第7話 ディープフェイク
職場の帰りがけの道沿いに、一軒のバーがある。だいぶ薄暗い道で、ちょっと危なっかしいなあと思うこともある。そうした場所に灯る明かりは、灯台のようにも見える。店の前には立て看板があり、その中には電灯が入っている。看板にはバーの名前『IT』の二文字がある。英語の授業で何度も出てきた単語だ。THISなどと区別がつかずに困った記憶が浮かんでくる。
最近私は、このバー『IT』によく行く。二十歳の大人なので、お酒が飲めるのです。そして、映画なんかで昔からよく見ていた、バーというお店に憧れがあるのです。私はバー『IT』の前に立ち、その入り口をじっとにらんだ。
扉の上には小さな照明があり、闇の中に扉が浮かんでいるようにも見える。どことなく『鋼の錬金術師』の『真理の扉』に見えなくもない。あるいはオーギュスト・ロダンの『地獄の門』か。私は、その重そうな扉を開けて、店内に足を踏み入れた。
抑えた照明に、店の中の様子が浮かび上がる。いくつかのテーブル席とカウンター席がある。カウンターの向こうにはマスターがいて、その向こうには、お酒のボトルやグラスが所狭しと並んでいる。空気は少し湿り気を帯びていて、アルコールのにおいが混ざっている。テーブル席はほぼ埋まっている。カウンター席はいくつか空いている状態だった。
「いらっしゃいませ」
イケボのマスター情野技雄さんが、カウンターの向こうから声を掛けてきた。私は軽く頭を下げて、どこに座ろうかと考える。カウンター席の一つに赤いドレスが見えた。今日は両隣の席が埋まっている。別の場所はどこかなと思ってうろうろとしていたら、赤いドレスの美女が振り向いてきた。常連客の横江ソレルさんだ。
「若菜ちゃん、私の隣に座って!」
「いや、ソレルさんの隣は埋まっていますし」
「丸井くん、席譲ってくれる?」
「いいっすよ」
隣に座っていた丸々と太った男性が立ち上がる。最近知ったのだが、彼も常連さんで丸井太史さんという人だ。
「そんな、悪いですよ」
「いいんですよ。白名井さんが来るまで、横江さんの隣に座っていたら一杯おごってくれるという約束だったので」
「ふふふ、若菜ちゃん、あなたのために席を確保していたの」
ソレルさんは、左手を胸に当て、右手を上げてポーズを取る。ううう、ソレルさんの愛が重い。
「じゃっ、俺移るんで」
丸井さんは、別のカウンター席に移っていった。私は何か申し訳ない気持ちになりながら、ソレルさんの隣に座った。
「あの、ソレルさん。何で私を待っていたんですか?」
「今日は、来そうな気がしていたの!」
「えええ。何か、怖いんですけど。ヤバい人ですか? ストーカーですか?」
「若菜ちゃん、心の声が漏れすぎで心配になるわよ、本当に」
私が席に着くと、マスターがメニューの紙を前に置いてくれた。今日のオススメは何かな? 視線を落としてオススメ欄を確かめた。
――ディープフェイク。
何だか知らないけど、濃そうな名前のオリジナルカクテルが来た。
「ディープは、深いですよね。フェイクは、偽物ですよね。深い偽物。うーん、深淵に潜みし、人の姿をした人外の存在とか、そんな感じですか?」
なに、それ怖い。この店の客は、そんなものを液体にして喉から流し込んでいるの? ここって、サバト会場だったのかしら。そんな場所に迷い込んだ、か弱き乙女の私。ああ、私の運命やいかに! 私はガクガクブルブルしながら、恐怖にうずく左手を右手で押さえ込んだ。
「気づいてしまったのね。この世界の真実に」
ソレルさんが真面目な顔をして言った。そして、両手の指を組んで、その上にあごを載せて、陰謀を張り巡らせている司令官のような表情で語りはじめる。
「ディープと言えば、ディープ・ワンズ、半人半魚の亜人」
「ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの小説『インスマウスの影』ですね。もしかして、深きものにちなんで、生臭いにおいのカクテルが出てくるんですか?」
「それは、ふつうに嫌ね」
私は想像する。磯臭くて、生臭い感じのカクテルが出てくる様子を。きっと絶望のどん底に落ちて、涙を流すことだろう。
「大丈夫よ。フェイクってついているでしょう。ディープフェイクは、ディープ・ワンズとは関係ないわ。単にディープが同じだから、適当に言ってみただけよ」
そうだった。ソレルさんは、信用ならない人だった。口にする言葉の半分以上は嘘で、その言葉の軽さは水素に匹敵するのを忘れていた。
「あの、このままでは、いつまで経っても注文までたどり着かなさそうなので、私の方で説明しますね」
マスターが話に入ってきて私は赤面する。す、すみません。
「ちっ」
ソレルさんは舌打ちをして、子供のようにそっぽを向いた。
「ディープフェイクは、深層学習を意味するディープラーニングと、偽物を意味するフェイクを組み合わせた言葉です。深層学習というのは人工知能を作る技術の一つです。こうした人工知能を利用して生成した偽物の画像や動画のことをディープフェイクと言います」
「けっこう悪質なものよ」
機嫌を直したソレルさんが言葉を添えてきた。
「悪質って、人工知能を使って作った画像や動画が、どう悪質なんですか?」
私は、そういったものに詳しくないので尋ねた。
「例えば、実在する人物のポルノ画像や動画を生成できる。それらを作って拡散することは、いじめや嫌がらせになり、時に人を自殺に追い込むまで傷つける。
また、デマや扇動や成りすまし、政治的宣伝や攻撃に利用されることもある。その場合、誰かの社会的地位が失われたり、冤罪で逮捕されたりする。政治家が失脚したり、国が混乱したり、暴動や戦争に発展する可能性もある。
人工知能が生成する画像や動画は、どんどん本物そっくりに近づいていて、いずれ見分けがつかなくなる。だから、かなり大きな問題になっているの」
へー、知らなかった。世の中の技術は、そんなことになっているんだ。
「大変ですね」
「うん。とっても簡単にできるから」
ソレルさんは、スマホを出して、私の写真を撮った。そして、スマホに向けて何やら話しかけて、しばらく待って、画面を私に向けてきた。
「若菜ちゃんが、ソユーズに乗って、宇宙に行ったときの写真よ」
私が宇宙服を着て、船外活動をしている写真だ。
「えっ、私、いつの間に宇宙飛行士になっていたんですか!?」
知らなかった、私は宇宙飛行士だったんだ。
「もしもし、若菜ちゃん。これ、フェイクだから。若菜ちゃんは、宇宙に行っていないから」
「ふえええ? そうなんですか。だまされました!」
「だまされすぎでしょう。保育園児じゃないんだから」
ソレルさんに突っ込まれて、首まで真っ赤にした。
「まあ、こんな感じでね。人工知能を使えば、人をだませる画像や動画を簡単に作れるわけ。これからは、そうしたものがある前提で、だまされないように生きていかないといけないの」
「ううう、無理です。自信ないです。こんなの、私は秒でだまされてしまいます~~~」
「若菜ちゃん、すぐに信じるしね」
「その通りです」
「それで、ご注文は……」
マスターが、申し訳なさそうに尋ねてくる。そういえば、また忘れていた。何か注文しないといけない。
「それじゃあ、今日のオススメの『ディープフェイク』で」
「かしこまりました」
マスターはカクテルを作る準備をはじめた。そして、白くて半透明のカクテルをグラスに注いで出してくれた。
「これ、どこが『ディープフェイク』なんですか?」
「飲んでみると分かります」
「じゃあ、一口飲んでみます。……甘くて美味しいけど、お酒じゃない!」
「ノンアルコールのカクテルです」
「あら、アルコールの味は分かるのね」
「さすがに、それはだまされませんよ」
私は、ジト目でソレルさんをにらんで、ノンアルコールカクテルで酔っ払った。




