第62話 絶望、そして、取捨
「マグディエル、もうふたりも友を失ったが、どうかな、神は助けてくれそうかい?」
ルシファーが「もう話して動いてもいいよ」と言うと、マグディエルの身体に自由が戻った。腕を縛り上げていた紐も消える。
ルシファーがレビヤタンの鼻先をなでる。
レビヤタンがうれしそうに喉を鳴らした。
マグディエルが近寄ると、ルシファーはレビヤタンに向こうへ行けというように手をふった。レビヤタンが霧の中に去ってゆく。
いまは、マグディエルの心に恐怖も怒りもなかった。すべて失われ、まるで、現実離れして、ぼんやりしている。
ただ、ひどく、胸のあたりが苦しい。
「教えてください、ルシファー。あなたの望むとおりになるには、どうすればいいのですか」
ルシファーが、マグディエルを抱きしめた。
まるで、愛しいものにするように優しい抱擁だった。
「神ではなく、わたしを選べ。神に寄り頼むのではなく、わたしに寄り頼むんだ。心の底からね」
「なぜです……、なぜ、そうする必要があるのですか」
「言っただろう、きみが欲しい。ほかのなによりもね。神をうたがうきみに、選ばれたいんだよ」
「あなたを選びます」
「いいや、口で言うだけでは意味がない。マグディエル、きみは咄嗟に、神を呼んだじゃないか。友を失うだけでは足りないんだね」
ルシファーがマグディエルからすこし離れて、何かを引き寄せるような仕草をする。すると、ルシファーの腕の中にヨハネが現れた。
ルシファーがヨハネの手首をつかんで持ち上げ、離すと、力なく腕が落ちる。ヨハネは、まるでぼうっとしていて、人形のようだった。
ルシファーはヨハネの肩をそっと押して、マグディエルに向き合うようにする。
ヨハネの鳶色の目が、こちらに向けられた。
何も映してはいないような目だった。
「これは、きみのお気に入りだろう?」
ルシファーがヨハネの後ろに立って、その細い首に手をかけて言う。
「美しい人の少年の姿をしているね。どうしたら、きみは神などいないと絶望してくれるかな。ヨハネの、美しい顔を切り刻んでみるか?」
「……やめてください」
「顔だけじゃ満足できなさそうなら、はしから順に切り刻むか、へし折るかして苦しむところを見てみるかい?」
「ルシファー、お願いです、もう」
「ああ、こういう綺麗な顔の少年を好む悪魔もいるからね。凌辱されているところを見せてあげようか」
「ルシファー!」
「マグディエル、きみが心からわたしに寄り頼むまで、順にそうしていこうか。まずは、はしから切り刻んで苦しみを与え、動けなくなったら凌辱させよう、そして、最後に美しい顔を切り刻んで、魂のかがやきをすべて奪ってあげる」
はじめて感じた。
強い、憎しみがあった。
ルシファーのすべてを奪ってやりたい。その顔に、悲しみや、苦しみや、絶望が浮かべばいいのに。あの翼をへし折ってやりたい。魂を地に打ちつけて、壊してしまいたい。
マグディエルはヨハネを奪おうと、ルシファーにつかみかかろうとした。
けれど、ルシファーが手をたったひとふりするだけで、マグディエルの身体は後ろへ突き飛ばされた。背後の壁に当たって、そのまま地に手をつくように倒れる。
マグディエルの胸から、勢いよく転がり出るものがあった。
ころころと転がって、ルシファーの足元でとまる。
ウリムとトンミムがそこにあった。
ウリムとトンミムがじわりと光を放って、指し示していた。
過ちを指している。
その指し示す方向は——、マグディエルだった。
ルシファーではなく、はっきりとマグディエルを指し示している。
なぜ。
瞬間、ウリムとトンミムがすべてを奪うような光を発した。強い光があらゆるものの形を奪うようだった。何も見えなくなる。音すらかき消された。まるで、耳の奥を塞がれてしまったように、何の音も聞こえなくなる。
光の中で、声が聞こえた。
いつかの、ミリアムの声だった。
『神に愛されていると言ってみなさいよ! 間違いなく、神の恩寵はじぶんのもとにあると、言ってみなさい!』
マグディエルは思わず叫び返した。
「神はわたしを愛してなんかいない! 神に祈ったのに、友は失われてしまったじゃないか! アズバも! ナダブも!」
ルシファーも! そう言いそうになった口を押える。
あいつは、友なんかじゃない。
ユダの声がする。
『あなたが求めるなら、必ず与えられます、マグディエル』
「そんなの、うそだ! すべて、奪われてしまった」
奪うなら、最初から与えなければよかったのに!
いっそ、出会わなければよかった!
そう思った瞬間、心のうちに、様々の美しい過去の思い出や、嬉しさや、歓びが訪れた。たしかに、それはあった。与えられた、それらは、マグディエルの心の内で、やさしく彼の心を満たしていた。
与えられても、失われるなら、最初からなければよかった。
そう言ってしまいたかった。
だけれど、できない。
あまりにも、大切な思い出だった。
アズバのことも、ナダブのことも。
——ルシファーとのことでさえ。
マグディエルは、たまらなくなって泣いた。
そうか。
ルシファーのことを本当に好きだったんだ。
エレデの声が聞こえた。
『もし、迷った時は、うちなる声、うちなる言葉に従いなさい。ようく耳をすませるんだ。かならず、きみを助けてくれるから』
なにも。
なにも、聞こえないんだ。
エレデ、苦しい、なぜ、ルシファーはわたしの心を置いて行ってしまった。のぞまぬ先に。
ミカエルの声が聞こえる。
『ルシファーの考えは、あいつにしか分からない。きみ自身があいつのことを見て、見極めるしかない』
「そんなの——」
そんなの、分かるはずない。
——けれど、考えたことがあっただろうか、ルシファーののぞむものを。彼が求めるものを、見つめたことがあっただろうか。
ただ、良くしてくれる彼に頼るばかりで、何も見てはいなかった。
マグディエルの心のうちに、後悔が押し寄せる。
今度は、シェムハザの声が聞こえた。
『彼女と出会って、愛の歓びを知った。ふたりで素晴らしい時間を過ごしたよ。何にも、かえがたい時間だった』
「ああ——」
どれだけ手で目元を押さえても、涙が止まらない。
本当に、何にも、かえがたい時間だった。
ナダブがマグディエルの翼の先をつかんで、文句を言いながら心配する姿。むかつく顔で、おじさんと言う姿。アズバと額をくっつけて気恥ずかしい気持ちで笑い合った時の、彼女の表情。たまに怒ったようにするときの、彼女の愛らしい仕草。
ルシファーが、なんてことないというように『どういたしまして』と言うときの表情。心があたたかくなるような、彼のあけっぴろげな笑顔。
どれも、大切だったのに。
その時、目の前に、小さなネフィリムの姿が、現れた。
ネフィリムが自分の胸を指さして、トントン、とする。
もう一度、トントン、として、消えた。
心を見て、と言われたようだった。
「わたしは——」
今も、ルシファーのことが好きだ。
ラッパを治して、優しく抱きしめてなぐさめてくれたこと。冷えた肩に、あたたかな布をかけてくれたこと。心をあけわたすような親愛のキス。
どれも、マグディエルにとって、大切なものだった。
憎しみのうちにも、その思いは消えなかった。
イエスの声が聞こえてくる。
『マグディエル。わたしはこの世界を愛しています』
その時に感じた、イエスの気持ちまでもが、マグディエルの心に流れ込んでくる。
彼は歓びだけではなく、悲しみも、苦しみも、罪でさえも、今あるすべてを愛していた。
「わたしにも……、そうできますか」
悲しみも、苦しみも、罪でさえも、愛することができるでしょうか。
イエスの笑顔が見えた。
『イエス!』
ヨハネの笑顔も見えた。
『できることをすればいいよ』
出会わなければ良かったなんて言いたくない。
アズバにも、ナダブにも、そして、ルシファーにも。
しばらく、じっと、心の内に耳を澄ませてみる。
マグディエルは、涙をぬぐった。
「わたしにできることをします。わたしは、友だと、大切に思っていると口にしながら、ルシファーの望みや、求めることに向き合ってはいなかった……」
マグディエルは顔をあげて言った。
「ルシファーの罪さえ、わたしに愛させてください」
その瞬間、あたりを包んでいた光が、収束するように消えた。
マグディエルは、地に両手をつけて、ルシファーとヨハネの姿を見上げている。ルシファーの足元にあるウリムとトンミムは、何事もなかったように光を失い沈黙していた。
マグディエルは、立ち上がり、ゆっくりとルシファーに近づいた。
ルシファーが「どうするんだ?」と冷やかすような微笑みで、首をかしげた。
マグディエルは、ヨハネとルシファーの間に割り入るようにして、ルシファーを抱きしめた。
「ふうん、そうやって甘えて、ヨハネを助けてとお願いするつもり? かわいいね。でも、それじゃあ、やめてあげられないな」
マグディエルはルシファーの両頬に手をのばし、引き寄せて、その唇に親愛のキスをした。
あなたに、心をゆだねます。
あなたの、罪もすべて、愛します。
ルシファーの表情から微笑みが消える。
マグディエルは、ルシファーの瞳をまっすぐに見つめ、覗き込むようにして言った。
「あなたは、わたしの友です。ルシファー。あなたが望むものを手に入れるために、これ以上、罪をかさねないでください。そうする必要はありません。あなたはわたしに多くを与えてくれました。わたしも、あなたに返したいのです」
「——」
「わたしには、神がいるかどうかは分からない。神の声は聞こえず、神の思いも知らない。でも——、わたしはあなたの声を聞くことができ、あなたの思いを知ることができる」
ルシファーの瞳がじっと、こちらを見ている。
「わたしが、神ではなく、あなたを選べば、あなたは満ちるのですね?」
「ああ」
「では、わたしとともに行きましょう。神がいるか、いないか、確かめにゆくのです。あなたは、わたしに神を捨てることができる自由意志があると言いました。でも、今の私には捨てられない。まだ、わたしは神を持たないから。わたしが神を捨てるために、神を探しにゆくのです」
ルシファーはすこしためらったのち、言った。
「きみが、確かめに行って、神を捨てるかどうかは、分からない」
「ルシファー、なぜわたしを疑うのです」
そう言った瞬間、マグディエルははっとした。自分のことばに、不思議な響きが増したような気がした。まるで、あの日、ミリアムがモーセに顔を輝かせて言ったような、響きがあった。
ルシファーは嫌そうな顔をして黙った。
まるで、おそれるように。
——おかしい。
心のおくで、小さな声が聞こえた。
『こんなのはルシファーじゃない』
ルシファーはいつだって、正直で自信たっぷりだ。いつも、傲慢なほどの自信が、彼にはあったはずだ。過去には神にさえ挑んだほどの。
神を捨てるため、神を探しにゆくことを、おそれたりするだろうか。
だが、今マグディエルの目の前にあるのは、疑う者、おそれる者の姿だった。
マグディエルは、顔をよせて、ルシファーの瞳をのぞき込んだ。
ない。
明けの星の輝きが、そこにはなかった。
「ルシファー……じゃない……?」




