第10話 SQL
人生には、恥ずかしくて顔から火が噴き出しそうな瞬間がある。その瞬間は、今日訪れた。私、白名井若菜は、そのせいで職場で悶絶して、転がり回りそうになった。
「はあっ」
私は重い足取りで職場を出た。もう空は暗くなっており、街の灯りのあいだの夜空に、ちらほらと星の姿がのぞいていた。
「はああああああっ」
私は、マンガによくある、長い尻尾つきのフキダシのようなため息をつく。
「ぐぎぎぎぎっ」
歯がみをして、恥ずかしさで死んでしまいそうになった。
今日、私は、所長をバーに誘った。最近よく行くバーで、行きつけと呼んでも差し支えがない気になっているバーだ。お店の場所や雰囲気、これまで飲んだオリジナルカクテル、常連さんやマスターとの会話を余すところなく伝えた。そして、バー『IT』に所長も一緒に行かないかと誘ったのだ。
フラッシュバックのように、そのときの光景が蘇る。所長は真面目な顔をして、あごに指を添えて言ったのだ。
「それって、バーイットではなく、バーアイティーなのでは?」
私はしばし沈黙した。そして、相撲取りのように足を広げて、頭の上にハテナマークを無数に飛び散らせた。
「アイ・ティー?」
「ああ。カクテルの名前を聞く限り、IT用語ばかりだろう。インフォメーション・テクノロジーの略のIT。そっちの方じゃねえのか?」
私は無言のまま考えた。まるで将棋の棋士のようにあらゆる可能性を検討した。そして、勝利への一手があるのか熟考した。
「投了です」
「えっ?」
「私は、人生を投了します」
「おいおい、そんなことで投げ出すなよ!」
「ぐうっ、ぐうっ」
私は涙を流して泣いた。まるで、この世に生を受けて、初めて声を上げる赤子のように号泣した。オギャー、オギャー! そして所長にココアを入れてもらい、どうにか気持ちを落ち着けて、その日の仕事をこなしたのである。
「今思い出しても恥ずかしい」
足もとフラフラ、頭はクラクラ、私は千鳥足も真っ青の足取りで、暗い夜道を歩いて家へと向かった。目の前に明かりの点った電飾スタンド看板が見えてきた。そこには「バー『IT』」の文字がある。
あれは、イットなのかアイティーなのか。このまま何もなかったかのように通り過ぎよう。そして自宅に戻り、スライムのように溶けて、枕を涙で濡らすのだ。
「あら、若菜ちゃんじゃない。店の前で会うのは初めてね」
振り向くと赤いドレスの美女が立っていた。常連客の横江ソレルさんだ。私は所長とのやり取りを思い出してしまい、赤面してダッシュで逃げようとした。
「待ちなさい」
ハイヒールで、どうやってその速度で移動したんだ。まるで瞬歩だ。私は捕まって、猫のように吊されて、ソレルさんと一緒にバー『IT』に入ることになった。
薄暗い店内。琥珀色のような抑えた照明。いくつかのテーブル席と、カウンター席。今日の客の入りは半分ぐらいだった。
「いらっしゃいませ」
イケボのマスター情野技雄さんが、カウンターの向こうから声を掛けてきた。
「どうしたんですか、横江さんが白名井さんを吊し上げているように見えるのですが」
困惑したようにマスターが言う。
「この子、店の前で泣きそうな顔をしてフラフラしていたの。だから連れてきたの」
「そうでしたか。では、カウンター席の方にどうぞ」
私はソレルさんにつままれて、カウンターの椅子に腰を下ろした。
「どうしたの、若菜ちゃん。いったい、何があったの?」
「はあ。恥ずかしくて話せない。特に、マスターとソレルさんに知られるわけにはいかない」
「若菜ちゃん。相変わらず、心の声がダダ漏れよ」
ソレルさんに突っ込まれて、声に出して言っていたことに気がついた。
「何があったんですか?」
マスターが心配そうに聞いてきた。ソレルさんに言われて言うのは恥ずかしけど、マスターに尋ねられたのならば答えてもいいかなと思った。
「はあ、実は……」
私は、今日あったことの詳細をカウンター席で話した。
「なるほど」
私の話を全て聞き終えたあと、マスターはうなずいた。
「実のところ、イットでもアイティーでも構わないのですよ」
「えっ?」
「ダブルミーニングというやつでしてね、私がプログラマーだからアイティーでもありまして、代名詞のイットでもあるわけです。代名詞として呼ばれる存在になりたいという願いもこもっていますから」
「そうだったんですか」
滅茶苦茶恥ずかしいと思っていたけど、別に間違いというわけではなかったのか。ほっとしたら何か飲みたくなった。そう思った瞬間に、マスターが私の前にメニューの紙を置いてくれた。
私はメニューに視線を落とす。今日のオススメの欄には『SQL』と書いてあった。
「あの、マスター。これは何と読むのが正解なのですか?」
ITをイットと読むかアイティーと読むかみたいに、複数の読み方があるのかもしれない。
「そのままエスキューエルとアルファベットで読むか、シークェルやシーケルと読みます。
SQLは、ストラクチャード・クエリー・ランゲージ、構造化問い合わせ言語の略です。代表的なデータベース言語なのですが、元になった言語があるんです。それがSEQUELです。こちらは、ストラクチャー・イングリッシュ・クエリ・ランゲージです。なので、エスキューエルと読むのも、シークェルと読むのも、どちらも正しいのです。
情報技術の用語には、いくつかの読み方があるものは多いです。テキストのドキュメントだけで普及することが多いので、読み方は書いていないことが多々あります。なので人と会って話をすると、それぞれ読み方が違っていることもあります」
「へー、そうだったんですね」
感心して声を上げたが、説明の中に分からない単語があった。
「データベース言語って何ですか?」
「コンピューター内にあるデータの集まりから、欲しいデータを取ってくるように問い合わせをするための命令方法のことです。
役所で書類が欲しいときに、申請書を書いて受付に渡しますよね。ああいった一定の書式で、データの集まりから情報を得るんです」
なるほど分からんと思ったが、私は全てを理解したような顔をして納得した。
「ねえ、マスター。話、長すぎない? 若菜ちゃんに、飲み物を飲ませるんじゃなかったの?」
ソレルさんが横からツッコミを入れてきた。
「そうでした。ご注文は?」
「それじゃあ、今日のオススメの『SQL』で」
「私も、私も!」
ソレルさんも同じものを頼んだ。
「かしこまりました」
マスターがカクテルを作りはじめた。私は一息ついて、体の力を抜いた。
「本当に、びっくりしちゃったわよ。お店の前で、すごい顔でふらふらしていたから」
「すみません、お恥ずかしい限りで」
「でも、その日のうちに、どっちでもいいって分かってよかったじゃない」
「そうですね。ソレルさんのおかげです。ありがとうございました」
「ふふふ、若菜ちゃんの私に対する好感度が上がったわ」
「残念でした。私は非攻略キャラですので」
ソレルさんが凹んだ。いつものやりとりだ。
「どうぞ『SQL』です」
マスターが私とソレルさんの前にグラスを置いた。
「シークェルには、続編という意味もあります」
マスターは、今回のカクテルに使ったお酒について説明してくれた。ウイスキー不況のあおりを受けて一九八〇年代に閉鎖されたあと、二〇〇〇年代に再稼働した蒸留所のお酒を使っているそうだ。
「いろいろなお酒があるんですね」
「ええ。お酒は文化ですから」
マスターは笑みを浮かべた。私はソレルさんとグラスを掲げたあと、マスターの作ったオリジナルカクテルを口に運んだ。




