第2話 ハッカソン
仕事の帰り道に、謎のバーが存在する。名前は『IT』。日本語に訳せば「それ」だ。いったい何を意図して付けた名前だろうか。以前店内に入った限りでは、店主がスティーブン・キング好きというわけではなさそうだった。
今日も今日とて、私、白名井若菜は、仕事の帰りにバー『IT』の前を通った。
――ハッカソン開催中。
扉に謎の張り紙がしてあった。ハッカソン? いったい何なのだろうか。
ハッカは知っている。シソ科ハッカ属のニホンハッカで、漢字では薄荷と書く。和ハッカと呼ぶこともある。シソ科ハッカ属の総称はミントとも呼ばれて、清涼感が特徴だ。
ソンは何だろう。損して得取れの「損」だろうか。あるいは、易の八卦の一つで東南を表す「巽」だろうか。あるいは、キューバ起源のラテン音楽のジャンル「ソン」かもしれない。
よく分からない言葉に頭が混乱した私は、ふにゅー、と思いながら、バー『IT』の扉を開けて中に入った。
薄暗い店内のテーブル席に、人がぎゅうぎゅうになって座っている。みんなノートパソコンに向かっていた。漁船の狭い部屋に押し込まれて、缶詰を作っている様子を想像する。現代の『蟹工船』? 私はとんでもないところに足を踏み入れてしまったようだ。
「いらっしゃいませ」
イケボのマスター情野技雄さんが、カウンターの向こうから声を掛けてきた。カウンター席も人で埋まっており、ノートパソコンの画面の明かりが、クリスマスのイルミネーションみたいに光っている。
「あら、若菜ちゃんじゃない。ここ、空いているわよ」
女性の声が聞こえてきた。目を向けると、カウンター席の端に、赤いドレスに身を包んだ妖艶な美女が座っていた。常連客の横江ソレルさんだ。
「あの、ソレルさん。お隣は埋まっているようですけど」
ソレルさんの隣には、ティーシャツにジーンズ姿の丸々と太った男性が座っている。ソレルさんが耳打ちをすると、男性は席を立ってテーブル席へと移動した。いいのかなあと私は思った。
「さあ、お座りなさい。私はあなたと話がしたかったの、若菜ちゃん!」
ソレルさんは嬉しそうな顔で舌なめずりする。ううっ、なんか怖いなあ。捕食されそうな予感がする。
「お隣の方はよかったんですか?」
テーブル席の方に、ちらりと視線を向けながら尋ねる。
「大丈夫。一杯おごる約束をしたから。というわけでマスター。あちらの方にマティーニを」
「かしこまりました」
私は、はわわ、となる。何か知らないけど、映画で見たようなやり取りだ。私は席に座り、周囲を見渡した。今日はお客さんたちはみんな、黙々とノートパソコンに向かっている。私も何か、作業をしている振りをした方がよいのだろうか。
「あの、ソレルさん。みなさん、何をしているんですか?」
「ハッカソンよ。ちなみに、今日のオススメのカクテルも『ハッカソン』よ」
ソレルさんはメニューを手に取り、私に見せてくれる。達筆の筆文字で『ハッカソン』と書いてある。
「あの。そもそも、ハッカソンとは何なのですか?」
私は店頭で抱いた疑問を、赤いドレスの美女にぶつける。
「由来は、紀元前四百九十年にさかのぼるわ」
「えっ?」
「登場人物は、アテナイの名将ミルティアデスと、兵士フィリッピデスよ」
「ギリシア起源の何かのせいで、この店の人たちは、すし詰め状態でカタカタ作業をやっているんですか?」
「そうよ」
何と言うことだ。ギリシア恐るべし。
「その年、ペルシアの大軍が上陸してきたの。その敵を、ミルティアデスが奇策をもって撃退した。その勝利を伝えるための伝令に、兵士フィリッピデスが選ばれて、アテナイまで駆けに駆けたの」
「ふむふむ。うん? それって、マラトンの戦いの話じゃないですか? 私は、ハッカソンの話を聞いたんですけど」
私は、やたらと体を近づけてくるソレルさんに、口を尖らせて文句を言った。
「いえ、その由来の説明は、実は正しいんです」
マティーニを運んで帰ってきたマスターが、会話に加わってきた。そして私を翻弄するソレルさんに代わり、説明を引き継いだ。
「ハッカソンは、ハックとマラソンを掛け合わせた言葉です。マラソンは先ほどの説明の通りの言葉で、ハックは、ハッカー、ハッキングなどで知られる言葉の動詞です」
ハッカー、ハッキング。何やら悪のにおいがする。マラソンしながら悪さをする謎の行為のことだろうか。私は警戒心を露わにして、猫のように、ふーふーと声を出した。
「いえ、ハック自体、悪い意味はありません。元々は、斧などで叩き切るという言葉です。上手いこと工夫して問題を解決するぐらいの意味でしかありません。
斧でぶった切るように大胆に手を加えて、雑に目標を達成するみたいなイメージで用いられることもあります。
ハッカソンは、長距離走のマラソンみたいに、一日とか一週間みんなで集まって、ソフトウェアなどの開発をするイベントです。個人で作業することもありますし、小規模なグループでまとまって作業することもあります。
この店は情報技術をコンセプトにしたバーです。だから、そうしたイベントをやることもあるんです。今日は朝から夜までぶっ続けで、参加者は開発をしています」
「ほへー」
よく分からないが、この店にいる人たちは、自主的にここに集まって、黙々と作業をしているわけか。ふつう、バーに行くのは休むためだ。この人たちは働くために集まっている。何と奇特な人たちだろうと思った。
「ところで、情報技術をコンセプトにしたバーってどういうことですか?」
私が尋ねると、マスターとソレルさんは目配せをした。
「マスターの私がプログラマーなんです。この店は、情報技術などに感心のある人たちが集まり、情報交換する場なんです」
「マスターってプログラマーだったんですか?」
プログラマーの存在ぐらいは、私も知っている。パソコンに向かってカタカタしている人だ。つまり、この店に今いるお客さんたちのような人だ。
「はい。ふだんは近くの会社でCTOをしています」
また、知らない単語が出てきた。華麗にスルーしよう。
「もしかして、ソレルさんもですか?」
赤いドレスの美女さんに、私は顔を向ける。
「ふふふ、どうかしら」
「秘密なんですか。謎多き女ってやつですか?」
「あっ、横江さんは、近所の会社の社長さんです」
「ブフッ!」
バーの謎めいたマスコットガールと思っていたら社長さんだった。何か知らないけど偉い人らしいことは分かった。
「あの、もしかしてですけどソレルさん。ここに常駐しているのは、ふらふらと寄ってきた若者をさらって、タコ部屋で働かせるためなんですか?」
「あら、よく分かったわね」
私はガクガクブルブルと震える。
「横江さん。白名井さんが怖がっていますよ」
「大丈夫よ。若菜ちゃんは、情報技術に疎いみたいだから。私がさらっていくことはないわよ」
肩に手を置いて、耳元で囁かれた。それってもしかして、私がこのバーに通って情報技術とやらに詳しくなったら、さらわれて強制労働をさせられるってことですか!
私がガクガクしていると、マスターがカウンターの中からノートパソコンを取りだして、私の前に置いた。
「今日はハッカソンですから、何か作っていただきます。今日のテーマは『カクテル』です。レシピのデータベースはありますから、フロントエンドをウェブにして何かを作ってください」
「ふわぁい$#@*???」
駄目だ。謎の呪文すぎて、まるで分からないし、分からないことすら分からない。
「あの、バーに来たので、お客としてお酒を飲んで帰りたいんですけど……」
私は助けを求めるように言った。
「はい。それでも構いません。今日のオススメは、オリジナルカクテル『ハッカソン』になります」
「じゃあそれで」
マスターは、何やらカクテルを作り始める。そしてグラスを大量に用意し始めた。
「『ハッカソン』です」
並べられた小さなグラスの数は四十二個。微かなハッカのにおいが漂っている。
「これ、全部飲むんですか?」
目を白黒させてマスターに尋ねる。
「お好きなところまでで大丈夫です」
どうしようと迷っていると、すっと手が伸びてきてグラスが一つ持ち上げられた。
「私が、一杯いただくわ」
ソレルさんがグラスを掲げる。
「俺もいただきます」
先ほどマティーニをおごってもらった大きな人が来て、グラスを一つ手に取った。次々と店内の人たちが来てグラスを手にしていく。私は最後に残った一つを掲げて「乾杯」と言った。
なるほど、ハッカソンは、みんなで取り組むカクテルなんだ。それから何人かが『ハッカソン』を注文して、私はそのたびにグラスを口に運んで楽しんだ。




