第3話 バイブコーディング
職場と自宅のあいだに謎のバーがある。名前は『IT』。ITは主に、三人称単数中性主格として使われる代名詞だ。なぜそんな単語を店の名前にしたのだろうか不可解で仕方がない。私、白名井若菜は、毎日そんなことを思いながら店の前を通っていた。そして、ある日、扉を開けてから、この店にちょくちょくと顔を出すようになった。
仕事が終わった。私はすでに暗くなった歩道をふらふらと歩きながら家路をたどる。今日もまたやらかしてしまった。機械全般が苦手なのだが、所長に言われてパソコンを使い、ファイルを間違えて七回削除してしまった。
所長には「もういいから、おまえはパソコンを触るな」と言われてしまった。どうして、こうなったんだ。気がつくとファイルを削除している。あれだ。目の前に自爆ボタンがあると押してみたくなるやつだ。自分は何かに取り憑かれているんじゃないかと思うときもある。
「うん、こういう時は、『IT』に行って、お酒を飲むに限るわ!」
そう、私は大人の女。仕事で失敗したときは、お酒を飲んで失敗を忘れるに限るのだ。
薄暗い道を歩いていると、バー『IT』の看板が見えてきた。すでに明かりが点いており、開店しているのが分かった。私は店の前まで行き、扉を開けた。
お酒を出す店特有のにおいが鼻を突いてくる。今日はまだ時間が早いのか、テーブル席はだいぶ空いている。カウンターにも人が少なく、どことなく気だるい空気が漂っていた。
「若菜ちゃん!」
声を掛けられて顔を向けた。カウンター席に、赤いドレスの美女が座っている。常連客の横江ソレルさんだ。何かと私にうざ絡みしてくる、所長と性格がどことなく似ている人だ。
私は誘われるがままにソレルさんの横のカウンター席に座った。ソレルさんは嬉しそうにニコニコしている。
「今日のメニューです」
イケボのマスター情野技雄さんが、メニューの紙を私の前に置いてきた。視線を落とすと、今日のオススメとして、オリジナルカクテルの名前が、達筆な筆文字で書いてあった。
――バイブコーディング。
バ、バ、バ、バ、バイブ!
私は赤面しながら、背筋を伸ばす。これは、大人のおもちゃというやつではないだろうか。バイブは、バイブレーションの略。振動で、アバババして、ババババするやつなのか。
「あの~、これはちょっと大人すぎて~、私には無理かもしれないです~」
コーディングが何かは分からないが、バイブの時点で卑猥なものに違いない。あるいはコーディネートと関係があって、バイブをコーディネートした何かの可能性がある。
「どうしたの若菜ちゃん。もしかして、アルコール度数を気にしているの?」
ソレルさんが顔を近づけてきた。大人っぽい香水の香りがして、ドキドキしてしまう。
「マスター、アルコール度数は高いの?」
「ワイン程度には抑えます。それほどきつい度数にはしませんから」
「いえ、アルコール度数ではなく……」
「うん?」
ソレルさんが体を寄せてくる。私は縮こまり、顔を真っ赤にしながら声を絞り出した。
「バ、バ、バイブって、あれですよね?」
一瞬の間があったあと、ソレルさんとマスターが笑い出した。
「いや、失敬、失敬」
「そうか~、その勘違いをしちゃったか~。ところで、あなたは持っているの?」
「持っていません!」
「私は持っているわよ。肩こりにいいのよね」
完全にからかわれている。私は赤面しながら、頬を膨らませてソレルさんに顔を向けた。
「ごめんね、若菜ちゃん。じゃあ、少し説明してあげるわ。バイブコーディングのバイブは、VIBEと書くの。意味は空気感とかノリとかで、振動や感じなんかを意味するバイブレーションと、元をたどると同じ言葉ね。
バイブコーディングを日本語で言い直すと『ノリでコードを書く』『雰囲気プログラミング』みたいな感じ。コードはプログラムのこと、コーディングはプログラムを書くことよ。直感的に考えて、AIに指示を出して、ノリでプログラムを書いていく。そんなAIを使った開発手法が、バイブコーディングよ」
「ヨーヨー、俺たち、ラッパー、ノリノリバイブで、コードを書くぜー。ヒャッハー! みたいな感じですか?」
手でスクラッチする振りをしながら言ったら、ソレルさんが「可愛い!」と言って抱きついてきた。ううっ、小動物みたいに思われている。
「それにしても、そんな書き方でプログラムって書けるんですか? コンピューター相手のプログラムって、何やら厳密な書き方で指示を出して、失敗したらすごい勢いでエラーが出て、めちゃくちゃ怒られるって所長が言っていたんですが」
私は思い出す。所長がプログラミングについて語ったときのことを。「あれは自己肯定感がへこむ」「秒で駄目出しを食らい続ける」「マゾヒズム製造機だ」。所長はトラウマのように話していた。
「書くのが上手くいくこともあれば、難しいこともあるわね。AIがよく学習している分野だと、雑な指示でもパパッときちんとしたものを作ってくる。短い時間でアプリケーションができたりするわ。
でも、苦手な分野だと、細かく指示を出しても、なかなか思うようなものにならなかったりする。これは、人間相手と同じね。違うところは、出力までの時間が人間より圧倒的に短いこと。プログラマーでなくても、アプリケーションを開発したりすることができるわよ」
何それ、すごい。機械音痴の私でも、適当にお願いすれば、アプリを作れたりするのか。それなら、勉強なんかしなくても、余裕で世の中を渡っていけるのではないか。
一瞬、バラ色の未来を夢見て、昇天しそうになった。しかし、頭の中で、冷静な自分が「そんなうまい話はないだろう」と語り掛けてきた。
「それ、デメリットがありますよね」
何のデメリットがあるのかは知らないが、格好をつけて、さも知っているように話してみた。
「ふふ、よく気づいたわね若菜ちゃん」
「当たり前ですよ。伊達に二十年生きてきていませんから」
どちらかというと、スライムのように、ふにょふにょと適当に生きてきたことは黙っておく。
「雰囲気で出力されたものだから、品質が担保されないの。セキュリティ的に穴があったり、バグがあったり、きちんと動かなかったりする。だから人間が、きちんとしたものなのかチェックしないといけない。そのためには、人間がAIの書いたプログラムを確認できる程度の能力が必要になる。
あとは、今のAIだと、一貫性のある巨大なアプリケーションを作るのが難しいの。それと、メンテナンス性ね。AIに改良を命じ続けると動かなくなることが多いの」
「ダメダメじゃないですか」
短ぇ夢だったな、と私は心の中でつぶやく。
「それでも使い所があるから、そういう言葉があるんですよね?」
私が尋ねると、ソレルさんとマスターはうなずいた。
「開発スピードが圧倒的に速いの。それに、エンジニアでない人でも使える。アイデアの検証なんかをするには、とても便利。最終的な製品を作る際には、人間が手を入れたり書き直したりしないと、あとで困ることになるけど」
「ふーん、私も雰囲気で何か適当に作れればいいなあ。そういえば、今日のオススメの『バイブコーディング』って、どんなカクテルなんですか?」
私はマスターに聞いた。マスターはカウンターにスマホを出して、音声入力で指示を出す。AIに適当な指示でカクテルのレシピを出力させた。そして、それらを全て適当に混ぜ合わせて、謎のカクテルを出力した。
「どうぞ。オリジナルカクテル『バイブコーディング』です」
どよんとした、濁った灰色がかった色をしている。絵の具を適当に混ぜて、死んだような色になったようなカクテルだ。
うーん、うまいのか、まずいのか。おそるおそるグラスを運んで一口飲んでみた。
「どう、若菜ちゃん?」
ソレルさんが、興味津々といった感じでのぞき込んで来る。
「ふにゅー、美味しくないです」
私は、梅干しを食べたときのような顔をして、口からグラスを離した。
「どんな味だった?」
「まずいわけではないんですけど、絶妙に美味しくもなく、いちおうカクテルなんですけど、味のバランスがちぐはぐで、改善の余地があるなあという感じです」
「まあ、今のAIは、味なんか分からないしね」
ソレルさんは、仕方がないなあという顔をする。
「お口直しにどうぞ」
マスターが、すっと縦長のグラスを出して置いてくれた。薄い黄金色で、小さな泡が揺れながらシュワシュワと浮かんできている。これは知っている。シャンパンだ。
「私は、こちらの方が好みです」
それにしても、AIはいろんなことができるのだなあと思った。




