12話ね!
放課後の空は、まだ夏の名残を抱えながらも少しずつ色を変えていき、西の空には橙が広がっていく。
土の匂いと、練習に励む生徒たちの声が入り混じり――昼間とは違う活気に包まれていた。
体育委員の田島くんが声を張り上げ、混合リレーのメンバーをまとめている。集まったのは男女合わせて4人。その中に田島くんと、そして四季――今も夏海さんなのかな?
そういえば、ルールでは4人で200メートルずつ走り、アンカーだけはさらに200メートルを追加で走るんだったか。責任重大な役割を任された彼女の背中を見ていると、自然と胸が高鳴った。
僕はグラウンドの外周にあるベンチへ腰を下ろし、リレーの練習風景をじっと見つめることにした。
どうやら、まずは全員で通しの練習をするらしい。
うちのクラスの走順は――1走が女子、2・3走が男子、田島くん、そしてアンカーが夏海さん。
こうして改めて見ると、全体のバランスも悪くないのかな。特に最後を任された夏海さんは、実力も気迫も十分に感じられる。
田島くんの合図と同時に、1走の女子がスタートを切る。
競争相手がいないためタイム感は分からないけれど、それでもかなり速く見えた。
バトンはスムーズに繋がっていき、2走、3走と順調に進んでいく。
そして、最後。
バトンを受け取った夏海さんが、ぐんと地面を蹴って一気に加速した。
「……はっや」
思わず、声にならないほどの驚きが口を突いて出た。
本気で走っているのが伝わってくる。
コーナーでは少し走りづらそうだったけど――それを抜けた直線に入った瞬間、彼女のスピードはさらに上がった。
彼女は楽しそうに、まるで風と競い合うように嬉しそうに走るその姿。
ただ速いだけじゃない。競技そのものを全身で味わっているような、生き生きとした表情に僕は思わず目を奪われた。
最後の直線でも、彼女はまったくスピードを緩めない。
むしろギアを一段上げるように、さらに加速してゴールへと駆け抜ける。
その勢いのまま、ラインを踏み越えた瞬間
――僕は思わず、ひとりで拍手していた。
パチン、パチン、と乾いた音がグラウンドの隅に響く。
ふと気づくと、4人の走者たちがこちらを振り返って手を振っていた。
真ん中で、夏海さんが嬉しそうに胸を張っている。
僕も思わず笑って、軽く手を振り返した。
「天野ーっ!こっち来なさーい!」
グラウンドに僕を呼ぶ声が響く。
叫んだのは夏海さんだ。両手を大きく振りながら、こちらに来いと全力でアピールしている。
僕は立ち上がり、ベンチを離れて、ゆっくりと彼女たちのもとへ歩き出した。
「お疲れ様。……うん、めっちゃ速かった」
僕が素直にそう言うと、メンバーの顔がぱっと明るくなった。
「だろ?最初の頃と比べたら、全然違ったよな」
田島くんが胸を張る。
「スタートもバトンも、流れがすごく自然になってきたな」
「タイムも確実に上がってるかもね、あれは」
「まぁでも、まだスタート合わせるのはちょっとムズいかもな〜」
みんなそれぞれ感想を口にしながら、手応えを感じてるみたいだった。
「うんうん……で、アタシのは?アタシの走りはどうだったの?」
夏海さん――四季が、腕を組んでにじり寄ってくる。目線はこっちだけじゃなく、全員をぐるりと見回していた。
どうやら、僕だけじゃなくて、みんなの声も求めてるらしい。もしかして、僕を呼んだのもこのために?
「いやー、最後の直線すごかったなあれ、完全にエースの走りだったわ」
「しかもめっちゃ楽しそうだったよね、走ってるとき」
「うん、普通にかっこよかった」
「びっくりするぐらい速かったかな」
素直な言葉が次々飛んできて、彼女はちょっと驚いたように目を瞬かせた。
……でも、すぐに鼻を鳴らしてふんっと笑う。
「ふふっ……ほらね?分かる人には分かるのよ、アタシの凄さが」
誇らしげに腕を組み直して、堂々と頷く。
その顔は、いつもの自信満々な感じなんだけど――なんだろ。
めちゃくちゃ嬉しそうにも見える。
◇◇◇
リレー練習が終わる頃には、空もずいぶんと赤くなっていた。
他のグループが次々に引き上げていく中、グラウンドの賑やかさは少しずつ静けさに変わっていく。
ふと横を見れば、夏海さんが紐を手に取って歩いてきていた。
「さてと……次はこっちの番ね」
やる気に満ちた瞳でこっちを見上げると、躊躇なく片足を差し出してくる。
結べってことか?
「えっと……じゃあ、結ぶね」
僕は紐を受け取ってしゃがみこみ、足をしっかりと結んでいく。
どこかで見たような光景だな……と思ったけど、そうか、冬乃さんのときか。
状況も相手も同じなはずなのに、空気の重さが全然違う。
「……いい? 天野」
ふいに名前を呼ばれて顔を上げると、夏海さんは腕を組み、不敵な笑みを浮かべていた。
「アタシが転けそうになったら、あんたが下になるのよ? アタシを庇いなさい」
「……え、ちょっと待って。それ本気?」
「なに? 女の子に怪我させて平気なの?」
夏海さんはじりっと顔を近づけてくる。
「アタシみたいに可愛い子を守れるだけでも名誉なことでしょ?」
「えっと……どこまでが冗談?」
「全部本気よ!」
――無茶苦茶言ってる。けど、まぁ……確かに、怪我させたりでもしたらクラス全体に迷惑がかかる気がするし……
それに夏海さん以外の人格に対しても、罪悪感が出るよなぁ……
誰が出てきても同じ身体なのは事実で誰か一人に怪我をさせたら、他の子たちにも影響があるんだって、頭ではわかってる。
そう思うと、僕は自然と表情を引き締めて頷いていた。
「……わかった。絶対に転ばせないようにするよ」
そう口にした僕の顔が、思っていた以上に真剣だったのかもしれない。
夏海さんは一瞬だけ目を見開いて――驚いたように、ほんの少しだけ表情を崩した。
「……っ」
けれど、それをすぐに誤魔化すように、ふいっと視線を逸らして、声を張る。
「な、なに真顔になってんのよ! ……さっさとやるわよ、練習!」
そんなやり取りのあと、僕たちは息を合わせて練習を始めた。
最初はゆっくりと歩くところから。歩幅を確かめるように何度か往復して――
だんだんと、タイミングが合ってきた。
足並みが揃いはじめたころ、夏海さんが小さく息を吐いて言った。
「……悪くないわね。アタシと組んでここまで動けるなら合格よ」
「……こっちは、ついていくだけで必死なんだけど」
「そりゃそうでしょ?アタシのレベルに合わせるの、大変なんだから」
肩で息をしながらも、夏海さんはどこか得意げな笑みを浮かべている。
でも、その目はちゃんと僕の動きを見ていて、合わせようとしてくれているのがわかる。
――さっきまであんなに強気だったのに。
こうしてちゃんと協力してくれてるところ、ちょっと意外かもしれない。
「じゃあ、次は軽く小走りで行きましょう」
「時間ももう少なくなってきたわけだし、慣れるに越したことはないでしょ?」
言いながらもどこか張りつめた空気が伝わってくる。
僕は「うん」と頷いて、ふたりで息を合わせる。
「せーの……っ!」
最初の一歩、二歩、三歩――
今まででいちばんスムーズに走り出せた。スピードも徐々に上がって、足の運びも軽くなる。
けれど――ほんの一瞬、リズムがずれた。
「……わっ!」
次の瞬間、視界がぐるりと傾いた。
バランスを崩し、そのまま地面が迫ってくる。
咄嗟に、僕は夏海さんの肩を引き寄せながら、体をねじった。
ドサッと鈍い音がして、背中に土の感触が走る。
痛みはあったけど、それ以上に気になるのは――
「ちょ、ちょっと……! 天野、大丈夫!?どこか打ってない!?」
すぐ顔の上から覗き込んでくる夏海さんの声。
目が合った瞬間、いつもの強気な感じじゃなくて、明らかに焦った顔をしていた。
「あ、うん。全然平気。……そっちは怪我ない?」
僕がそう言うと、夏海さんは目を見開いて、一瞬だけ固まった。
「――ばかっ!」
唐突に、強い声で叱るように言われた。
「あんたが怪我してそうじゃない!なによそれ、平気な顔して……!」
怒ったような顔のまま、彼女は僕の体をぐいっと起こしてくる。
そして遠慮もなく、肩や腕、背中に手を這わせながら――
「痛いところは!? 打ち身ぐらいにはなってそう!?擦り傷とか大丈夫なの!?……ちゃんと確認させなさいっての!」
必死になって僕の体をチェックしてくる夏海さん。
その手はちょっと乱暴だけど――どこか、すごく心配してるのが伝わってくる。
「……ほんとに平気だって。ほら、動かせるし」
僕が苦笑しながらそう言うと、夏海さんはじっと僕の顔を見つめてから、小さくホッとため息をついた。
……実際のところは、痛い。めっちゃ痛い。背中も肩も肘も地味に痛い。動かすたびにズキズキするし、打ったところは明日には確実に痣になってそうだ。
でも、ここで顔に出したらきっともっと大騒ぎされるし――
なにより、あれだけ心配してくれた夏海さんの前で「やっぱ痛い」なんて言えない。
だから、僕はできるだけ何でもないように振る舞った。
……たぶん、こういうのを見栄って言うんだろうな。