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35分の記念日  作者: 芒雲 紘真
第二章:35分の日記
10/32

ページ9 コーヒーと覚悟

颯太は深夜のネットカフェのバイト中に一人で考え込んでいた。

彼の恋した人は前日の記憶を35分しか引き継げない。

その事実と、今夜初めて向き合っていた。

どんな気分なんだろうか。

朝起きたら昨日あったことが思い出せない。

友達と話していた内容も忘れて話についていけない。

美味しいごはんも好きなテレビの内容も、

全部、全部思い出せない。

苦しいだろうな。


「…っ」

悔しくて、情けなくて、心が締め付けられる。


カウンターに肘をついて、颯太はモニターの画面を見るふりをしていた。

実際には何も見ていなかった。

深夜のネットカフェは静かで、個室の仕切りの向こうからかすかにキーボードの音や、ゲームの効果音が漏れてくる。

それだけが、颯太がここにいることを確かめてくれる音だった。

澪はこんな夜をどう過ごすのだろう。

昨日の記憶がなければ、今日だけが全部だ。

今日の自分しかいない。

それはどういう感覚なのか、颯太にはどうしても想像しきれなかった。

 

スマホのバイブが振動する。

バイトの後輩からだった。

「ドリンクの発注したはずなんですけど、出来てるか確認して貰えますか?」

ドリンクの発注は出来ていたのでその旨を返信する。

彼は以前、発注を忘れて怒られていたのを思い出した。

「覚えられないんじゃバイトも無理だろうな。」

気が付くとすぐに澪のことに繋げてしまっていた。

後輩は忘れていた。でもそれは怠慢だ。やろうと思えばできた。

そういうことと、澪の記憶障害は全く違う。

分かってはいる。

でも、「覚えていない」という事実は同じ言葉で括られてしまう。

世界は覚えていることを前提に動いている。

バイトも、学校も、友達関係も。

覚えていることが当たり前で、覚えていないことが例外だ。

澪はずっと、その例外の側にいる。

颯太はスマホをポケットにしまって、また静かなカウンターに向き直った。

時計の針は午前二時を過ぎていた。

あと三時間でバイトが終わる。

その日のバイトは少し早く終わった。

 

学校まで時間があるため夕方のバイト先である喫茶店に足を運んだ。

颯太は知っていた。マスターが朝からコーヒーを淹れていることを。

店も閉めて、客も入らないのにいつもこの人は朝にコーヒーを淹れる。

扉を押すと、豆の香りがふわりと広がった。

朝の光がガラス越しに差し込んでいて、埃がゆっくりと漂っている。

颯太はいつも、この瞬間だけ時間が少し遅くなる気がした。

「おかえり。」

マスターがそう言うと颯太はカウンターの席に座った。

「何か思い詰めているね。」

「まあ。」

驚きはしなかった。

このマスターにはいつも心を見透かされている。

颯太が大学受験の時に悩んでいた時もそうだった。

医学部志望だったがそこまでの成績はなかった。

両親や担任は医学部でなくてもと言ったが、大輔はITの専門学校で医療に関わる専攻もあると教えてくれた。

それでも、何かその解答が妥協に思えてならなかった。

その時もマスターのコーヒーを飲んだ。

「ミルクを入れるとカフェラテ、ココアを入れるとカフェモカ。名前は変わるけどコーヒーはコーヒーなんだ。何を悩んでいるのか分からないけど、自分のやりたいことを突き詰めたらいいんじゃないかな。」

マスターのこの言葉があって今の颯太があると言っても過言ではなかった。

 

今日はなかなかコーヒーが出てこない。

マスターを見ると少しお湯を注いでは蒸らし、少し注いでは蒸らしを繰り返していた。

颯太はその手元をぼんやりと眺めた。

急がない。

焦らない。

ただ、丁寧に時間をかける。

コーヒーを淹れるというのはそういうことなのだと、颯太はこの人の隣にいると思う。

「マスター、一つ聞いていいですか。」

「どうぞ。」

「毎日会っても、毎日忘れてしまう人がいたとして。」

颯太は言葉を選びながら続けた。

「その人と一緒にいる意味って、あるんですかね。」

マスターはお湯を注ぐ手を止めなかった。しばらく沈黙があって、やがてゆっくりと口を開いた。

「積み重ならないと思うのかい?」

「向こうの記憶には残らないから。」

「じゃあ颯太くん、君の記憶に残るのは?」

颯太は答えられなかった。

「覚えているのは君だけで、向こうは覚えていない。それが不公平だと思うのかい。」

「……思います。」

「そうか。」

マスターはそれだけ言って、コーヒーをカップに注いだ。濃い琥珀色が、白いカップの中にゆっくり満ちていく。

「不公平でもいいと思えたとき、そいつは本物だと思うけどな。」

颯太はその言葉を黙って受け取った。

カップが目の前に置かれる。

湯気が細く立ち上って、すぐに消えた。

颯太は少しずつコーヒーを飲んだ。

苦かった。

でも、後から温かさが残った。


そこから少し沈黙のコーヒーブレイクを挟む。

営業前で流れていない音楽の代わりを

小鳥たちのさえずりが務めてくれる。


「マスターって前向きですよね。」

「前向きかは分からないけど、後ろ向きではないね。」

「一緒じゃないさ。」

そういうと、少しずつ落ちるコーヒーを見つめる。

「コーヒーはね、時間をかければかけるほど、美味しくなるんだ。」

颯太は黙って、一滴一滴を見つめる。

「立ち止まるのは、前向きとは言えない。けれども後ろ向きな考えを忘れてまた前に進む力をくれる。」

それだけ言って、マスターはまたカップを颯太の前に置いた。

マスターの言葉は、颯太の心に、温かい光を灯してくれた。

もちろんコーヒーも温かい。


1度立ち止まってみる。

そうは言っても、具体的にはどうしたらいいんだろう。

颯太は考えた。

コーヒーを机に置いて、前を見る。

マスターがニヤニヤとこちらを見ている。

「具体的にはどうしたら?」

颯太は嫌そうに聞いた。

もう二人の間では「具体的にはどうしたらいいか知ってますか?」「知ってるとも」という会話が繰り出され、現実では省略された。

あの笑顔はそういう意味がある。

それともう1つ。

颯太はなんて言われるかも何となく分かっていた。

でもこれだけは確かめる。

念の為。

「1度バイトに集中してみるというのはどうだろう。」

「言うと思いましたよ。」

「どうせ。また来てくれるまでは何も出来ないでしょ。」


やっぱり見透かされている。

具体的に誰の話かも関係性も何も話してないのに。

この人には叶わない。


颯太はその日、急遽バイトを入れた。

夜勤明けの日は休むことが多いが、今日は帰ったところで寝れない気がした。

学校の時間は新しいケーキを考えた。

バイト中はケーキを作りながら新しいケーキの作り方を考えた。

 

その中でフツフツと芽生えてくる。

自分の中の正直な気持ち。


会いたい。

ただ、それだけだった。

 

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