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35分の記念日  作者: 芒雲 紘真
第三章:35分の水族館
12/33

ページ11 初デートと水族館

髪の毛は少しだけ外ハネをさせてみた。

ワックスも久々につけた。

上手く出来ずに一度ワックスを落とす。1回目にアイロンで作った外ハネは消えたが、2回目のセットはいい感じだ。

服は既に持っている物からお気に入りを選ぶ。

白いシャツに緑の羽織、黒いパンツ。

小洒落た方が良いか、無難にまとめるかギリギリまで悩んだ。

鏡の前で三十分近く費やして、颯太はようやく「これでいい」と言い聞かせた。

普段バイトに行くときは洗顔して着替えれば終わりだ。

こんなに時間をかけるのは、考えてみれば高校の卒業式以来かもしれない。

颯太は自分ように買った手帳を除く。

「デート!」

その文字は複数のまるで囲まれていた。

その日以外はほぼ空白のこの日記。

でもそこには確かに今日の予定が刻まれていた。

 

少し早めに待ち合わせ場所に着く。元々早めに着く予定だったから、それよりも早い30分前。

場所は彼女と初めて会った海辺の道。分かりやすい場所の方がいいのではと颯太は言ったが、澪がこの場所を選んだ。

海風が頬をなでた。

まだ少し肌寒い。

颯太はポケットに手を入れて、海の方を向いた。

波の音だけが聞こえた。

この場所に思いがあるのか、「もしかして澪さんも」。

なんてことを考えながら彼女を待つ。

海から流れる風はまるで颯太の背中を押すかのように強く押してくる。風に急かされて1歩前に出る。

顔を上げると目の前に天使がいた。

彼女の服装やメイク、髪型などはいつも通りだ。でもいつもとは違う。それはきっとこの状況がそうさせるのだろう。

「望月颯太くんだよね?」

澪は日記を手に持っていた。

颯太の名前が書かれているページを開いたまま、ちゃんと顔を見て確認した。

緊張しているのか、少しだけ声が固かった。

颯太には、その固さが愛おしかった。

「はい。行きましょうか。」

「お願いします!」

周りから見たらマッチングアプリの待ち合わせにも見える挨拶を交わして颯太たちは目的地に向かう。

今日の目的は水族館だ。

歩き始めると、澪は少し後ろをついてくるような歩き方をした。知らない人と並んで歩くのが少し怖いのかもしれない。

颯太はわざとゆっくり歩いた。

しばらくすると、澪の歩調が颯太に合わさってきた。

最初こそ緊張したやりとりだったが、澪はすぐに慣れて水族館が見えてくると、コマーシャルの水族館の歌を口ずさんでウキウキしていた。

颯太も釣られたのか、コマーシャルの謳い文句を心の中で呟いた。

受付で2人分のチケットを購入して、いざ魚の洞窟へ。

入り口のトンネルを抜けた瞬間、澪の歩みがぴたりと止まった。

青い光が満ちていた。頭上にも、両脇にも、大きなガラスが広がっていて、その向こうで無数の魚が泳いでいる。銀色の鱗がゆらめくたびに、光が揺れた。颯太は何度か来たことがあったが、この光景は毎回少し息をのむ。

澪は口を半開きにして、ゆっくりと天井を見上げた。

「すごい……」

小声だったが、颯太にははっきり聞こえた。その声に、感動の重さがあった。

颯太は何も言わなかった。ただ、澪の隣に並んで、同じ方向を見た。

しばらくして澪が颯太の方を向いた。

「颯太くんも好き、これ?」

「好きですよ。()()()もすきですか?」

「うん!好き!」

澪はそう言って、また水槽の方を向いた。

颯太は急な()()()()呼びに驚きながらも、その横顔をこっそり見た。

水の青が、澪の顔に柔らかく落ちていた。

大きな水槽の前で、色とりどりの魚たちを眺め、楽しそうに笑う。その笑顔を見るたびに、颯太は彼女に一目惚れした時の気持ちを思い出していた。

「この魚、すごく綺麗だね! 颯太くん、見て見て!」

そう言って、無邪気に颯太の腕を掴む澪。

その温かい感触が、颯太の心をくすぐった。

颯太はされるがままにされながら、その手の温度をできるだけ長く覚えていようと思った。

クラゲのコーナーでは、澪は一番長く立ち止まった。

透明な体が、ふわふわと水の中を漂っている。

照明がピンクや紫に変わるたびに、クラゲの色も変わった。

「なんか、好きだなあ。クラゲ。」

「どんなところが?」

「どこに行くか決めてなさそうなところ。」

颯太は笑った。

澪は笑っていなかった。

本気でそう思っているのだと分かった。

イルカショーの時間になると、澪は子どものように席を前の方に取りたがった。颯太は少し濡れることを覚悟しながら最前列に座った。案の定、イルカが水をはねるたびに澪は歓声を上げ、その度に颯太にも水しぶきが飛んできた。

「ごめん、颯太くんにも飛んだ。」

「いいですよ。楽しそうだから。」

澪は一瞬だけ颯太を見て、また前に向き直った。

颯太はその一瞬の視線を、心の中にしまった。

一日目は、あっという間に過ぎていった。

閉館時間になり、颯太たちは水族館を後にした。

陽菜に言われた「もう会わないで」という言葉が頭の片隅にちらつくが、この幸せな時間を終わらせたくなかった。

来た道を逆向きに歩いて、海辺の道まで戻ってくると、夕方の光が水面に広がっていた。オレンジと赤が混じって、波がそれを揺らしていた。澪は少しだけ立ち止まって、海を見た。

「今日、楽しかったね」

帰り道、澪はそう言って微笑んだ。颯太は、その言葉を、忘れられないように心に刻み込んだ。

「俺も。」

短くそう答えた。それ以上の言葉は要らなかった。

「また来たい。」

澪はそう言いながら、日記を取り出した。

颯太の目の前で、今日のことを書き始めた。

水族館に行ったこと、クラゲが綺麗だったこと、イルカショーで濡れたこと。

几帳面な文字が、小さなページに並んでいった。

颯太はその手元を見ながら、思った。

澪が書いている。

明日の澪がそれを読む。

そしてまた来たいと思う。

記憶はなくても、その気持ちはページをまたいで続いていく。

 

「また来よう。絶対!」

颯太が言うと、澪は顔を上げた。

「約束ね。」

「約束です。」

澪は満足そうに日記を閉じた。颯太は澪が角を曲がって見えなくなるまで、その場に立っていた。

夜になってから颯太は自分の日記にも今日のことを書き記した。

忘れないように。噛み締めるように。

澪の好きな場所、嬉しそうにした瞬間、腕を掴んできたときの驚き。

これを次回のデートに活かせるかもしれないと思った。

でも、それだけじゃなかった。

今日という日を、どこかに残しておきたかった。

澪が日記に書くのと、同じ理由で。

颯太は次の待ち合わせのことを考えながら、眠りについた。

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