆっくりどうぞ」とだけ言った。

澪が颯太を見て、「ありがとう」と言った。

その「ありがとう」はいつもと同じ声だった。

特別な感じも、よそよそしい感じも、何もなかった。

ただの「ありがとう」。颯太にとってはそれが嬉しかったし、複雑でもあった。

一ノ瀬は澪と少し話した後、颯太の方へ目を向けた。

颯太はトレイを持ったまま、その視線を受けた。

その視線が示す意味が何となく分かった。

たまに授業終わりに送られる目線。

何か話があるということだ。

颯太が席に近づくと一ノ瀬は少しだけ颯太を見て、それから静かに口を開いた。

「恋愛とは夢物語だ。いつか、現実を見なきゃいけない時が来る。その覚悟はしておけよ。」

そう言うと、一ノ瀬はテイクアウトのコーヒーを頼んで、店を後にした。

 

短い言葉だった。

でも颯太には、その言葉の重さが分かった。

一ノ瀬は颯太のことを心配しているのか、それとも澪のことを心配しているのか。あるいは両方か。颯太には判断がつかなかった。

でも「覚悟はしておけ」という言葉は、颯太の胸の奥に静かに刺さった。

颯太はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。

現実を見る。その言葉の意味を、颯太なりに考えてみた。澪が記憶を持ち越せないこと、颯太のことを毎朝日記で確認するしかないこと、告白の返事が来ないかもしれないこと。それが現実だということは、颯太も分かっている。分かった上で、それでも続けようとしている。

でも一ノ瀬が言う「現実」は、もっと別のことを指しているのかもしれない。

澪の記憶障害が、どういう経過をたどるのか。颯太はその詳しいことを知らない。良くなる可能性があるのか、変わらないのか、あるいは。颯太はそこまで考えて、頭の中でその先を遮った。

今は考えなくていい。

そう自分に言い聞かせて、颯太はトレイを持ち直した。

颯太はトレイを持ち直して、厨房の方へ戻った。

一ノ瀬の言葉は、颯太たちの恋愛を祝福しているようにも、警告しているようにも聞こえた。

颯太はそれをどちらとも受け取れないまま、厨房でコーヒーカップを洗い始めた。

水の音を聞きながら、颯太は思った。現実を見る、ということが何を指しているのか、今の颯太にはまだ分からない。分からないまま、続けている。でも一ノ瀬が言うということは、いつか分かる日が来るということなのかもしれない。

水の流れる音だけが、厨房に響いていた。

大輔が隣に来て、布巾でカップを拭き始めた。

「一ノ瀬先生、何か言ってたか。」

大輔は前を向いたまま、さりげなく聞いた。

「……覚悟しろって。」

颯太は短く答えた。

大輔は何も言わなかった。しばらく二人で黙ってカップを洗い、拭いた。

「難しいよな。」

大輔がぽつりと言った。

同情でも、慰めでもなかった。ただ、そうだと思ったから言った、という声だった。

「難しい。」

颯太も同じ調子で繰り返した。

それだけで、二人には十分だった。

フロアに戻ると、澪は窓の外を見ていた。

日記は膝の上に置かれていて、今は書いていない。

ただ、外の光の中でぼんやりと遠くを見ている。

その横顔はいつも通りで、何も変わらなかった。

颯太にはその横顔が、愛おしかった。

そして今この瞬間、一ノ瀬の言葉より、この横顔の方が、颯太にとってずっとリアルだった。

一ノ瀬が言う現実と、颯太が今見ている現実は、同じものではないかもしれない。

医師が見る現実は、データと経過と予後だ。颯太が見る現実は、窓の外を見ている澪の横顔だ。どちらが正しいとか、どちらが間違いとか、そういう話ではない。ただ、颯太には今この横顔の方が、ずっと確かに見えた。

澪がふと、颯太の視線に気づいたように振り返った。

「何?」

「いや、何でもない。」

澪は少し首を傾けてから、また窓の外に目を戻した。

颯太はカウンターへ引き返しながら、今日のことを日記に書いてくれるだろうかと思った。書いてくれなくてもいい。でも書いてくれたら嬉しい。そんなことを考えながら、颯太はまた緩みそうになる顔を、なんとか引き締めた。

カラン、コロン。

店のドアが鳴った。

新しいお客さんが来た。

颯太は「いらっしゃいませ」と声をかけながら、もう一度だけ澪の席に目をやった。

澪は今度は日記を開いて、何かを書いていた。

ペンを持つ手が、静かに動いていた。

颯太は前を向いた。

今日も、届ける仕事をする。

コーヒーと、料理と、そして想いを。

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