第8話 フィルターバブル
人間には、誰しも身内と見なせる相手が必要だ。それは家族だったり、学校の友人だったり、職場の仲間だったりする。あるいは、趣味の世界や、地元の縁で繋がっている人たちだったりする。そんな赤い糸で結ばれた絆を求めて、人はふらふらとさまようのかもしれない。私、白名井若菜は最近、そんなことを考えながら、職場から自宅に戻るまでの道をたどっている。そして、今日もこの店の前にやって来た。バー『IT』。私にとって、新しい人間関係を提供してくれた、お酒を提供してくれるお店である。
「やっぱり、この店の入り口って控え目だよね」
私はバー『IT』の店の前に立ってつぶやいた。暗い道に、うすぼんやりと光を放つ立て看板がある。店の入り口の扉は、上についている小さな照明で照らされている。言ってみれば、暗闇の中に看板と扉だけが浮いているように見える。それこそ、人間の代わりに妖怪が出入りしていてもおかしくない店構えだ。
「まあ、いいか」
私は扉に手をかけてそっと開く。店内の会話の声が聞こえてきた。琥珀色の弱い照明。その中に、グラスを傾ける男女の姿が浮かび上がってきた。
「いらっしゃいませ」
イケボのマスター情野技雄さんが、カウンターの向こうから声を掛けてきた。私は頭を軽く下げて、店内を見渡す。今日はお客さんが少ないようだ。テーブル席が一つ埋まっているだけで、カウンターには一人しか座っていない。カウンターにいるのは赤いドレスの美女、常連客の横江ソレルさんだ。
「あら、若菜ちゃん。今日は少し早いわね」
ソレルさんに言われて腕時計を見る。確かにいつもより早いようだ。お客の入りが少ないのは、そのせいだろう。
「今日は、仕事が少し早く終わったんです。というか暇だったんです。お客さん誰も来ませんでしたし。だから資料整理をしていました」
「そうだったの。忙しいのも困りものだけど、暇なのも困りものよね」
「まあ、給料が出れば、暇な方がいいんですけど」
私は被雇用者なので、仕事先が潰れない程度に暇なのが一番いい。
「そういえば、若菜ちゃんの仕事先って探偵事務所よね。依頼人が来ない時って、所長さんは営業に行ったりしているの?」
「いえ、サンドバッグを叩いています」
「えっ?」
「事務所の天井からサンドバッグがぶら下がっているんです。それを一日中叩いています」
ソレルさんは、不可解だという顔をする。
「若菜ちゃんの働いている事務所って、どんなところなの?」
「あとは事務机と椅子と棚があって、冷蔵庫がありますね。冷蔵庫には、ビールの缶がみっちりと入っています」
「狩撫麻礼みたいな世界観ね」
「そういえば『ハード&ルーズ』とか『迷走王 ボーダー』とかが、棚に置いてありますね」
「へー、一度行ってみたいわね」
「お二方、いったい何歳なんですか?」
マスターが、カウンターの奥からツッコミを入れてきた。
「それで、ソレルさんはうちの事務所に来て、何を依頼するんですか?」
「そうね。若菜ちゃんの身辺調査をしてもらおうかしら」
「それってストーカーですよ」
わいわいと話していると、マスターがメニューの紙をすっと私とソレルさんのあいだに置いてきた。
そういえば、まだ何も頼んでいなかった。私は慌ててメニューに視線を落とす。今日のオススメの欄には『フィルターバブル』と書いてある。どんな意味なのか、さっぱり想像がつかなかった。
「ソレルさんは、もうこの『フィルターバブル』は飲みましたか?」
「まだよ。私も実はさっき来たところだから」
そういえば珍しくソレルさんはグラスを持っていない。ということは、ソレルさんも今からお酒を注文するのだろう。
「フィルターバブルって、何なんでしょうね。これも、何かコンピューター関係の言葉なんですか?」
私が尋ねると、ソレルさんは真面目な顔をした。
「バブルと言うと泡よね。球状の泡の中に入る想像をしたことはある?」
「うーん、ないですね。私、物事は深く考えない主義なので」
私は明るく言った。
「江戸川乱歩の小説で『鏡地獄』というのがあるのは知っている?」
「はい。たしか、球体の内側を全部鏡にして、その中に入るって話ですよね」
「そう、悪夢の世界、と小説では書いてあるんだけど、この再現動画が、ユーチューブにあったりするのよ」
「えっ、実際に悪夢の世界だったりするんですか?」
「ふふふ」
ソレルさんは乾いた笑みを浮かべる。まるでホラーマンガの登場人物のように顔が暗くなった。
「それでね、興味本位で見てみたの。まあ、気持ち悪いのよ。立つ位置を変えることで、顔が歪んだり、ひっくり返ったりするのよ。それを若菜ちゃんにも見せてあげようと思ってね」
ソレルさんはスマホを出して、素早く検索をはじめる。私は恐ろしい動画を見せられないように両手で目を覆う。しかし、好奇心には勝てなかった。指の隙間から動画を見て、微妙な気持ち悪さに酔いそうになった。
「はあ~~、もう、何を見せるんですか、ソレルさん」
「若菜ちゃんが怖がっている姿は、とてもいいものね」
ソレルさんは嬉しそうだ。
「ところでフィルターバブルって何だったんですか?」
私が尋ねると、マスターが会話に割って入ってきた。
「いつまで経っても、本題にたどり着きそうにないので、私の方から説明します」
私は声につられてマスターの方を向いた。
「フィルターバブルは、インターネットを利用しているユーザーが、似たような意見や内容の情報ばかりに閉じ込められる現象を指します。
SNS、検索エンジン、動画サイトなどは、ユーザーの興味を記憶して、それに近い情報ばかりをユーザーに提供します。そのせいで、似た意見や情報ばかりが目につくようになり、外の世界が見えなくなってしまいます。
たとえば、政治的偏向があった場合、同じ意見の人しか世の中にいないように見えてしまうわけです。そして、意見がどんどん偏って過激になっていき、その人にとっての常識がおかしくなってしまうことがあります。そうした現象をフィルターバブルと言うのです」
「えっ、それ怖いですね。まるで『鏡地獄』で自分の姿が無限に映るように、自分と似た意見ばかりの世界になってしまうわけですか?」
「そういうことです」
そんなことがあるのか。もしそうなら、ふだん付き合わない人とも積極的に話さないと危険なことになる。
「ソレルさんとばかり話をしていたら駄目ってことですね」
「若菜ちゃん、私と話してよ!」
ソレルさんは楳図かずおのマンガに出てきそうな顔をした。
「仕方がないですね。ソレルさんがかわいそうだから、一緒に飲んであげますよ。『フィルターバブル』でいいですか?」
「ええ」
私はマスターに、二人分をお願いしますと頼んだ。
「かしこまりました」
マスターは、カクテルを作りはじめた。そして、グラスの下半分が液体で、上半分が泡状になったカクテルを出してくれた。
「今日のオススメのオリジナルカクテル『フィルターバブル』です」
「うわー、きれいですね」
泡が照明にキラキラと輝いている。フィルターバブルに閉じ込められると怖いことになるけど、外から眺めるときれいだなと思った。
「この泡一つ一つに、地獄のような場所に閉じ込められた煮詰まった人たちがいるのね」
「ソレルさん、言い方」
私は、ソレルさんに突っ込んだ。
「それじゃあ、ソレルさん。乾杯しましょう」
それぞれ軽くグラスを上げて、口元に運んだ。泡の食感とお酒の甘さが心地よかった。バブルも上手く活用すると、いいものだなと思った。




