聖女の護衛騎士となった幼馴染は、一度も私を見なかった。———彼が死んだ後、残された手紙に綴られていた狂おしいほどの真実。
本編に「騎士視点の独白」を追記し、物語を再構成いたしました。
冷たかった彼の態度の裏側に隠された、あまりにも不器用な真実を書き加えています。
すでにお読みいただいた方も、ぜひもう一度、物語の結末に触れてみてください。
聖女の護衛騎士となった幼馴染は、一度も私を見なかった。
騎士になった幼馴染が帰ってきたのは、私のためではなかった。
妹が、聖女に選ばれたからだと、そう思った。
村の入口に、見慣れない馬の影が現れたとき、胸が小さく跳ねた。
白を基調とした制服。肩に光る騎士章。
土埃の中に現れたその姿は、かつて泥だらけで走り回っていた少年とは、あまりにも違って見えた。
――それでも、分かってしまった。
彼だ。
幼い頃、いつも私のそばにいた幼馴染。
木の枝を剣代わりに振り回し、「騎士になるんだ」と無邪気に笑っていた少年。
転んで泣いた私を、何も言わずに抱き起こしてくれた、あの背中。
彼は、立派な騎士になって帰ってきた。
けれど――。
「姉上」
そう呼ばれた瞬間、胸の奥で、何かがひび割れた。
昔は、名前で呼んでくれていた。
それが当たり前で、疑いもしなかった。
なのに今、彼は私を、距離のある呼び名で区切った。
その視線は、私を越えて、妹へと向けられていた。
「……聖女様。旅立ちの準備は整っております」
聖女。
選ばれたのは、私ではなく妹だった。
だからだ。
彼が戻ってきたのは。
彼の居場所が、私の隣ではなく、妹の背後になったのは。
そう思うことで、私は自分を納得させた。
出立の刻が近づく。
馬に跨った彼が、最後に手綱を引く。
その瞬間――。
ぎゅ、と握られていたはずの手綱が、一度だけ、緩んだ。
すぐに、握り直される。
何事もなかったかのように。
その、ごく短い一瞬。
彼の視線が、流れた。
妹の背後。
――私の、方へ。
けれど私は、気づかなかった。
その視線が、必死に抑え込まれたものだということに。
「……行ってらっしゃい」
私の声は、風に紛れて、小さかった。
彼は、こちらを見なかった。
ただ、騎士として、前だけを向いていた。
私は、その背中を見送った。
近づかなかった。呼び止めもしなかった。
――それでいいと、思ったから。
そうして私は、彼を、思い出の中に閉じ込めた。
彼が死んだという報せが届くまでは。
***
彼が死んだという報せが届いたのは、妹が王都へ旅立ってから、三か月ほど経った頃だった。
神殿からの使者は、丁寧すぎるほど丁寧な言葉で、それを告げた。
汚染地帯での任務中、魔物の群れに遭遇。
聖女を庇い、護衛騎士としての責務を全うし、戦死。
私は、泣かなかった。
胸の奥に、何かが落ちた感覚はあった。
けれど、それが悲しみなのか、喪失なのか、まだ形を持っていなかった。
数日後、彼の遺品が届けられた。
小さな木箱。中に入っていたのは、二つだけ。
一通の手紙と、小さな指輪。
手紙の宛名を見た瞬間、息が止まった。
――リィナへ。
私の名前だった。
指輪を、先に手に取った。
派手さはなく、石も小さい。
それでも、妙に重く感じられた。
彼が、これを選んだ時間を思う。
どんな顔で。どんな気持ちで。
胸の奥が、じわりと痛んだ。
私は、深く息を吸い、そして、ようやく手紙を開いた。
***
【遺された手紙】
リィナへ。
この手紙を君が読んでいるということは、私は約束を守れなかったということだろう。
本当は、直接君に伝えたかった。
君は覚えているだろうか。泥だらけで走り回ったあの日々を。
私はあの頃からずっと、君に相応しい男になりたいと願っていた。
平民の私が、君を一生守り抜く力を得るには、騎士として功績を立てるしかなかった。
「聖女の護衛」に志願したのは、私情だ。
聖女を守り抜けば、恩賞として君を王都へ呼び寄せ、一生不自由のない生活を保証させることができるから。
それが、君を幸せにする最短の道だと信じていた。
君の前で「姉上」と呼び、視線を逸らし続けたのは、職務中に君の顔を見ると、決意が揺らいでしまいそうだったからだ。
君の寂しそうな顔を見るたび、剣を捨てて抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。
冷たく接してごめん。
本当は、一秒だって君から目を離したくなかった。
初めてのまとまった休暇が取れたら、この指輪を持って君に会いに行くつもりだった。
騎士としてではなく、ただの幼馴染として、名前を呼びたかった。
リィナ。
私は、君の騎士になれただろうか。
君の幸せを、心から願っている。
私のいない世界でも、君だけは、どうか。
***
【騎士の最期】
剣を握るたび、思い出すのは戦場ではなく、泥だらけの道だった。
あの日、転んで泣いていた君の手を引いたときの、あの細さ。
肺に入る空気が、ひどく重い。
汚染された霧が喉を焼き、息を吸うたびに視界が白く滲む。
それでも、剣は落とさなかった。
リィナ。
君はきっと、俺が妹君のために戻ってきたのだと思っているだろう。
それでいい。
そう思われることこそが、俺の望みだった。
君の前で「姉上」と呼んだ瞬間、胸が裂けそうになった。
名前を呼びれば、すべてが壊れてしまう気がした。
「大丈夫だ」
そう言って手を伸ばしたけれど、結局、最後まで俺はその手を取らなかったな。
だから、見なかった。
正確には――見られなかった。
剣が、鈍い音を立てて地面に落ちる。
もう、握力が残っていなかった。
ああ。ここまでか。
君が微笑んで見送ってくれたあの日、「幸せでいてほしい」と言われたとき、俺はほとんど、泣きそうだった。
膝をついた瞬間、世界がひどく静かになる。
約束は、守れなかった。
名前を呼びたかった。
「姉上」じゃない。
リィナ。
指先が、微かに動く。
そこに、指輪はない。
それでも、形だけは覚えている。
君の指の細さも、温度も。
ああ――俺は、ちゃんと選べただろうか。
君の人生から、俺を消すことを。
君の世界に、俺はいない。
それでも――君が幸せであるなら、それが俺の勝利だ。
さようなら。
俺の、たったひとりの人。
***
膝から力が抜けた。
地面に座り込み、両手で口を押さえる。
泣き声は出なかった。
代わりに、息がうまく吸えなくなった。
守られる側だと思っていた。
待つだけの女だと思っていた。
けれど、彼は確かに、ここに帰ろうとしていた。
この場所に、自分に。
その事実が、何よりも苦しかった。
震える手で指輪を握りしめた。
涙が、ようやく一粒、地面に落ちた。
それからしばらく、私は何もできなかった。
彼のいない世界は、色を失っていた。
ある朝、私は指輪を握りしめたまま、畑に立った。
ふと、彼の声を思い出す。
『土は、放っておくと拗ねるんだ』
そんなことを、笑いながら言っていた。
私は小さく息を吸い、鍬を取った。
一度だけ、ためらい、そして土に刃を入れる。
重い。
けれど、確かに手応えがあった。
――生きろ。
手紙の言葉が、背中を押す。
彼が守ろうとしたこの場所で。
彼が帰ろうとしたこの場所で。
私は、生きていく。
私は、ようやく分かった。
彼が私を見なかったのではない。
彼は、私を選び続けていたからこそ、見なかったのだ。
視線を逸らし、名前を飲み込み、触れることさえ拒んで。
それでも彼は、最後の瞬間まで、私の人生だけを守ろうとしていた。
指輪を嵌めた指に、力を込める。
外すつもりは、ない。
これは、誰にも知られなかった、
たったひとりの騎士が遺してくれたもの。
――私の、幸せなのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
彼は冷たかったのではなく、それほどまでに彼女を守りたかった。
それがうまく伝わらなかった故に起こったすれ違いを描ければと思い執筆しました。
ちなみに、彼が残した指輪は、騎士団の薄給で数年かけて買ったものです。
また、読後の感想や、評価などいただけますと非常に嬉しいです。




