第1話 ハルシネーション
気になっている店がある。仕事が終わったあとに帰る途中、夜になると電飾スタンド看板の明かりが点いている店だ。名前は『IT』という。きっと、スティーブン・キングが好きな人が作った店だ。ホラーなテイストで、殺人事件が起きたりするに決まっている。
私、白名井若菜は、毎日その店の前を通りすぎ、いつかは覗いてみたいと思いながら一ヶ月を費やした。そして今日初めて、この謎の店に入ってみようと決意した。
店は、バーというお酒を出すところらしい。私だって二十歳の立派な大人だ。お酒を飲める年齢なので、映画でよく見たバーというものに憧れはある。ウイスキーを入れたグラスを、机の上でシャーと放って、パシッ!と受け取って、にやりと笑う場所だよね?
うう、コミュ障の私にはハードルが高い。それでも踏み込むのです! 人生経験を積むために、果敢にバー『IT』に挑むのです!
そうして私は、殺人ピエロ、ペニーワイズ が待ち受けていそうな、謎の夜のお店に足を踏み入れた。
私は、ガチャリと音を立てて重そうな扉を開けた。中は暗くて、弱い照明で店内が照らされている。これは、殺人ピエロも出そうな雰囲気だ。でも、大丈夫。私は、探偵会社の助手として、この一ヶ月研鑽を積んできた。たとえ、謎の殺人犯が現れても、えいやー!と気合いのデコピンで撃退する自信がある。
「いらっしゃいませ」
イケボのマスターがカウンターの奥から声を掛けてきた。ここはアウェイ。私はこのバーのニューカマー。挙動不審者と思われないように、優雅に振る舞う必要がある。
「ごきげんよう、みなさまがた。あの、私は、どこに座ればよろしいのでしょうか?」
表情はだだ崩れ、最後は舌をもつれさせながら尋ねた。
くすくすくす。綿毛のように軽い笑い声が聞こえてきた。視線を向けると、カウンター席に座っている女性がグラスを持って、こちらを見ていた。
赤くて、胸元が大きく開いたドレスを着ている。映画にしか出てこないような妖艶な美女がいた。嗚呼、これがバー。大人の世界。めくるめく官能の空間。
私は、くるくると回って倒れそうな気分になりながら、どうにか正気を保って、扉の前で右往左往した。
「私の隣が空いているわ。どうぞ」
赤いドレスの美女が、私を誘っている。これは、きっと禁断の大人の世界へのお誘いだと思いながら、一歩、二歩と近づいていき、隣に座った。
微かに香水の香りがした。隣の美女のつけているものだろう。マスターが、すっとメニューを出してきた。
「あの……」
マスターと美女さんのあいだで視線をさまよわせる。美女さんが、体を私に寄せてきた。
「この店、初めてなの?」
「あっ、えっ、はい」
悔しいけど、私はコミュ障だ。
「私が、いろいろと教えてあげる」
「ふへっ!」
私は、大人の色香に惑わされて、ドギマギする。
「おほん。横江さん。新しく来たお客さまを、あまり弄ばないでください」
マスターが、咳払いをしてツッコミをした。横江と呼ばれたお姉さんは、ちょっとすねた顔をマスターに向けた。
マスターは、カウンターの中から名刺を取りだして、私の前に置いた。
「情野技雄と申します。この店のマスターをしています」
名刺には、名前と読み仮名だけが書いてある。私はマスターの姿を確かめた。
年齢は四十代半ばぐらい。鼻の下にひげが生えており、服装はワイシャツに蝶ネクタイだ。少し痩せ気味で、指は細くて長い。イケボの声も含めて、イケオジという感じの人だった。
「ありがとうございます。名刺は持ってきていないのですが、私は白名井若菜と申します」
私は席を立って、所長に習った営業用のお辞儀をピシッと決めた。
「はい、は~い! 私は横江ソレル。このお店の常連よ。迷い込んできた初心な子を狩るのが好きな生粋のハンターなの!」
何、それ、怖い。
私は、妖艶な美女のソレルさんと、距離を取りたい気持ちになった。
「大丈夫です。横江さんは、実害はないです。ただ、ちょっと絡みがうざいだけです」
マスターがフォローを入れる。ちょっとうざいのか。うちの所長みたいだなあ。私は、少し緊張を解いて、周囲の客を見渡した。
カウンター席以外にもテーブル席がいくつかある。そこに座っている人のほとんどが、ノートパソコンを開いて、カタカタとやっている。
みんな、仕事に取り憑かれているのだろうか。社畜ゾンビ? バーに来たときぐらい、ビールを掛け合ったり、上半身裸になったり、お馬鹿な振る舞いをすればいいのに。真面目なんだなと思いながらメニューに目を落とした。
えっ、なに、これ?
バーが気になっていたので、事前にいろいろとカクテルのことを予習してきた。フィズとかモスコミュールとか、スクリュードライバーとかカミカゼとか。でも、そんなものはどこにもなく、見たこともないフレーズが並んでいた。
私はメニューの前三センチメートルほどの場所に顔を近づけて、しげしげと見つめる。今日のオススメの場所には、手書きの達筆な筆文字で『ハルシネーション』と書いてあった。
「ハルシネーション……聞いたことがないですね」
「そう? 最近ニュースなんかで、よく見ると思うわよ」
赤いドレスのソレルさんは、逆三角形のグラスを傾けながら笑みを浮かべる。えっ、もしかしてソレルさんは、日経新聞とかを、隅から隅まで熟読する派なんですか? 私は、LINEで友達と会話をして満足する派なんですけど。
「ハルシーネション、ハルシネーション……、そういえば似た言葉を知っています。ハルキゲニア! 約五億年前のカンブリア紀の海に生息した葉足動物で、カナダのバージェス動物群で見つかったというやつ。
報道なんかを見ていると、ハルキゲニアとして知られている部分は、大きな動物の一部なのではという話もあって、実際の姿はどうなのか分かんないな~とか思っているんですよ。私、滅茶苦茶興味あるんですけどハルキゲニア!」
知らない話題には、知っている話題で対応する。所長に習った、コミュ障のための会話スキルだ。
マスターとソレルさんは、ちょっと驚いたような顔をしている。ソレルさんは、ふっ、と笑ってグラスを傾けた。
「バージェスの名前を冠した、有機人形のエロマンガが昔あったわね」
「あの、横江さん。毎度思いますが、あなた何歳なんですか?」
「ふふ、マスター。女性に年齢を聞くのはNGよ。二十七歳だけど。それに、若菜ちゃんの話は、存外的外れではないわね。ハルシーネションとハルキゲニアは、語源が同じ言葉だから」
えっ、そうなの?
私は興味を持って、赤いドレスの美女に視線を向ける。ソレルさんは、私の肩に腕を乗せてきて、メニューを指差した。
「ハルシネーションは、ハルシネート『幻覚を起こす』の名詞ね。この言葉は、ラテン語の、夢み心地、夢想、が由来よ。ハルキゲニアも同じ言葉が由来。だから、若菜ちゃんの話は、遠からずといったところね。
ねえ、若菜ちゃん。私と一緒に、夢み心地の世界を味わいたいと思わない?」
ソレルさんは、私に体を近づけて、あごに手を触れてきた。私は、大人の誘惑に心臓をバクバクさせながら、これが禁断の世界なのか~~と思って顔を赤くした。
「おほんっ」
マスターが咳払いをした。
「横江さん。白名井さんをからかうのも、ほどほどにしてください」
「はーい」
赤いドレスの美女さんは、叱られた子供のようにそっぽを向いた。
「白名井さん。簡単に説明しますね。ハルシーネションというのは、最近台頭しているAI――人工知能に関する言葉です。自信満々に理路整然と言っているようで実際は嘘をつく。そんなAIの発言を、幻覚――ハルシネーションと呼んでいるんです」
「ほへー」
私はマスターの説明を感心して聞く。この説明の真偽を確かめる術を私は持っていない。まさに、この説明がハルシネーションでも分からないのだ。
「ところで、ご注文は、何になさいますか?」
「ふにゅ?」
尋ねられて、まだ何も注文していなかったことに気がついた。私はあたふたとしながら、メニューを見つめる。しかし、私が知っているカクテルの名前はどこにもなかった。
――これは、今日のおすすめに挑むしかない!
「それでは『ハルシネーション』を」
「かしこまりました」
マスターは、何やら複雑な作業をする。様々な色が層になった不思議なお酒が入ったグラスが私の前に置かれた。何だろうこれは?
「『ハルシネーション』です」
そうだった。私が注文したんだった。
「ありがとうございます」
私はグラスを手に取る。ソレルさんが、期待の眼差しで私を見ている。私は、緊張しながらグラスの中のお酒を見つめた。
私は、所長を思い出す。「人間、思い切りが大切だ」「人間、敗北してからが本当の人生だ」「人間はだいたい敗北する」「俺も大量の敗北を味わった」。所長の言葉を思い出して、私はカクテルを高々と掲げた。
「不肖、白名井若菜、『ハルシネーション』を飲みます!」
店内のお客さんたちが、びくっとした様子で反応して、こちらに視線を送ってきた。
私は、グラスの中身を口に含む。お酒の味とともに、とても甘い味を口の中に感じた。
「むにゅ~、甘いです~」
ソレルさんが、くすくすと笑っている。
「ハルシネーションは、幻覚を意味するオリジナルカクテルだもの。若菜ちゃんは、今日、幻覚を見るかもしれないわよ」
「ふにゅ~、ふにゅ~。目が回ります~」
私は、ソレルさんの胸に、ぽふんと倒れ込み、柔らかいおっぱいの上で、三十分ほど眠りこけた。




