闇の大地シウバと邪神ミルンの宮殿
仄暗く濁った空に雷鳴が轟く。
血に飢えた怪物が跋扈する赤い陸地には、異形の木々や植物が根付き、人間が見る悪夢を具現化したような情景が広がっている。
ここは、ガルナンの大地と地続きになっている闇の大地シウバである。
立ち入りは死を意味する暗黒世界のど真ん中に、四方を堅牢な壁で守られ、極彩色の花々に囲まれた朱色の宮殿がそびえていた。
人間の大地から奪い取ってきた豪華な調度品や、名のある戦士の頭蓋が戦利品として飾られた血の如き朱い宮殿内の最奥には、玉座の間がある。
シャンデリアの灯りに照らされる厳かな空間には、幾人かの姿が見えた。
禍々しい形状の玉座に腰掛けて頬杖をつき、足を組む者がいる。人間の少女のようであるが、彼女は異形でもあった。
頭には二本の短い角が生えているのだ。絹糸のように美麗な白髪は背中まで伸びており、前髪は水平に揃えられている。透明感のある乳白色の肌をネックラインが大きく開いた黒を基調とする丈の短い礼装に包んでおり、彼女の本質である反道徳と過激さを表していた。
退廃的な黒き衣の二角少女は深淵に咲く花であり、闇の大地を統べる者――人間、聖霊と時代を跨いで戦い続ける邪神ミルンである。
「ほう、それでおめおめと逃げ帰ってきたワケとな」
ミルンの幼い声に棘が混じる。
丸く大きな真紅の瞳を細めて、ある人物の報告を聞いていた。
「マジでガチで申し訳ありませんっぺ! でも普通想定なんてしないっぺ! ミルン様が石板に封じた大聖霊ヌンキを解放して、契約した勇者がいるなんて」
床に額をこびりつけ、必死に謝罪と言い訳が入り混じった言葉をミルンへ伝えていたのは、敗走した大眷属ウッホである。
ガタガタと震えていた。勇気を捻りだしたものの、自身ら眷属達を従える邪悪の頂にいるミルンへ失敗を報告するのは、当然恐怖しかない。
「石板と巡り合い、永きにわたる封印を解いてヌンキを使役する人間が現れようとはの。フッ、面白くなってきたではないか」
ミルンは人間側に訪れた奇跡に対してあろうことか、愉悦を感じていた。
「戦いは均衡からくる緊張感がないとハラハラしなくて面白くないからのぅ。そう思うだろ、カエラよ」
不利に一転した状況を妄想して興奮すらしていた闇の女神は、玉座の隣に立つ自身の理解者もとい、側近を流し見て呼びかける。
「えぇ、ミルン様」
カエラと呼ばれたミルンと相反する白装束を身に纏った金髪の少女は、口角を上げて同意した。
「カエラが考案してミルン様に生成して頂いた邪鏡による年齢制限の結界が全て除去される可能性が生まれてしまいましたが、その状況すらもお望みの一つであろうとは察しております」
「フフフ、貴様には人間共をジワジワ苦しめる暇潰しをせっかく考えてもらったのになぁ。しかしこのままだと我サイドが有利に傾き過ぎて面白くなかったからのぅ、丁度良かったわ」
片目を瞑り、余裕気な様子のミルン。
首元の黒いレースをあしらった首飾りが揺れる。悔しさは微塵もなく、心から現状を楽しんでいた。
そして明らかになる全容。現在ガルナンの大地を蝕む邪鏡と年齢制限結界による眷属侵食の享楽は、カエラが立案して邪神ミルンへ進言したものだったのだ。
ある意味純真かつ、考え足らずに突き進む傾向にあるミルンへ凝った遊び方を教えたカエラという謎の少女は、ミルンの協力者に違いなかった。
「慢心しきり、相手を舐めてかかることで生じる危機を好物の一つとする貴方にはうってつけの展開になってきたようですね」
ミルンは自身の本質をつつかれて、にやりと笑う。
「あぁ。勢いづいた人間共に勝負の運が流れ、その者だけでなく、他にも大聖霊を開放する者が続々現れるかもしれんぞ」
「二度あることは三度ある、と言いますからね」
「最終的にはそやつらを筆頭に、人間共が宮殿まで侵
攻してくるかもしれんな。その瞬間や大ピンチな場面を想像しただけで興奮してしまうわ」
「……ミルン様、ヨダレが垂れておりますよ」
「おぉ、これは我としたことが」
カエラの指摘を受けて、ミルンは手で涎を拭った。
「だが血が滾るのはしょうがないであろう? 前回の闘争でお前ら勇者共率いる人間達が、手加減しきった我を死の淵まで追い詰めた時に並ぶ絶体絶命の状況を期待しとるのだ、ククク」
頭の中で展開される妄想世界にゾクゾクと感情を昂ぶらせ、瞳を妖しく光らせるミルン。そして荒い息を吐きながら、思い描いたフィナーレに恍惚の表情となった。
「そして希望に満ちた人間共を、一人残らず叩き潰してやるのがまた快感!」
口に出すだけで、思い返すだけで昇天してしまいそうだった。自身が世界に生まれてから、幾度も諦めの悪い人間達を叩きのめして、その都度快感に浸ってきたのだ。
そんな残酷快楽主義な邪神ミルンに、元勇者と呼ばれたカエラは保護者のような暖かい眼差しを向ける。
「楽しみでございますねミルン様。して――」
一転して氷の如き冷たい眼差しを、段差の下で土下座を続けるウッホに送り、
「失敗したウッホにはどのような罰を与えましょう?」
非常な現実を突きつけた。
ウッホは身を丸めて二人の会話に聞き耳を立てながら、このままミルンの機嫌が良くなり「今回は許してやる」的展開にならないだろうかと淡い期待を抱いていたが、なけなしの希望は無残にも崩れた。
「グゥ……」
底なしの闇に閉じ込められた心境になってしまったが、頭を少しだけ動かして余計な一言を放ったカエラを怒りに燃えた目で見やった。
(ユウめ、ミルン様の側近の座を得たからっていい気になるなっぺ。戯れで命を救われた新参者如きが!)
面と向かっては言えないため、心中で彼女への不満を爆発させる。
(そもそもミルン様は何で勇者のリーダー的存在を助けた? しかも名前まで与えて! あの方の考えはよくわからんが、所詮奴は人間共を見捨てて命惜しさに寝返りやがった臆病者、今に見てろっぺ!)
事の全貌をウッホは全て知っている。
前回の大戦で率いていた人間達を逃がすために彼女が殿を務めたものの、ミルンとの一騎打ちで最後は負けた。そして捕らえた彼女に、情けをかけたのだと。
何故ミルンが勇者と呼ばれた人間側の救世主を処刑せず、あろうことか名前を授けて配下にするまで気にかけたのか、ウッホにはまるで理解できない。
「そうだな、このままお咎めなしでは他の者に示しがつかんからの。なぁウッホ?」
ミルンは眼下のウッホへ意地が悪い笑みを浮かべて見せた。
鋭いものに射抜かれた感覚に襲われたウッホは、息が詰まり吐き気さえ覚えたものの、押し戻して現実に迫る罰から逃れるため必死に頭を働かせる。
「ミ、ミルン様。もう一度チャンスを下さいっぺ!」
なんとか出てきた言葉は、捻りもないものだった。
「チャンスだと?」
「そうだっぺ! オラにはチャンスを受ける権利と理由が充分ありますっぺ!」
「ほう? ならばお前の言い分とやらを聞いてやるから、申してみよ」
切羽詰まった声を受けたミルンは、興味深げに先を促した。
「あ、ありがとうございますだっぺ!」
ウッホは零れ落ちてきた希望へ歓喜し、深呼吸した後に意を決した顔つきで語り出す。
「幾年も貴女に仕え戦ってきて、ヘマをすることは一度、いや二度あれ何回だっけ? とにかく色々あったけど頑張ってきたっぺ! 貴女が自分の快感のために人間共を舐めてかかって毎回最後は劣勢になるもんだから尻拭いを被ってきたが、文句は言わなかった。調子こいてるクセに実際は長年の戦いの影響で弱体化してる貴方を誠心誠意守ってきた! だからッ」
チャンスを受ける権利を持つ理由どころか、途中から熱が入り過ぎて文句に変わったことへ本人すら気がつかず止まらなかったが――
「もうよい、ウッホよ」
とうとう制されたウッホは致命的に鈍かった。
想いを理解してくれたのかと、期待に満ちた眼差しをミルンに向けるが、
「わかってくれ――アレ?」
闇の女神は憤怒の形相で睨んでいたため、慄いて竦み上がった。
(え!? 何で怒ってるっぺ。オラ、何か怒らせることいっただか!?)
思っていた展開とは違い、激しく動揺するウッホ。
ミルンは、馬鹿過ぎた下僕の溢れ出た不満に我慢ならず立ち上がり、
「我の快感のための戦いを、誰であろうが指摘されるのは好きくない。もう怒ったからな、我自らお前に罰を下してやる」
ウッホを指差して怒りを露わにしたのだ。
「クスクス……」
成り行きを静観していたカエラは、間抜けなウッホの発言と末路へ含み笑いを漏らす。
「お前ら、ウッホを取り押さえろ!」
ミルンがぱんぱんと手を鳴らすと、どこからともなく灰色の肌をした二体の巨人が現れた。
人間よりも大きいウッホを子供扱いする程のサイズである。目、鼻、口等の感覚器官はないが、迷うことなく戸惑うウッホの両脇にしゃがみ込むと、
「や――やめろぉ!」
それぞれ肩と腕をガッチリつかんで動けないよう四つん這いに固定した。
「おいコラ離せッ、無礼なマネをするな! オラは大眷属、お前らより偉いんだっぺよ!」
拒否のウッホはただの眷属であろう二体へ叫び散らかして命じるも、大眷属よりも位の高い存在に命令されている巨人らは、決して離しはしない。
「離せ! 離せ――あッ!」
喚くウッホが尋常ならざる威圧感にハッと気がつき前を見ると、小さなミルンが立っていた。
灼熱の怒りに燃える彼女へ見下されたウッホは、
「ひッ。あ、あれだべミルン様ッ! 言葉のあやで本当のこと言っちまっただけだっぺ。だから……」
必死に言い訳を取り繕う。
しかし無情なミルンには届かず、判断も変わらず。
「出来の悪い下僕に教育的指導だ。覚悟しろ、百烈尻叩きッ!」
言い放った刑を自ら処する所存でもあった。
いつの間にか持っていた鞭を片手に、ウッホの背後に回り込む。
「あ、あ」
恐怖が極限に達したあまり、ガチガチと歯を鳴らして涙を流すウッホ。
百烈尻叩きという罰の内容を、長年ミルンに仕える彼が知らないはずがなかった。ヘマをして処される同胞を、何度も目撃してきているのだ。
「歯を食いしばれ」
冷たい声がした。
始まる。ウッホは覚悟を決めきれず、許しを請おうとするが、
「助け――」
まず一撃。
鋭い鞭打がピシャンと切り裂くような音を立てて、大きな尻の真ん中に放たれた。
「アヒィッ!?」
堪らず悲鳴を上げるウッホ。
痛絶。初撃から痛すぎて、ウッホは恐怖とは違う涙も流した。
屈強な巨人二体に掴まれているため、のたうつことも許されない。
こうなるとミルンは止まらない。痛みに打ち震えるウッホを見て湧き出す、ゾクゾクとせり上がる快感に押されるように鞭を送り続ける。
「そらッ! 泣け! 喚け! 騒げ!」
彼女の鞭の雨を受け続け、正気でいられる者はいない。
「アヒィ! もっと! もっと強いのをけれぇ!」
尻を赤く腫れ上がらせたウッホはすでに精神が壊れかけており、鞭打を望む声さえ出していた。
幼き容姿の邪神は、白髪と黒のドレスをふり乱し、
「我に! 指図! するなッ!」
快楽のままに鞭を振るい続ける。
狂宴は序盤に過ぎない。時には鞭だけではなく、底が厚くゴテゴテとした装飾のブーツで尻を思い切り蹴り上げてた。
無邪気にはしゃぐ邪神ミルンを、静かに見つめるカエラ。人間側についていた彼女が命を拾われ、邪神側へつくに至った事情は、たんなる寝返りではなく一筋縄ではいかないものだった。
邪悪なる神と眷属――人間、聖霊達との戦いは終わらない。
救世主が現れたなら、あるいは……。




