第6話 シンクライアント
職場と自宅のあいだに何があるかで、幸福の度合いは少しだけ変わる。私が仕事に行く場所と、寝に帰る場所のあいだには、特別な場所がある。暗い道の途中にある仄かな照明。立て看板には明かりが灯っていて、扉は微かに照らされている。お酒を出すバー、名前は『IT』。私、白名井若菜は、その扉を開けて店の中に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
イケボのマスター情野技雄さんが、カウンターの向こうから挨拶をしてきた。私は軽く頭を下げて店内を見渡す。テーブル席はまだ一席しか埋まっていない。カウンターも誰もいない。今日は来るのが早かったようだ。たまにはテーブル席にも座ってみたい。私はマスターに目配せする。いいですよと、視線が返ってきた。
私はテーブル席に座ってメニューを手に取る。今日のオススメには、『シンクライアント』と書いてあった。
「うーん、どんなカクテルだろう」
「気になるわよね」
「そうですね。……えっ?」
気がつくと、目の前の席に、常連客の横江ソレルさんが座っていた。
「ソレルさん、先ほどまで店の中にいなかったですよね?」
「うん? ずっといたわよ。ここの席に座っていて、ちょっとお手洗いに行っていたの」
ふえ~~~、マスター~~~! 私がいつもソレルさんの隣にいるから、ソレルさんの席に案内したのか!
はあっ……。
「たまには、一人でゆっくりしたかったんだけど。まあ、いいか。はあ~~~~、今日もソレルさんか~~~~」
「若菜ちゃん、心の声がダダ漏れよ」
「えっ、声に出ていましたか?」
「だいたい、いつもそうだけど」
ひえええ。私は、そんなに思っていることを口にする人間だったのか。
「きっと、これはお酒で口が軽くなったからです」
「まだ、一杯も飲んでいないのに?」
「不思議ですね」
「それで、よく探偵事務所の仕事ができるわね」
私は、ぐにょん、とスライムみたいな顔と姿勢になる。ほげえ。そして、ぐにゃぐにゃになった顔と姿勢を正して、しゃきっとした。
「そうそう、ソレルさん。今日のカクテルは、『シンクライアント』だそうです」
「『シン・クライアント』、どう見ても庵野秀明が総監督をつとめている映画よね」
「やっぱり、そうですよね! 私も、そう思っていたんです」
なんだかんだで、ソレルさんとは話が合う。
「どんな映画だと思う?」
ソレルさんに尋ねられて考える。いったい、どんな映画だろう。
「そうですね。やはり、原作にリスペクトがあるんだと思います」
「原作って、クライアント?」
「はい。顧客、依頼人、得意先って意味ですよね。あまりリスペクトしたくないんですけど」
「そこは、嘘でもリスペクトしているって言おうよ、若菜ちゃん」
「だって、だって、……」
私は思い出す。激しくこちらを非難する客、ストーカーみたいな依頼を持ってくる客、泣き叫んで物を投げてくる客、さまざまなトラウマ客たちが脳裏をよぎる。
「ああ、若菜ちゃんのところ、探偵事務所だものね。いろいろな客が来そうよね」
「そうなんです!」
「それで、『シン・クライアント』って、どんな映画になりそう?」
ソレルさんは、答えを期待する眼差しを私に向ける。私は、探偵事務所のトラウマ客について思い出したくなかったので、ソレルさんの質問に答えることにした。
「うーん、どの作品寄りかによりますけど、『シン・ゴジラ』寄りだと、モンスター・クライアントが現れて、会社が壊滅状態になって、立ち上がった社員たちが各部署で連携して、モンスター・クライアントに立ち向かい、電車をぶつけて、ひき殺す映画?」
「電車はぶつけないで! モンスター・クライアントも人の子よ、死んじゃうわよ!」
「いえ、モンスター・クライアントは人ではありません。たたり神の仲間です」
「仕事の鬱憤が溜まっているようね。私が慰めてあげようか?」
「じゃあ、おごってください」
「ちゃっかりしているわね」
ソレルさんは手をあげてマスターを呼んだ。
「『シンクライアント』を二つ」
「かしこまりました」
マスターがテーブル席の近くに来たので質問する。
「シンクライアントって、何ですか? 庵野秀明が総監督をつとめる映画ではないと思いますから」
また、変なことを吹きこんでという顔をマスターはソレルさんに向ける。ソレルさんは、口笛を吹きながらそっぽを向いた。
「クライアントとサーバーの関係はご存じですか?」
「サーバーって、ウォーターサーバーとかのことですか?」
ちょっと違うという顔をマスターはする。
「ネットワークを介して、サービスを提供する側をサーバー、提供される側をクライアントと言います。身近なクライアントには、ウェブブラウザーがあります。サーバーは、ネットの向こう側の、データが置いてあったり処理をしてくれたりする場所や機械のことを指します」
「なるほど」
よく分からん、と思った。
「それで、シンクライアントは、どういう意味なんですか?」
私は核心に迫る質問をする。
「シンクライアントのシンは、thin、薄いとか希薄とかいう意味の言葉です。ネットワークを介したシステムの構成として、クライアント――末端の機械側の機能を絞り込み、サーバー――中央側に機能の大部分を集中させたものを指します」
「ふーん」
何だか、ピンと来ない話だなあと思った。
「マスター。若菜ちゃんが興味なさそうな顔をしているわよ」
「まあ、仕方がないですね。コンピューターのシステム構成などの知識がないと、興味が湧かない話ですから」
マスターは悔しそうに言う。
「まあ、歴史的に綱引きがあったのよ」
「綱引きですか? 赤組、白組、運動会みたいな感じですか?」
私は綱引きのボディーランゲージをする。ソレルさんは、可愛いを連呼した。
「コンピューターって、昔アホほど値段が高くてサイズが大きかったのよ。だから、コンピューターを利用する人はケーブルで繋がった端末で操作して、処理は大きな中央のコンピューターでおこなっていたの。
その後、コンピューターが安く小さくなって、個人向けのパーソナルコンピューターってのが現れたの。自分の手元の機械で、全部処理ができるようなやつね。今ならウィンドウズとかマックとか、そういうやつ。
でも、そうなると、職場では一人ずつに高性能なコンピューターを買い与えないといけない。そうなると、けっこうなお値段になる。そうなると今度は、性能のよい大きなコンピューターをドンッと買って、各個人が作業するのは低性能な機械で済ませて安く上げようって発想が出てきたの。その頃に、シンクライアントという言葉が生まれたわけ。
それで、さらにコンピューターが安くなると、手元の機械でいいやってなったり、今度はネットワーク上にデータを置いて任せようって話が出たり、まあ、そういう綱引きが、歴史上延々とおこなわれているわけなの」
「へー。コンピューターって、そんな綱引きがおこなれていたんですね」
「懐かしいわね。私がユニバック・ワンをあつかっていた頃が」
「横江さん。またしれっと嘘を紛れこませる。一九五〇年代は、あなたはまだ生まれていません」
マスターがソレルさんにツッコミを入れた。
「ソレルさんって、天然の嘘吐きなんですか?」
私は赤いドレスの美女に尋ねた。
「ふふっ、私、よく記憶が混乱するの。タイムトラベラーだから」
「えっ、そうだったんですか!」
「白名井さん。これも嘘です。ソレルさんを信用してはいけません」
マスターに言われて、騙されていることに気がついた。ソレルさんは、笑みを浮かべたあと話を再開した。
「今はシンクライアントは、セキュリティ面で注目されたりもしているわ。中央にデータを置いて、処理も全部やるから外部に情報が漏洩しにくいの」
「これは本当です」
マスターが横で教えてくれる。うーん、嘘と本当が入り混じって混乱する。
「それでは私は、『シンクライアント』を作ってきます」
そう言ってマスターは、カウンターの向こうに引き上げていった。
しばらくして、マスターがテーブル席にやって来た。逆三角形のグラスには、透明な液体が入っている。そして、その表面に青い層が薄くできていた。シンを、この青い層で表現しているのだろう。
「へー、きれいですね」
私はカクテルを口に含んでみた。薄い層に口をつけると、ふわっと希薄な香りが漂ってきた。
「美味しいですね、ソレルさん」
「ふふっ。たまにはカウンターを離れて、端末で作業するように、お酒を飲むのもいいものね」
「はい!」
ソレルさんの言葉に、私は微笑みを返した。




