表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/76

第9話 天国になくて、地上にあるもの

「ユダ……?」


 ユダって、あのユダだよね。


 天国に、いるんだ。

 なんとなく、いないのではないかと勝手に思い込んでいた。


 ユダがテーブルに盆を置いて、こちらに向き直って言った。


「あらためまして、ユダ・タダイです」

「え?」


 ユダは相変わらずにこにこしている。

 マグディエルははっとした。


「あっ! イスカリオテじゃないほうの!」

「ちょっと、マグディエル」


 アズバに軽く小突かれる。


 ユダはユダでも裏切り者の方ではなかった。使徒しとのひとり聖ユダだ。イエスの弟子の中にユダは二人いた。


 でも、つい忘れがちだよね。


 という思いが、見えたのかユダが「そうそう、忘れられた方のユダですよ」と言った。


「ごめんなさい」


 マグディエルが謝ると、ユダは顔をくしゃっとして無邪気に笑った。


「気にしないでください。けっこう気楽でいいものですよ。ペトロみたいに有名だと、大変そうですからね」

「ペトロがここにつれてきてくれたのよ。ユダは薬草の扱いがうまいからってね」


 アズバの説明に、また口の中がきゅっとなった。

 もうあの薬草ドロドロみたいなものは飲みたくない。


「失礼」


 ユダがマグディエルの額に手をふれる。


「まだ熱がありますね。どうですか、どこか痛みますか?」


 そう聞かれた途端、のどの痛みに意識がいって、咳き込む。


 どこもかしこも痛かった。


 まだ頭もぼうっとするし、身体がだるくて関節が痛む。それになんだか、胸がつかえるように、息がしづらい。喉が痛くて、喋るたびに咳が出そうになる。

 すべて未経験のつらさだった。


 マグディエルの訴えをひと通り聞いて、ユダが眉尻をさげた。


「ずいぶん、ひどそうですね。かわいそうに。ここには薬もろくにありませんからね。わたしも薬草をさがすなんて、二千年以上ぶりですよ」

「そりゃそうだよね、天国で病気になるなんて聞いたことないし」


 ナダブがため息をついて言った。


「そうねえ、怪我ならまだ聞いたことあるけど……」


 アズバも困った顔で言う。


 ユダが、持ってきた器をマグディエルに差し出した。

 マグディエルは、目をそらす。


 ユダが、ふふと笑った声が聞こえた。


「これは苦くありませんから安心してください。喉がつらそうでしたからね。ただの生姜湯ですよ」


 ベッドから起きるのをみなに助けてもらって、生姜湯を飲む。


 生姜と、蜂蜜と、なにか花の香りがする。

 甘くて、温かい。


「ねえ、マグディエルって地上での偽造ぎぞうID持ってるよね」


 ふと、ナダブが言う。


「あ~、うん」


 メンタルクリニックに行くために、座天使スローンズに頼んで作ってもらった。


「それ使って地上の病院に行ってみたらどうかな。天国には病院なんてないし」

「え」

「なるほどね! いいんじゃない? 病気のことは天使よりも地上の人間たちのほうがよく知ってるでしょ」


 ナダブの提案に、アズバが乗り気な様子で答える。


 いや、メンタルクリニックはまだしも、病院はどうなんだろうか。


 そもそも天使の身体が人間のつくりと一緒かどうかもあやしい。

 もし、検査の途中で「あれ、これ人間じゃなくない?」みたいなことになったら?


 それに、どんなことをされるのか怖い。

 医療ドラマで、腹を掻っ捌(かっさば)かれている患者を見たことがある。


 マグディエルは、一気に体温が下がった気がした。


 怖い。


 ナダブとアズバは「雲行きが怪しくなったら逃げればいい」と言って乗り気なようだった。


 マグディエルたちはユダに礼を言って、さっそく地上に降りることにした。



     *



 待合室のすこしかたい椅子に腰掛けて、呼ばれるのを待つ。

 マグディエルの右にアズバが座り、左にナダブが座る。


 病院のなかは、なんだか独特な香りがした。

 薬品の匂いなんだろうか、なんとなくそっけない匂いだ。


 ナダブが水没に負けなかったスマホで検索して調べた病院は、おおきな総合病院だった。


 受付で症状を言うと、何番の窓口に行ってくださいと誘導される。


「ねえ、わたし喫煙歴きつえんれきあるんだけど、二百年くらい前だったら書かなくていいかな」


 記入してくださいと言われた紙を見ながら、マグディエルは誰ともなしに聞いた。


「書くなよ。二百年前なんて書いたら、頭おかしいと思われるぞ」


 ナダブがぴしゃりと言う。

 病歴は、ぜんぶなし。

 症状の欄は、文字があふれんばかりになった。

 紙を返して、しばらく待つと、番号を呼ばれた。


「行けよ」

「マグディエル、よくてもらうのよ。わたしたちここで待ってるからね」

「一人でいくの⁉」


 すっかり中までついてきてくれると思っていた。


「そりゃそうだろ」

「危なくなったら叫ぶのよ」


 そんな……。


 もう、そのあとは、わけがわからない恐怖の連続だった。


 銀色の棒で舌を押さえつけられ、細長いもので鼻の奥をぐりぐりされ、冷たいもので胸やら腹を触られ、小さな部屋につれていかれて「息をすって、とめて」と謎の要求をされる。


 中でも一番おそろしかったのは、針をさされて血液をとられた瞬間だった。

 はじめて自分の血を見た。


 思わずふらっとなったが、まわりは慣れているのか、マグディエルの腕と身体をささえて「は~い、こわくないですよ~、すぐ終わりますからね~」と言った。


 すぐ終わったが、怖くないことはなかった。


 マグディエルは、来た時よりもいっそうフラフラになって、アズバとナダブのもとに戻った。


「どうだった?」


 アズバが心配そうに背中をなでてくれる。


「入院だった」


 アズバとナダブが大きな声で「えっ!」と叫んだあと、お互いに「しーっ!」とした。


「入院~? そんなにひどいんだ」

「肺炎なんだって。軽度だけど、様子を見て数日入院してくださいって」


 そのあとは、アズバとナダブが受付やらなんやらをしてくれて、すぐに病室へと案内された。ちいさな個室だった。点滴をされるときに、針を見てまたふら~っとなったが、それが終わるころには、すっかりマグディエルも落ち着いた。


 気づいたころには、日が傾きはじめていた。

 なんだか、地上は一日が早い気がする。


「マグディエル、わたしたち一度戻るけれど、大丈夫? もし、不安なら——」

「大丈夫だよ。ここでただ寝てるだけだから」


 マグディエルは急に、アズバとナダブの身体が心配になった。


 自分の身体がつらいので、すっかり失念していたが、二人ともあの水の壁崩壊に巻き込まれているのだ。きっと疲れているにちがいない。


「ふたりとも、戻って休んで」


 アズバは心配そうにしていたが、ナダブが「行こう」とアズバの腕をひいた。

 アズバとナダブは、マグディエルの額になぐさめのキスをして、帰っていった。




 マグディエルはぼーっと窓の方を見つめながら、ラッパのことを思い出した。


 後悔ばかりが胸をおそう。


 大切なラッパだったのに。

 マグディエルは泣きたかったが、なぜか涙はまったく出てこなかった。


 ラッパは完璧だった。

 金色の美しい姿は堂々たるものだったし、あのラッパこそが大切な使命を体現していた。マグディエル自身は……、おまけにすぎない。ラッパの吹き方も知らない上に、神のことを感じることもできない、こんなポンコツな天使は第一番のラッパに似つかわしくない。


 真っ二つに割かれるのも、湖のどこかへと失われてしまうのも、ラッパではなくマグディエルがそうなるべきだった。

 ラッパさえ残されていれば、その使命は他の天使が肩代わりできたかもしれないのに。


 熱があがってきたのか、意識がぼんやりとしてきた。

 喉の奥がヒリヒリと痛む。


 やっぱり、アズバとナダブにいてもらえばよかった。


 一人で見慣れない部屋にいることが、急にとても寂しくなる。

 マグディエルは、掛布団を口元まで引き上げて、目を閉じた。


 ふたりの翼の暖かさが恋しかった。



     *



 マグディエルの意識は、眠りと目覚めの一歩手前のような状態をくりかえした。

 寒くて意識が浮上したと思ったら、今度は暑くて、といった具合だった。


 何度目かに、暑いな、と意識が浮上した時、額にひんやりとしたものがおかれた。

 すーっと熱を吸い取ってくれるような、すてきな心地がした。


 それに、とても良い香りがする。


 マグディエルの意識は、その心地よさに、また意識を手放した。

 今度は、心地よく眠れそうだ。




 ふと、唐突に目が覚めた。


 どのくらい寝たのか、窓の外はすっかり暗くなっている。

 身体のしんどさは、今は感じなかった。


 なんだか、すごくいい匂いがする。


 窓に反射しているベッドの脇に、見慣れない姿が写っている。

 はっとして見やると、一人の美しい天使がこちらを見ていた。


 驚いて身を起こすと、天使はマグディエルの背をささえて座るのを手伝ってくれる。背にクッションまでおいてくれた。


 近くにくると、あまりの良い香りに、舞い上がってしまいそうになる。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 はて。


 この声……。


 マグディエルは、この天使の声に聞き覚えがあった。だが、こんなに立派な天使に知り合いはいない。


 六枚羽の高位の天使であるという点だけは、以前手紙を届けてくれた天使と似ているが、この天使の美しさと輝きは、はるかに迫力があった。


 輝く六枚羽は立派に大きくて白く、風切羽のひとつひとつが虹色に煌めいている。姿かたちは言いようもないほど美しいが、とくに瞳が素晴らしい輝きを放っていた。明けの星を閉じ込めたような美しさだ。


 それにこの香り。


 ひざまずいてなでなでされたくなるこの、うっとりするような素敵な香り。

 どこかで……、この香りをかいだことがある。


 マグディエルの頭に急に浮上した言葉があった。


『練習で吹いちゃいけないなんて言われてないだろ?』



 ヘビ!


 あの、ヘビの香りと同じだ。声も。

 イヴをだました、ふるいヘビ。


 マグディエルは、身を引いた。


 天使は、その様子を見ておかしそうに微笑んだ。


「やあ、ひさしぶりだね。マグディエル」


 その声は、相変わらずうっとりするような響きがあった。


☆聖書豆知識☆


【ユダ・タダイ】

イエスを裏切ったイスカリオテのユダとは別の、イエスの弟子である聖ユダ。

裏切り者と同じ名前であったため、意図的に避けられ「忘れられた聖人」と言われる。


【ふるいヘビ】

サタンのこと。堕天するまえは御使い(天使)だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ