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35分の記念日  作者: 芒雲 紘真
第二章:35分の日記
11/37

ページ10 常連と約束

「カフェ・ドゥ・ソレイユ」のドアが開く。

ドアにかかっている鈴がなる。

今日も1人のお客さん。

彼女は何度も来ている常連だが、彼女はいつもまるで初めてかのようにケーキを楽しむ。

それもそのはずだ。

彼女は前日の記憶を35分しか引き継げない。


颯太はカウンターの奥でその音を聞いた。

鈴の音は毎日鳴る。

でも今日は、少しだけ違う音に聞こえた。

彼女がケーキの味を覚えるまでに何回来店するのだろうか。

颯太は昨夜からずっとその問いを頭の中で転がしていた。マスターの言葉がまだ胸に残っていた。

不公平でもいいと思えたとき、そいつは本物だ。

澪がいつものように席に着く。

窓際の二人掛けのテーブル。

毎回同じ席を選ぶのは、日記にそう書いてあるからかもしれない。

あるいは、体が覚えているのかもしれない。

記憶には残らなくても、体には染み込むものがあるのだろうか。

颯太にはまだ分からなかった。


「いらっしゃいませ。ご注文は?」

「日替わりケーキをください。」

いつも通りの注文を受ける。

最初の方は来るなりチーズケーキを頼んでいた。

しばらくすると日記を見てから日替わりケーキを頼むようになる。

今では何も見ずに日替わりケーキを頼む。

普通なら段々と覚えてきてると思うだろう。

でも彼女には記憶は無い。

もしかしたら記憶に残ったのかも、と期待をしたが今日も入ってくる前に店の前で日記を見ている彼女を目撃した。

ただ日記の記憶。

颯太は少しだけ考えた。

それでも彼女はここに来る。

日記に書かれているから来る。

でも日記に書いたのは澪自身だ。

美味しかったから書いた。

来たいと思ったから書いた。

記憶がなくても、あの日の気持ちはちゃんと言葉になって、今日の澪をここへ連れてきている。

それでもここに通い続けてくれることに嬉しさを覚える。

 

颯太はプレートにケーキを乗せて、テーブルへ向かった。

「お待たせしました。本日の日替わりケーキのチーズケーキになります。」

餌を待ちきれない動物のように、ケーキが来るなりそれに目が釘付けだった。

その姿に愛おしく思う。

澪はフォークを手に取って、ケーキのいちばん角の部分を切り取った。

少し考えてから口に運ぶ。

颯太はその一連の動作を、厨房の入り口から盗み見た。

待ちに待ったケーキをフォークで取って口に運ぶ。

清楚な容姿に似つかわしくないほど大きな口にチーズケーキが運ばれる。

そんな見栄を張らないところもまた素敵だ。

そして颯太が彼女に惹かれる一番の魅力がこの後だ。

ケーキを頬張って、世界で1番幸せかというような笑みを浮かべる。

きっとこの先どんなに嫌なことが起きてもこの笑顔で全てが報われると颯太は思った。


「美味しい!」

 

その言葉で耳から全身を癒していく。

颯太は確かめていたのだ。

この感覚の正体が何なのか。

推しとしての感覚なのか。

それとも。

いや、答えは既に出ていた。

彼女の事情を知ってなお、彼女の記憶に残りたいと思う。彼女と一緒に過ごしたいと思う。

陽菜の言葉はまだ耳に残っていた。

中途半端な思い出はあの子を苦しめるだけだ、と。

颯太にはその言葉の重さが分かる。

分かっていて、それでも、この気持ちを引っ込める理由が見つからなかった。

さらに数日後、澪がまた一人で「カフェ・ドゥ・ソレイユ」を訪れた。

颯太は、彼女の病気のことを知って、どう接していいのかわからなかった。

しかし、彼女が再びフルーツタルトを美味しそうに食べ、幸せそうに微笑む姿を見て、颯太の心は決まった。

決まったとき、口が先に動いた。

 

「笹川さん、好きです!」

 

颯太は、カフェのカウンターから、大声で告白してしまった。

店内に声が響いた。

この時間の「カフェ・ドゥ・ソレイユ」には他に客がいなかったのが、せめてもの救いだった。

マスターと大輔がどこからか気配を消したのが分かった。気を遣われている。

それがまたひどく恥ずかしかった。

澪は、一瞬驚いたような顔をした後、クスッと笑った。

その笑い方は馬鹿にしているわけではなかった。

少し困ったような、でも嬉しそうな、複雑な表情だった。颯太はその顔を見て、余計に心臓が跳ね上がった。

「…ごめんなさい」

「…ああ、ごめんなさい。変なこと言って…」

颯太は申し訳なさそうに謝った。カウンターに戻ってしまいたかったが、足が動かなかった。

澪は少し間を置いてから、テーブルの上の日記に目を落とした。

ページをめくる音がした。

颯太はそれを見ながら、自分が告白したことも日記に書かれてしまうのだろうかと思った。

明日の澪がそのページを開いたとき、なんと思うのだろう。

「何か、手伝えることがあれば…」

 

颯太がそう言うと、澪は日記から顔を上げた。

その目が輝いていた。

さっきまでの「ごめんなさい」とは全く違う顔だった。

 

「水族館!」

 

颯太は一瞬、意味が分からなかった。

「水族館?」

「日記に書いてあったの。行きたいって。でも一人で行くのは怖くて、ずっと行けてないって。」

澪は日記のそのページを颯太に向けた。

几帳面な文字で「水族館に行きたい。でも一人では迷子になりそうで怖い。誰か連れて行ってくれる人がいたらいいのに」と書いてあった。

颯太は少しだけ笑った。

「俺でよければ。」

「本当に?」

「本当に。」

澪はパッと顔を明るくして、また日記を開いた。

今度は新しいページに何かを書き始めた。

颯太は覗き込まなかったが、きっとその約束が書かれたのだと思った。

「じゃあ、今度の土曜日!待ち合わせはどこにしようか。」

「どこでもいいですよ。笹川さんが分かりやすい場所で。」

澪は少し考えて、窓の外を見た。

「海の近くの道がいい。最初に来た時に通ったから、分かる気がする。」

颯太にはその理由が分かった。

記憶に残っていなくても、体がその道を覚えているのかもしれない。

あるいは日記に書いてあるのかもしれない。

でも澪がその場所を選んだことが、颯太には少し嬉しかった。

「分かりました。じゃあ土曜日、海辺の道で。」

「絶対来てね。」

「絶対行きます。」

澪は満足そうに頷いて、残りのフルーツタルトを口に運んだ。

また「美味しい!」と言った。

颯太はその声を聞きながら、土曜日まであと何日あるかを数えていた。

その日の夜、颯太は日記を一冊買おうかと思った。自分用の。

澪との時間を、自分の記憶だけに頼らず、言葉にして残しておきたかった。

それは澪が教えてくれた習慣だった。

覚えていることだけが積み重なりじゃない。

書き留めることも、積み重ねだ。

颯太はそう思いながら、土曜日の天気予報をスマホで確認した。晴れだった。

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