第7話 レビヤタンの仕業ヤタ~ン
マグディエルがアズバを翼でつつみこむより早く、アズバは振り仰いで左手でレビヤタンの喉をぐいと押し上げた。レビヤタンの口先から吐き出された炎は、マグディエルたちには向かわず、空中に放たれた。
倒れたマグディエルの顔のよこに、アズバが右手をついている。
腕が……、強そう。
さっきまでの、たおやかなアズバの女らしい腕は、しっかりと筋肉のついた男の腕にかわっていた。
マグディエルに覆いかぶさったまま、レビヤタンを振り仰ぐアズバの首はしっかりと男らしい。
レビヤタンの喉を押し上げながら立ち上がったアズバは、今度は軽々とレビヤタンを押し返した。
難をのがれていたナダブが、マグディエルを助け起こしながら言った。
「アズバのあの姿……、久しぶりだね」
「うん」
答えながら、マグディエルはアズバの姿を目で追う。優し気なアズバの雰囲気はかわらないが、あごは男らしい線をえがき、顔つきはすこし精悍さを増したようだ。
アズバのげんこつが、レビヤタンの右頬にもろに入った。
思わず自分の頬を抑える。
「ねえ」
ナダブが言う。
「うん?」
「アズバ、笑ってない?」
女の姿から男の姿に変わったアズバは、楽しそうにレビヤタンを殴っていた。
そのあとは、レビヤタンがかわいそうになるほど、一方的なたこ殴りだった。
レビヤタンはたまらんとばかりに、水の壁の中に逃げていった。
「アズバ、お疲れ~」
ナダブが声をかけると、振り返ったアズバが低くなった声で答えた。
「久しぶりに思いっきり身体うごかすと、気持ちいいね」
「その姿めちゃくちゃ久しぶりだね」
ナダブの言葉に、アズバが「そうだね、いつぶりかな」と笑った。
もう千年レベルで見ていなかったので、なんだか違和感があるが、アズバも昔は男の姿をしていた。いつからか、女の姿をとるようになった。
「そういえば聞いたことなかったけど、なんで急に女の姿に変えたの?」
マグディエルの問いに、アズバが「あー……」と、少し恥ずかしそうに頬をかいた。
天使には特に性別はないので、身体のつくりをきわめて中性的にたもつこともできるし、女よりの身体にすることも、男よりの身体にすることもできる。高位の天使になると、どんな姿にも変わることができるらしいが、マグディエルたちがコントロールできるのは性差くらいだ。
アズバが答える。
「力がつよすぎるからね。女の姿になれば、弱くなるから。喧嘩するときに思いっきり殴っても、大変なことにならないでしょ?」
「そ、そうなんだ」
マグディエルは、絶対アズバのことだけは怒らせないようにしようと誓った。
それにしても、レビヤタンを打ち負かしたアズバの姿は、かっこよかった。前から頼りにしていたが、男の姿になると、さらにいっそう頼りになる感じだ。
あぶなくなったら、すぐアズバのそばにいこう。
そして、守ってもらおう。
そう思ったあと、なんだか自分の視線がすこし低くなったような気がした。
おや、と思っていると、アズバとナダブが変な顔をして、こちらを見ていた。
「あの~……、マグディエル? 急にどうした?」
ナダブが変な顔のまま言う。
「え?」
自分の口から出た音が、予想外に高かった。
「えっ⁉」
自分の手を見る。
手がいつもより小さくなって、指もほそい。手首も頼りないくらいほっそりしている。
女の姿になっていた。
突然のことに「え? え?」と繰り返しながら、混乱していると、アズバに腕をつかまれる。
「落ち着いて、マグディエル。自分で姿を変えようとしたんじゃないの?」
「ち……ちがい……ます」
「ええ~?」
ナダブが大丈夫かよ、みたいなトーンで言った。
「もどれる?」
アズバが心配そうな顔をしている。
もどる。
もどるって、どうするんだっけ。
マグディエルは、姿を変えたことがなかった。とりあえず、男の姿を思い浮かべる。
もどれ!
「——」
アズバの翠のひとみを見上げた。いつもは同じくらいの位置にあるのに、すっかり高い位置にある。
マグディエルの身体は女のままだった。
もどれない。
「もどれなさそうだね」
ナダブは容赦なくそう言ったあと、近寄ってきて「ふ~ん」と言いながら、じろじろとマグディエルを見た。
「アズバ、ちょっと元の姿に戻ってみてよ」
「え、うん」
ナダブに言われて、アズバはすんなりと元の姿に戻った。見慣れた優し気な姿だ。
ぐい、と自分の視線が高くなった。
あれ。
「あ……」
小さく声を出してみると低い。
男に戻っている。
「ははあ」
ナダブが胡乱な眼つきでマグディエルのことを見ながら、なにやら頷いている。
「アズバが男の姿になったとき、おまえ変なこと考えただろ」
「考えてないよ!」
なんだよ、変なことって。
「じゃあ何考えたんだ。言ってみろよ」
「え……、強くてかっこよかったなって」
「それだけか?」
「あと、守られたいなって……」
恥ずかしい。
「それだろ」
「えっ⁉」
ナダブに言われても、意味がよく分からなかった。
「おれたちが姿を変えるのに必要なのは『願う』ことだけだ。おまえはアズバに守られるのにふさわしい姿を願ったんだろ。意識してなかったかもしれないけど」
「守られるなら、別に女の姿でなくてもよくない?」
「戦うのが怖いから、より弱い女の姿になって、優先的に守ってもらいたかったんじゃない?」
え……、すごく……、情けなくないか。
やけくそ気味に上向いていたマグディエルのメンタルが、下降の入り口を見つけた感じがあった。
「でも、普通はコントロールできるよね?」
ナダブは「うーん……まあ……」と濁し気味に答えながら、マグディエルの腰にある壊れたラッパに目をやった。
あ、落ち込む。
これ、落ち込むかもしれない。
すかさず、アズバが「慣れてないだけよ」と明るい声で言った。
「あなた、姿をかえることなんてこれまでなかったでしょ。そのうち、コツがわかるわよ」
「でも……」
「でもじゃない。今は考えちゃだめよ」
アズバに強い口調で「わかった?」と釘をさされる。
とはいえ、地に落ちた視線が上がらない。
マグディエルはそのまま頷いた。
アズバに「いい子ね」と頬をやさしくたたかれる。
そのとき、視界のはしをちょろちょろ、と走るものがあった。
ナダブが足元を走るそれに気づいて「うわっ」と声をあげる。
片方の水の壁から、無数の生き物が出てきて、地面の上を這っていた。
小さいレビヤタンだ。
どんどん数をふやす小さなレビヤタンは、マグディエルたちを素通りして、反対側の水の壁の中に消えていく。どうやら、移動しているだけのようだった。
「レビヤタンが群れで移動してるんだわ」
アズバがそう口にしたとたん、どおと水をやぶる音が聞こえ、大きな波しぶきがあがった。
水の壁の上のほうをレビヤタンが飛び越えて渡ろうとしている。
大きい——。
先ほど、アズバがタコ殴りにしたレビヤタンとは比べ物にならない大きさだった。首の太さだけでもマグディエル二人分以上はありそうだ。
だが、大きなレビヤタンもマグディエルたちの方を見もせず、反対側の壁に姿を消した。ほんとうに単に通り道になっているようだ。
ほっとしたのも束の間、さきほどとは比べ物にならない数の、大小さまざまなレビヤタンが壁から飛び出してきた。すごい速さで反対側の壁へと移動している。
マグディエルたちは、ひとかたまりになって身をふせた。
レビヤタンの身体から落ちてくる水しぶきで、もう何がどうなっているのやら、目をあけるのも苦労するほどだった。かたい鱗やヒレのようなものが、ときおり殴るように触れる。
なかなかに痛い。
中くらいのレビヤタンに足をふみつけられる。
「痛ーッ!」
痛みで、つい身体を起こしてしまった。
すると、右から左から正面から、大小さまざまなレビヤタンがびちびちと、マグディエルの身体をうった。
「マグディエル!」
アズバが手を伸ばしてマグディエルの身体を引き戻そうとしたが、間に合わなかった。大きいサイズのレビヤタンのうねるような動きにまきこまれて、身体が吹っ飛ぶ。
ナダブとアズバから離れてしまった。
はっとして、腰に手をやる。
ある。
良かった。
すぐ近くで、聞き覚えのある音がした。
レビヤタンが喉を鳴らす音だ。
振り返ると、右頬の鱗がへこんでいるレビヤタンが、こちらを意地悪そうな目で見ていた。
アズバが殴ったやつだ!
レビヤタンはするどい爪のある大きな手で、マグディエルを地におさえつけ、口をあけた。
噛まれる!
マグディエルは顔の前に手をやって、ぎゅっと目をつぶり身をかたくした。
だが、レビヤタンは噛んではこなかった。
しばらくマグディエルを踏みつけていたが、ふっと重さがなくなる。目をあけると、レビヤタンは興味を失ったように群れに戻り、水の壁に消えていった。
しばらくすると、レビヤタンの群れは波がひくように、すべて壁の向こうに消えた。
アズバとナダブは、そう離れてはいなかった。
お互い目を見合わせて、無事を確認する。
よかった、みんな無事だ。
と、思ったのに、ナダブが血相を変えて「あーッ!」と叫んだ。
「なに⁉ なになに⁉」
次は何が飛んで出るのかと周りを見回す。
だが、水の壁がしずかにあるばかりで、特にかわった様子はない。
ナダブが立ち上がって、そこいらじゅうをキョロキョロやりはじめる。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよナダブ」
アズバがちょっと引き気味に言った。
「ラッパがない!」
ナダブの言葉にマグディエルとアズバの口から特大の「えっ⁉」が出た。
だが、ナダブの腰には金のラッパがきちんと、ある。
アズバの腰にも、ある。
——。
うそだ。
うそうそ。
震える手で、腰にふれる。
ない。
マグディエルは朝起きたときの自分を思い出した。
『これ以上、悪いことがあるだろうか。いや、ない!』とか思っていた自分が浮かんで……、すーっと消えていった。
——。
悪いこと、あったなあ。
そうかあ。
これ以上はない、を上回る悪いことに、マグディエルのポッキーみたいな心が折れた。
マグディエルは、地に伏して泣いた。