第9話 リファクタリング
街の景色は時間帯によって変わる。朝から夕方にかけての景色と、日が沈んでからの景色は別物だ。仕事に行くときには青空が広がり、遠くのビルが建ち並び、人の歩く姿が目に入る。しかし帰宅するときは違う。道は暗闇に覆われて、ところどころ街灯があるだけだ。たまに人を見かけると、ほっとするとともに、危険な人かもと心配になる。
私、白名井若菜は、毎日徒歩で職場と自宅を行き来している。朝はいつも同じ時刻、夜は仕事の忙しさによって時刻が異なる。そうした帰り道に一軒のバーがある。名前は『IT』。「それ」という意味をつけたのは謎だよなあと毎度前を通るたびに思う。
そのバー『IT』に、二十歳になった私は通いはじめた。ふふふ、大人な女になった気がする。とはいえ、毎日お店に行っているわけではない。ふらふらと迷い込む程度なんだけど。
今日も私はバー『IT』の前に来た。通勤する道の途中にあるのだから当然なんだけど、バーの入り口に毎日たどり着く。私は明かりの点いた立て看板と、小さな照明に照らされた扉を見て考える。入るべきか、入らざるべきか。むむむむむ、と悩んでしまう。
「あっ、白名井さん、どうもです」
声を掛けられて振り向いた。大きな丸い体の常連、丸井太史さんが道を歩いてきた。
「すみません、入りますんで」
「あっ、はい」
横に避けてから考える。丸井さんの後ろに隠れて入れば、目立たずに入ることができる。そして、適当な椅子に座ってしまえば、モブとして他の客に紛れることができる。
私は素早く、丸井さんの陰に隠れた。
「えええぇぇ。何ですか、白名井さん?」
「しゃべらないでください丸井さん。私は丸井さんの背後に隠れているんです。誰もいない素振りで店内に入ってください」
「えええええぇぇぇぇ」
丸井さんは困ったような声を出した。
丸井さんは仕方がなさそうに扉を開ける。私は忍者のように気配を消す。店内にはまばらに客がいた。適度に溶け込めそうな人数が散らばっている。
「レッツゴー!」
小さな声で指示を出す。丸井さんは、ロボットのようにギクシャクしながら店内に入る。マスターの情野技雄さんが不思議そうな顔でこちらを見ている。カウンター席にいる赤いドレスの美女、常連の横江ソレルさんは、私が入ってきたことに気づいていない様子だった。
私は素早く空いているカウンター席に座って離脱する。丸井さんは、私が離れたことに気づいていない様子で、店の奥に歩いていった。
「あら、丸井くんじゃない。どうしたの、そんなに強張った顔をして」
「いえ、何でもないです。空いている席を探しているだけです」
「ふーん」
ソレルさんは、カウンターの方に顔を戻した。
しめしめ、ソレルさんは気づいていない。たまには一人でちびちびとお酒を飲むことも楽しみたい。私が、くしししし、という表情をしていると、マスターがメニューの紙を私の前に置いてきた。
「どうしたんですか、白名井さん」
小声で尋ねてくる。
「今日は、ゆっくり一人で飲もうかなと思いまして」
「そうですか」
マスターは、私の前にメニューの紙を置く。オススメの欄には『リファクタリング』と書いてあった。どういう意味の言葉なのか、まったく分からなかった。
「リファクタリングかあ。リファク、タリングと分けるのかなあ。それとも、リファクタ、リングと分けるのかなあ。あるいは全部で一つの単語なのかなあ」
なぜ横文字の専門用語は、長いものが多いのだろうか。そりゃあ昔からある言葉の方が短くなるのは分かるけど、最新の単語は長すぎるのが多い気がする。
「うーん、分かりますか、ソレルさん?」
いつものように口にしたあと、はっとした。そういえば今日は、一人でゆっくりしようと思って離れた席に座ったんだ。鳥頭の私は完全にそのことを忘れて、隣にいないソレルさんに呼びかけてしまった。
どこかで、ピキーンという音がした気がした。カウンターテーブルのはるか向こうで、目を輝かせているソレルさんの顔が見えた。
「若菜ちゃん、来ていたの!」
「しまった、見つかってしまった!」
「そっちに移るわね。マスター、いいわよね!」
「大丈夫ですか、白名井さん?」
「はい、もういいです。諦めます」
シュバババとソレルさんが席を移って、私の隣に座った。遥か向こうのテーブル席で、丸井さんが憐れむような顔で私を見ている。
「ふふふふふ、なになに、若菜ちゃん。質問? お姉さんが答えるわよ」
ソレルさんは嬉しそうに笑みを浮かべている。美人さんだけど、ちょっとうざい。ソレルさんは、うちの所長みたいなところがある。
「今日のカクテルの『リファクタリング』という名前は、どういう意味なのかなと思って」
「その質問が出るとは読めなかった、このリファクの目をもってしても!」
何か劇画調の顔になって主張している。私は華麗にスルーして、説明を求めた。
「もう、何よ。少しは遊びに付き合ってくれてもいいじゃない」
「そんなことより説明してくださいよ。私にとってソレルさんは、このお店の案内役なんですから」
ソレルさんは仕方がないなあという顔をする。
「それじゃあ、説明するわね。まず、ファクタリングは、売掛債権買取や、売掛債権買取業のことよ」
何だか難しい説明が来た。
「企業の売掛債権を買取り、売主に代わって債権を回収するの。売った方は、手数料分得られるお金は減るけど、売掛金の回収期日よりも早く現金を受け取ることができる。資金調達手法の一つね」
ソレルさんは、きりりとした顔で説明する。何だか、すごく頭がよさそうに見えた。
「なるほど、そういう難しい言葉だったんですね。それで、頭についている『リ』はどういう意味があるんですか?」
「うーん? 李さんのファクタリングぐらいの意味じゃないの?」
「えええ、李さん限定なんですか?」
ソレルさんは、アホの顔をしていた。
「もしかして、私、また騙されています?」
「騙されていますよ白名井さん。ファクタリング自体は金融用語で存在しますが、メニューに書いてあるリファクタリングは情報技術用語です。何の関係もない説明を、適当に言っているだけですよ」
マスターがあいだに入ってフォローしてくれた。私は頬を膨らませてソレルさんに顔を向ける。
「あらー、若菜ちゃん、可愛いわ」
ソレルさんは反省の色がない。私はマスターに、ちゃんとした説明を求めた。
「それでは、私が説明します。リファクタリングのファクタリングは、数学では因数分解を意味します。もう少し平易に言うと、要素に分解するといった意味です。ファクターが要素や因子という意味を持っており、その状態にするのがファクタリングです。
リファクタリングの『リ』は、再びという意味の『リ』です。すでに完成したプログラムを、再び整理して内部構造を変える。そうしたことをリファクタリングと呼びます。
重要なのは、内部構造を変えるだけで、外側からはこれまで通り使えることです。キッチンの収納を整理して、料理などの作業をしやすくするようなものです」
「へー、そういった内部の整理をするんですね。でも、プログラムって完成したら、いじらない方がいいんじゃないですか? 動いているなら、放っておいた方がよさそうですし」
私は疑問に思ったことをマスターにぶつける。マスターは、その質問を待っていましたといった顔をした。
「現代のプログラムの多くは、作って終わりということは少なく、改良したり追加機能を入れたりしていきます。そのときに、中が乱雑だと大変なんですね。散らかった家を、そのままの状態でリフォームしたり増設しようとしたりするのは大変ですよね。荷物を整理する必要があります。
同じように、プログラムも作ってしばらくすると粗が目立ったり、現状に合わなくなったりするんです。その状態のまま改良したり機能追加したりすると、ものすごく大変なんです。なので、リファクタリングという作業をして、快適に開発できるようにするのです」
「へー」
なるほどなあ。勉強になった。そういえば、うちの所長はいつも「資料が見つからない」と言って探し続けている。きちんと整理すればそういったこともなくなるのかなと思った。
「じゃあ、マスター。その『リファクタリング』のカクテルをお願いします」
「かしこまりました」
マスターはカウンターで作業をはじめる。私はソレルさんと雑談しながら完成するのを待った。
「お待たせしました。『リファクタリング』です」
私の前にグラスが置かれた。キャンディーのような透明のフィルムに包まれた液体が、いくつかグラスに入っていた。
「それぞれの要素に整理されたカクテルですか?」
「はい。包みを破いて、グラスの中で混ぜ合わせてください」
何だか面白いものが出てきた。
「それじゃあ、いただきます」
私は、添えられたフルーツフォークで包みを破いて混ぜ合わせた。爽やかな香りが漂ってきて一口いただいた。
「美味しい」
「よかったです」
「マスター、私も」
「かしこまりました」
ソレルさんも同じものを頼んで、二人で感想を言い合った。私はソレルさんと話しながら、今日もお酒を楽しんだ。




