第63話 キッスは目にして、罪は薔薇色
ふと、マグディエルの心によみがえるものがあった。
シオン山へ出発する前に、ヨハネが言った預言だった。
『偽りを言うものがあらわれる。水晶がすべてを見透かしたとき、疑う者よ、恐れる者よ、あなたを石で打て。ハデスのところに、ふたつ、おくられる。あなたが、あなたとともにするとき、あなたのもとに主がおられる。ゲヘナの門は開かれた。あなたは、ただちにすべてを捨てて下る』
ハデスのところに、ふたつ、——アズバとナダブはおくられた。過ちを指し示して打った石がウリムとトンミムのことなら、疑う者、恐れる者は、マグディエルを指す。
では、偽りを言うものは……。
ルシファーが、マグディエルの肩に手をかけて、引きはがそうとした。
マグディエルは、ルシファーの姿をしたものに向かって、大きな声で叫んだ。
「お前は、ルシファーじゃない!」
終わりは、まるで静かだった。ルシファーの姿が、砂が崩れるように消える。ヨハネの姿も同じように消えた。
波が引くように、霧が晴れる。
晴れた先に道があらわれた。
水晶の輝きをもつガラスの壁が真っ直ぐに伸びていた。先まで見えた。先の方に、門が見える。
出口だ。
マグディエルは走った。
出口だけを見つめて走る。
もっと、早く。
ああ、もっと早く走ってくれ、早く。
駆ける。
出口の先は、明るい。
飛び出すと、砂浜が広がっていた。
パラソルに、人に、海の家。
ほっとするような、人々のざわめきがあった。
入ってきた門のむこうに広がる景色と似ているが、ずいぶん違う。砂浜の向こうにはシオン山ではなく、街が広がっていた。その先には巨大なビル——、御座があった。
「あれ、もしかして、マグディエルですか?」
後ろから声をかけられて、振り返る。
ペトロが門のわきに立って、こちらに向かって手をふっていた。
マグディエルは走り寄って、ペトロの両腕をつかんで叫んだ。
「アズバとナダブは⁉」
「わあ、こわいっ。アズバとナダブなら、とっくに出てきていますよ」
無事なんだ。
あれは、幻だった。
すべて。
アズバが変容して炎に包まれ失われたことも、ナダブの翼がひどく折れて苦しみのなか炎に沈んでいったことも、ルシファーがおそろしい態度で神を捨てることを求めたことも。
何もかも、幻だった。
みんな、無事なんだ。
ペトロが「なんでまた女の姿なんです?」と聞いてきたのと同じタイミングで、マグディエルは、過去最大音量で——、泣いた。
ペトロが大焦りする声が聞こえてくるが、マグディエルは顔を天に向けて、大声で泣いた。
「えっ! ええっ⁉ マグディエル、ちょっと、どうしたんです——。あ、違います、これはわたしが泣かせたわけでは! わあ、どうしたら⁉ わたしまで泣きそうです‼」
ペトロが、マグディエルの腕をなでたりして、なだめようとしているが、マグディエルの大泣きはおさまらない。
構うもんか。
泣いてやる!
めいっぱい、泣いてやる‼
みんなが無事で嬉しくて泣いているのか、あまりに怖かったことが身に染みて泣いているのか、理不尽な目に合ったことに腹を立てて泣いているのか、マグディエル自身にも分からなかった。全部かもしれない。
「あっ‼ いいところに‼ この子をなんとかしてください‼」
ペトロが誰かにすがる声が聞こえた。
急に、抱き上げられる。
かぐわしい香り。
「マグディエル、ずいぶん景気よく泣いているね」
ルシファーだった。
思わず泣きやむ。
「ルシファー?」
「うん」
「ほんものの?」
「本物だよ」
「ほんとうに?」
「本当に」
明けの星が輝く瞳が、そこにあった。
「どうしてここに?」
「きみより後にガラスの海に入ったけど、先に出て来た。きみと御座観光しようと思って」
「きょう、わたしに怖いことしませんよね?」
「そう言われると、したくなるね」
マグディエルが顔をぐちゃぐちゃにして、また泣こうとすると、ルシファーが「しないよ」と言った。
マグディエルは、とりあえず泣くのはやめて、ルシファーの首に腕をまわしてぎゅっとひっついた。思いっきり、息を吸う。何回も。
ルシファーが文句を言った。
「くすぐったい」
くすぐったいがなんだ‼
いまは、これが必要なんだ‼
「とりあえず、戻りますか」
ペトロの言葉で、ふたりが連れだって歩き出す。
マグディエルはルシファーの腕の中で、できるかぎりルシファーにくっついた。首元に顔を近づけると、眩暈がしそうなほど強い香りがする。ルシファーの身体は暖かく、彼が歩くたびに伝わる振動が、マグディエルの心を落ち着けた。
ガラスの海で、ルシファーの裏切りを『やっぱり』と思ったことが、ちくりと心に刺さる。ちゃんと、その疑いや恐れを捨てられただろうか。
すこし行くと、パラソルのある大きなテーブルに、アズバとナダブとイエスが座っていた。三人とも、手に何か持って一生懸命にしている。
アズバとナダブの姿を見て、マグディエルはルシファーから飛び降りるようにして二人に向かって走った。
「アズバ! ナダブ!」
両手をひろげて、抱きしめようと走る。
もうちょっとというところで、ナダブが叫んだ。
「マグディエルちょっと待て!」
アズバも叫ぶ。
「今は絶対にさわらないで!」
え。
マグディエルは、両手をひろげたまま、失速気味に近寄って、三人の手元を見た。
マリオカートをしている。
ペトロがとなりに来て言った。
「スイッチ2です。ルシファーが持ってきてくれたんです。しかも、人数分あります」
さらに、ペトロが嬉しそうな顔で言った。
「それに、チーズケーキもあるんですよ。りくろーおじさんのチーズケーキです。奇跡みたいにふわふわのチーズケーキ」
そういえば、ペトロはあんなにルシファーに対して拒否反応を示していたのに、今は平気そうに隣にいる。
まさか、おもちゃとケーキで懐柔されたのだろうか。
ペトロがうっとりした顔で「しかも人数分あります。ひとり一箱です」と言った。
マグディエルは、しょうがないので大人しく、ナダブとアズバのうしろに立って、ゲームが終わるのを待った。我慢できなくてアズバの羽を触ったら、すごく怒られた。
ペトロはイエスの隣に座って、イエスの手元をのぞきこみ、ルシファーはアズバの隣に座って手元をのぞきこむ。アズバが、ルシファーが見えるように、身体とゲーム画面をルシファーのほうによせる。
いつのまに仲良くなったんだろうか。
みんな、ルシファーがいることに、何の違和感もなさそうに過ごしている。マグディエルが苦しみ果てている間に、すっかり世界が変わってしまったように見えた。
アズバとナダブが一生懸命スイッチ2を操作しているうしろ姿を見つめる。
動いている。
もう、それだけで泣きそうだった。
ゲームが終わると、ナダブが座ったまま振り向いて言った。
「おまえ、ガラスの海わたるのに、どんだけ時間かかるんだよ。ルシファーがマリオカート持ってきてなかったら、暇すぎてさきに街に行ってたぞ」
アズバも振り向いて言う。
「ほんとに、すごく長かったわね。大丈夫だった?」
マグディエルは、アズバとナダブをひっつけるみたいにして抱きしめた。
ナダブが文句を言いながら、マグディエルの翼をぎゅっとして、アズバが、マグディエルの背をやさしくなでた。
イエスが言った。
「時間はかかりましたが、ちゃんと恐れを乗り越えられたのですね。頑張りましたね、マグディエル」
「恐れ?」
「アヒちゃんが言っていたでしょう。ガラスの海は、御座にふさわしいものだけが通れるようになっていると」
いつのまに、アヒちゃん呼びになったのだろうか。
「ガラスの海をわたることができるのは、恐れに打ち勝てた者だけです。恐れと一緒に、過ちとか、猜疑心とか、あと、妄想をつきつけてくるときもありますけどね」
「なぜ、入る前に言って下さらなかったのです」
「言ったら、あなた、大変なことになっていましたよ。ガラスの海は恐れに反応するんですから。最初から恐れて行けば、効果倍増です」
なるほど。
ふと、マグディエルの視界にアズバの唇が入った。そして、なんとはなしに、ルシファーの唇を見てしまう。
妄想……。
マグディエルは思い出してしまった。
あの、残酷で美しい、アズバとルシファーのキスを。
マグディエルは、ナダブとアズバから離れて、イエスのもとに行った。
座っているイエスの前に跪く。
今でも、ありありと浮かぶ、あのキス。他のどの瞬間も、恐れと苦しみと悲しみがあったのに、あのふたりのキスだけは、残酷だけれど美しいと思った。
美しくて、目が離せなかった。
妄想したんだ。
マグディエルは、イエスの前に頬をつきだして言った。
「イエス、どうかわたしの頬を打ってください」
「本気で言ってるんですか⁉ わたしは右の頬を打つ者に、左の頬も向けなさいとか言っていた男ですよ。そんなことをしたら、炎上してしまいます」
アズバが心配そうな声で言った。
「どうしたの、マグディエル?」
マグディエルの視線がアズバの口もとにいく。そして、ルシファーの口もとにいってしまう。
ルシファーがそれを見て、おや、という顔をした。
「マグディエル、またわたしの身体で不埒なことを考えた?」
「うわーっ!」
マグディエルは叫んで、イエスの膝にすがった。
イエスが、にこっとして、無邪気に言った。
「ルシファーの身体で? どんな妄想をしたんです? 気になります」
マグディエルは焦って、ルシファーとアズバの方だけは見ないようにしようとした。したのに、なぜか、一瞬ちらちらっと、見てしまう。
ルシファーが、それに気づいたようで、ニヤニヤとして言った。
「ふうん、わたしとアズバで、なにか妄想したんだ?」
アズバが不思議そうな顔をして言う。
「わたし? マグディエル、一体なにを妄想したの?」
やめてください。
お願いだから聞かないで。
「わたしとアズバがキスしているところを、妄想したみたいだよ」
ルシファーがさらっと言う。さっき、どこを見ていたか気づいていたんだ。マグディエルはウワーッと叫びたかったが、喉がひきつれたように声がでなかった。
アズバがさらに不思議そうに言う。
「それって、そんなに変なこと?」
イエスが、無邪気な顔で手を叩いて「あっ!」と思いついたように声を出した。
「マグディエル、あなた、えっちなチューを妄想したんですね」
いっそゲヘナに送ってください。
マグディエルは両手で顔を覆って、横ざまに地に倒れた。
ナダブが大きな声で「えっちなチュー‼」と叫んだ。
やめろ、ばか。
ルシファーがなぐさめるような声で言う。
「アズバ、気をつけた方がいいよ。あの様子だと、そうとういけないキスを妄想したんだ」
マグディエルは、指の間から、そおっとアズバの顔を見た。
まるで痛々しいものを見る目をして、彼女は言った。
「ねえ、あなた映画の観すぎよ」
あーめえん。
*******************************
おまけ ☆聖書豆知識☆
*******************************
【ハデス】
聖書においては、死者が行く場所や、死そのもの、また、サタンの本拠地のような意味で使われています。
【ゲヘナ】
キリスト教の伝統的解釈では、罪人の永遠の滅びの場所であり、地獄を指す。
【右の頬を打つ者に、左の頬も向けなさい】
マタイの福音書に出てくる、あまりに有名なイエスの言葉。
「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」
下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい、とも言っていました。




