第5話 ゼロデイアタック
人は誰にでも日常を忘れる空間や時間が必要だ。それは人によっては小説だったり、マンガだったり、アニメだったりする。あるいは、ゲームだったり、映画だったり、スポーツだったりする。最近の私、白名井若菜にとっての『それ』は、バーだ。お酒と会話と仲間たち。仲間といっても、バーでしか会わない人たちだ。今日も私は、仕事帰りに、そのバー『IT』の前で足を止めた。
暗がりに淡く輝く看板。まるで誘蛾灯のような雰囲気。扉の上には小さな照明が点いており、闇に浮かび上がる様子は、秘密の世界への入り口のようだ。私は扉に手をかけてそっと開く。中から人々の談笑の声が聞こえてきた。
テーブル席は半分ほど埋まっている。カウンター席の三分の一ほどに客がいた。どこに座ろうかと思って見渡すと、こちらを向いて手を振っている赤いドレスの美女がいた。
「若菜ちゃん、ここよ、ここ」
常連客の横江ソレルさんだ。どうしようかな、他の場所にしようかなと思っていたら、ソレルさんは自分の隣の席を必死に指差してきた。仕方がない。今日も隣に座るか。私は歩いていき、ソレルさんの隣に座った。
「いらっしゃいませ」
イケボのマスター情野技雄さんが、カウンターの向こうから挨拶をしてきた。私が軽く頭を下げると、メニューをすっと私の目の前に置いてきた。今日のオススメの欄を見る。『ゼロデイアタック』と書いてあった。
「ゼロデイアタックですか。何か物騒な名前ですね」
私は、グラスを傾けているソレルさんに声を掛ける。
「そうね。少し話してあげる。あれは私が十代の零戦乗りだった頃、私はアメリカが九州を侵攻するオリンピック作戦のXデーを防ぐために奮闘していたの……」
「ふむふむ」
私は熱心にソレルさんの話を聞く。
「白名井さん。横江さんの戯れ言は聞かなくていいですよ。そもそも、横江さんはその頃生まれていないですから」
「ふえぇ!」
私が驚いたら、ソレルさんは体をくの字に曲げて笑いをこらえた。どうやら私は、からかわれていたようだ。
「ごめんね。若菜ちゃんを見ていたら、からかいたくなって」
「ひどいですよソレルさん!」
「それで、若菜ちゃんは、ゼロデイアタックはどういう意味だと思う? 聞かせて欲しいんだけど」
私は口元を尖らせたあと、どんな意味なんだろうと考える。分からない時は、知っている話題に引き寄せろ。私は所長のアドバイスを思い出す。
「ゼロは数字のゼロですよね。デイは日にち。アタックは攻撃。ふつうに訳すと〇日攻撃。その言葉の響きから、ゼロインチパンチとか、ワンインチパンチを思い出しますね。漢字で書くと、零勁とか寸勁とかですか。ブルース・リーを思い出します。でも、デイって何でしょう。寸勁のように密着した時間で攻撃するとか? ふにゃあ。意味が分からないですぅ」
私は頭を悩ませて、うんうんとうなった。
「けっこういい線いっているわよ」
「本当ですか!」
「ええ。ブルース・リーはかっこういいわよね。あの引き締まった肉体。思わず筋肉を触りたくなるわ」
私は何となく卑猥な想像をしてしまった。
「それで、本当の本当のところ、ゼロデイアタックってどんな意味なんですか?」
このバー『IT』では、コンピューターとかにまつわる用語がよく出てくる。きっと、この言葉も、それ関係の何かなのだろう。知らないけど。
私の悩ましい表情を見て、ソレルさんが解説をはじめた。
「ゼロデイアタックは、二〇二五年に配信された台湾のドラマよ。中国による台湾侵攻を背景とした戦争ドラマ。出演者には日本の俳優、高橋一生もいるわ」
「えっ?」
また嘘を吐かれているのだろうかと思った。
「白名井さん、その話は本当です。しかし、今日のオススメのカクテルの名前とは何の関係もありません」
マスターが横から話しかけてくる。
「ふにゅぅ???」
私は混乱の極みの顔をして、ソレルさんとマスターの顔を見比べる。何が本当で何が嘘なのかまったく分からない。私は脳みそが混乱状態になってしまった。
「若菜ちゃん。カエルみたいな顔をしているわよ」
「ゲコゲコ、って違います! 私はカエルではありません。私は何を信じればいいんですか~~!」
マスターが、チョコレートをひとかけら出してくれた。私は、それをモグモグと食べて落ち着いた。
「仕方がありません。横江さんは、信用できない語り手ですから。私が代わりに説明します。
ゼロデイ攻撃とは、ゼロデイ脆弱性を利用したサイバー攻撃のことです。サイバー攻撃とは、コンピューターやネットワークに対する攻撃のことです。脆弱性というのは、ソフトなどの欠陥や弱点のことです」
いきなり難易度が高い話が来た。しかし、礼儀として最後まで聞こうと決めた。
「多くの場合、サイバー攻撃は、世間で知られていない脆弱性を突く形でおこなわれます。要塞に秘密の抜け穴があって、そこを攻撃されるようなものです」
「なるほど、さっぱり分からないですが、アキレウスの踵みたいな場所が、ソフトにもあるんですね」
アキレウスの母は、息子を不死にするために冥府の川に息子を浸した。その際に踵をつかんでいたために、そこだけ不死にならずに弱点となった。そうした弱い場所が、ソフトにもあるのだろう。
というか、アキレウスの母は無茶をするなと、今さらながらに思った。
「まあ、そんなところです。発見された脆弱性は、ソフトやハードの開発元に報告されることもあります。その場合は、修正ファイルや修正版が作られて公開されます。この報告から、対策の公開までには数週間から数ヶ月掛かり、この時期のことをゼロデイと呼びます。
ゼロデイ攻撃は、この無防備な期間におこなわれるサイバー攻撃のことです。対策方法がなく、甚大な被害が出ることが多いです」
「ノーガード状態なのですね」
「ノーガード戦法と言えば、『あしたのジョー』の矢吹丈よね」
ソレルさんがボクサーの真似をする。
「横江さんは、黙っていてください」
マスターに突っ込まれて、ソレルさんは口を膨らませた。
「そうした防御不能のサイバー攻撃にちなんだオリジナルカクテルが、この『ゼロデイアタック』になります」
私は喉をゴクリと鳴らしてメニューの文字を見る。どんな攻撃を食らうのだろう。そんな攻撃を楽しみにして注文するなんて、とんだマゾヒスト野郎だ! 私は断じて、そんな人間ではない。変態ではない。まっとうな人間だ!
「それじゃあ『ゼロデイアタック』をお願いします」
私はペコリと頭を下げた。ああああああ!!! どうして、こんな注文をしてしまったのだろうかああああ!!!!!
「かしこまりました。『ゼロデイアタック』ですね」
「うぐっ、うぐっ、そうです。そのカクテルをお願いします。私は断じてマゾの変態ではありません」
私は涙をこらえて、カクテルが出てくるのを待った。
きらきらした黄金色のお酒に、赤い小さな欠片がスパンコールのように散らばっている。何やら分からないが危険な雰囲気がする。これを飲むと致命的な攻撃を受けそうな予感がある。
「若菜ちゃんが、ゼロデイアタックを飲むところを早く見たい!」
ソレルさんが期待の眼差しで私を見てくる。このサディスト野郎が、と私は思う。
私はグラスを持って、ぷるぷると震えながら、口元に近づけた。とてもよい香りがする。このお酒のどこに攻撃的な要素があるのか分からない。
ええい、ままよ! 私はグラスを口に運んで、液体を口に入れてゴクリと喉を鳴らした。
「美味しい!」
さわやかな柑橘の酸味と甘みが舌の上を通過した。その直後、喉がカーッと熱くなった。
「こ、これ、唐辛子……」
「はい」
美味しいんだけど、ちょっと刺激的だ。私の無防備な喉の奥を攻撃してくるカプサイシンがきつい。
「さあ、今日はどんな刺激的な話をする?」
ソレルさんが、私に体を寄せて尋ねてきた。
「いや……、その前に……、お水を……、ください……」
私はゲホゲホと言いながら、マスターにお冷やをお願いした。




