ページ14 恋と波音
朝一番の街の色は何色だろうか。
午前が始まる0時は暗く始まる。
起きた時間だと言うならば、人によっては明るいし
人によっては朝日が差し込む。
しかし、マスターの朝はもっと早い。
空はほのかに青がかった灰色をしており、下に降りるほどに少しずつ黄色くなる。
黄色から青にかけて坂を登り、自分のお店。
「カフェ・ドゥ・ソレイユ」の扉を開く。
今日のテーマを決めて、それにあったコーヒーを淹れる。
そしてそのコーヒーを飲みながら、黄に侵食されていく自然のカーテンを眺める。
たまにこうしていると若者が尋ねてくることがある。
若者はいつも迷っていた。
いや、正確には自分の答えに自信が持てなかった。
だからそんな若者が自分で見つけた恋という道はとても誇らしく歩いているように見えた。
この日、若者はその楽しみを諦めてバイトに来てくれた。
明らかにバイトに身が入っていない。
でもそんなことよりも若者が自ら進んだ道を諦める方が勿体ない、そう思った。
常連さんが気を遣う。
それに自分で気づいて、ハッとしている。
バイトとしては自分で気づけただけ良いと思った。
こんな日には甘いカフェラテがいい。
きつく強ばった心を解きほぐしてくれる。
しかし、先程確認したらそれに合う豆がない。
若者に店番を任せて、私は店を出る。
いつも御用達のお店で豆を買い、帰路に海沿いの道を通る。
そこで1人の少女を見かけた。
暮れの海は、藍と黒混ざり合うような色をしていた。
波は穏やかで、浜辺に打ち寄せるたびに細かい泡を作り、すぐに引いていく。
その繰り返しの中に、少女は一人座っていた。
膝を抱えているわけでも、泣いているわけでもない。
ただ静かに、海を見ていた。
「こんばんは。」
マスターは少女に声をかける。
その少女は最近お店に来てくれるお客であり、
少年の道だった。
「えっと。」
少女は戸惑っていた。
話には聞いていた。彼女は記憶障害を持っていると。
よく来る店とはいえ、その店のマスターのことも覚えていないのは当然だ。
「私はカフェ・ドゥ・ソレイユでマスターをしているものです。」
「あっ、颯太くんの。」
意外だった。
話を聞いた感じや店での様子から、手帳を見ると思った。
「もしかして颯太くんのことも覚えているのかい?」
「名前だけは。」
それだけ聞くとマスターはその場を1度立ち去る。
そして再び現れた時、その手には缶コーヒーを持っていた。
「微糖とブラックどっちがいい?」
「微糖で」
微糖のコーヒーを渡すと、マスターは横に座った。
「熱っ」少女の口から思わず出る。
もう初夏も過ぎていて、渡すならアイスだろ。
でもマスターはあえてホットを渡した。
「なんでホット?って顔してるね。」
少女も若者と同じく心を読まれたと思った。
「颯太くんもね、そんな顔してたよ。」
望月颯太。
少女の中で、その名前は分かっても顔は出てこない。
もちろんその表情も。
「コーヒーの美味しさはね、ホットでこそ。なんて言ったらおじさんくさいかな。でもホットのコーヒーならではの落ち着きってものを感じられるんだよね。」
そう言うとマスターはブラックの缶コーヒーを口に運ぶ。
少女も同じようにコーヒーを飲む。
そしてのみ終わったあとに、ふぅっと息吐く。
「美味しい。」
いつものケーキを食べた時とは違う、落ち着きのあるひとこと。
「今日デートの約束だったんです。でも急にバイトが入ったって。」
少女、澪は落ち着いたのか流暢に話し出した。
「こんなことしてたら迷惑ですよね。でも楽しそうで。」
「楽しそう?」
マスターは相槌のような質問を投げる。
「はい。日記の中の私が。いつも楽しそうで。今日の私もそうなりたくて、でも結局覚えられなくて。」
波音が澪の言葉を止める。
浜に綺麗な絵をかけたとして、波が来る度にそれは消えてしまう。
まるでその様子を表すかのように、暗い海辺にその音だけが漂う。
マスターは言葉に迷った。
その言葉は澪にとって呪いになるのではないかと思ったからだ。
でも静かに海を見つめるその瞳を見て、言わずにはいられなかった。
「それは『恋』じゃないかな。」
恋?
澪は一瞬マスターの方を向き首を傾げては、再び海を見つめた。
波の音を2、3回聞いたあと、また口を開いた。
「相手の顔も出てこないのに恋なんですかね?」
「恋に必要なのは伝えたい想いがあるかどうかだよ。」
マスターはそう言ってから、缶コーヒーを両手で包むように持った。
ブラックの苦みがまだ舌の上に残っている。
「きっと君は記憶には残っていなくても、どこかに残っている。だから日記を見ただけで楽しそうって思えるんじゃないかな。」
「たしかに。」
「それはきっと彼が伝え続けてくれた想いが君にとどいたってことじゃないかな。」
澪は何も言わなかった。
ただ、缶コーヒーを両手で包み直して、また海を見た。
その横顔は、困っているわけでも、悲しんでいるわけでもなかった。
ただ、何かを静かに確かめているような顔だった。
「そして今、君にも同じように伝えたい想いがある。今はまだ形も言葉も分からないけれど確かにそこにある。そういう顔をしているよ。」
澪は日記を振り返った。
「もしかしたら日記に書いてなくても、私は今日こうしたたんですかね。」
澪が静かに口にした。
「そうだな。記憶がなくても、君という人間が選ぶ道は、意外と変わらないのかもしれない。」
波が一つ、大きく打ち寄せた。白い泡が砂浜を走って、また引いていく。澪はその跡をじっと見ていた。
「じゃあ私は、これから何度忘れても、また同じところに来るんでしょうか。」
「さあ。でも、同じ人の名前を覚えているなら、そうかもしれないね。」
澪はそれを聞いて、小さく笑った。
マスターが今日初めて見る表情だった。
困ったような、でも少しだけ嬉しそうな、そういう笑い方だった。
「なんか、変ですね。覚えてないのに。」
「恋ってそういうものだよ。記憶の問題じゃなくて、気持ちの問題だから。」
マスターはそう言ってから立ち上がり、服についた砂を払った。
空には星が浮かび、海がそれを静かに映し出す。
「颯太くんに、伝えたい想いはあるかい?」
澪はしばらく黙って、それからゆっくりと頷いた。
言葉にはしなかった。
でも、その頷きだけで十分だった。
「では私はそろそろ戻るよ。残業してるバイトを帰さないといけないからね。」
それだけ言うと、マスターは静かに歩き出した。
脇に抱える豆を見て、
「君の出番は今日は無さそうかな。」
そう言いながら、波の音に合わせて、コツンコツンと足音を鳴らす。
若者への手土産を持って。




