第61話 暴虐、そして、略奪
マグディエルが見つめる、その前で、ルシファーとアズバは何度もキスをした。すこし離れては、また重なるようにする。
ルシファーは、何度目かのキスのあと、アズバに微笑みかけて言った。
「ねえ、アズバ。わたしにすべてを渡すと、言って。きみの魂さえも。わたしに明け渡すと。そうすれば、永遠に守ってあげられる」
アズバが不安な顔をすると、ルシファーがまるで寂しいという表情をして続けた。
「お願いだよ、アズバ。きみのことがどうしても欲しいんだ。わたしのことを憐れんでくれるよね?」
アズバは、しばらくして、諦めたように小さく答えた。
「はい」
その瞬間、ルシファーがまるで勝ち誇ったように微笑む。
「これで、きみの魂はわたしのものだ。さあ、お眠り。変容には痛みが伴うからね」
ルシファーがそう言うと、アズバはそのまま意識を失うようにして眠りに落ちた。天使の姿に戻り、崩れ落ちる彼女の身体を、ルシファーが抱き止める。
炎が上がった。
暗い赤にも、金色のようにも見える炎が、ルシファーの足元にひろがる。
踊るような炎が、アズバの身体にふれると、その部分が変容した。彼女の美しく白い翼の先から、少しずつ沈むように色が失われていく。白くなめらかな指先も、同じように色を失う。暗がりのような色が広がっていった。
ルシファーがアズバの身体をはなすと、彼女の身体がゆっくりと炎の中に沈みはじめた。ゆっくりと、姿を変容させて、沈んでゆく。
激しくなった炎で、彼女の姿が見えなくなる。
そして、炎がおさまると、彼女の姿はどこにもなかった。
「さあ、マグディエル、もう動いて話してもいいよ」
ルシファーがそう言うと、マグディエルの身体と喉から緊張が解ける。
でも、その場から動くことも、何かを言うこともできなかった。
「おや、今回は神に祈らなかったのかい?」
ルシファーは楽しそうにくすくすと笑った。
こんなのはルシファーじゃない。
そう叫びたかった。
マグディエルの心に、様々な感情があった。ルシファーの残酷な態度へのおそれ、不安。アズバが選んだものと、失ったものへの悲しみ、憤り。
なかでも、マグディエルの心に、大きな影を落とすものがあった。
——やっぱり。
心のどこかで、そう思った。
ルシファーが、態度をひるがえして、おそろしいことをする様子を見て、マグディエルは『やっぱり』と思った。彼は邪なヘビであり、サタンであり、悪魔だから、やっぱりね、そう思った。
信じると決めたのに、もう二度と疑うようなことはしないでおこうと決めたのに、心のどこかで彼のことを疑い、信じていなかった自分がいたことが、つらかった。
そして、それが事実だということも、ひどく悲しかった。
そのうえ、アズバに選んでもらえない自分が、ひどく惨めだった。
ルシファーがマグディエルの前に来て、微笑んで言った。
「主よ、どうか、わたしにその手を差しのべてください。さあ、言ってごらん」
声を出せば、泣いてしまいそうだった。
「さあ、言え。マグディエル」
「主よ……どうか、わたしに……その手をさしのべて」
もうその後をつづけて言うことはできなかった。マグディエルは声をあげて泣いた。泣いたって、どうにもならない。悲しいのか、苦しいのか、それとも怒りなのか、なんなのか分からない。ひどいと、大声でなじりたい。いや、なじられるべきは、自分かもしれない。友を信じることもできず、友が堕ちてゆくのを見ているしかできなかった。
「神は助けてくれるかな。楽しみだね」
ルシファーはそう言うと、マグディエルの両手を、どこからともなく出した紐で縛った。
「いいね、これでかわいそうな感じに見える。きつくはしていないから、痛くないだろう? だが、ほどけはしないよ」
楽しそうな声だった。
「これからわたしがいいと言うまで、きみはただ憐れっぽく涙を流すだけ。声も出せないし、表情や仕草で何かを伝えようとするのもだめだ。あとは、そう、足も使えなくしておこうか」
ルシファーがマグディエルの足に触れると、両足が身体を支えられなくなる。倒れそうになるマグディエルを、ルシファーが支えた。気遣うようにゆっくりと地に降ろされる。
この優しい仕草が、本当のルシファーであってくれれば。
ルシファーがマグディエルの腕を縛り上げている紐を持ち上げた。マグディエルは座り込んだ状態で、腕を持ち上げられ、ただルシファーを見上げるしかできない。
「マグディエル、次はよくお祈りしてみることだ。神が助けてくれるかどうか、しっかり確認するんだよ」
「マグディエル!」
ナダブの叫ぶように呼ぶ声が聞こえて、マグディエルは身を固くした。声のしたほうを見ると、ナダブが厳しい顔で、威嚇するように羽を広げてこちらを見ていた。
ルシファーとナダブが対峙するように立つ。
ナダブ、お願いだ、逃げて。
そう言いたいのに、マグディエルには声はおろか、表情すら自分の思うようにはできない。マグディエルはルシファーを押しとどめようと、ルシファーに向き合った。だが、ルシファーはあっさりとマグディエルの腕をはなし、翼をひとふりして消えてしまった。
「マグディエル! おい、大丈夫か⁉」
ナダブが駆け寄ってきて、マグディエルの肩を引っ張ると、足に力が入らないせいで、倒れてしまう。ナダブが焦ったような声を出して、マグディエルの身体を支える。
「おい、どうしたんだ。怪我したのか?」
「——」
「おい? マグディエル?」
今すぐ逃げて。
「声が……出ないのか? どこか痛むか?」
頼むから、今すぐ逃げて、ナダブ。
ルシファーが命じたとおり、マグディエルの瞳から涙があふれるだけで、どんなこともナダブには伝えられなかった。
何も言わず、ただ泣くばかりのマグディエルを見て、ナダブが一瞬泣きそうな顔をしたが、すぐに怒りの表情に変わる。
ナダブはマグディエルを抱き上げて、走った。ガラスの海の霧が立ち込める迷路の中を、疾走する。いくつもの角を曲がった先の、幅のひろい道でナダブが急に止まった。
道の先の霧の中から、聞いたことのある音がした。
湖で聞いた、喉を鳴らす音。
霧の中から、羽をもたない一匹の禍々しい竜があらわれる。
レビヤタンだ。
ナダブが振り向いて来た道をもどろうとすると、そこに壁があった。もどる道は閉じている。ナダブは道の端に、マグディエルを急いで降ろした。
マグディエルはナダブを止めようとしたかったが、手を伸ばして、ナダブの腕をつかむことすらできない。
ナダブがレビヤタンに向かっていく。
レビヤタンはいたぶるように、ナダブの身体を口先で突き飛ばしたり、尾で打ったりした。まるで致命傷は与えずに、弄ぶようだった。
ナダブ、逃げろ、お願いだから、そのままレビヤタンの脇をすりぬけてあっちへ行ってくれ!
何度も打たれて、地に伏したナダブの片方の翼にレビヤタンが噛みついた。そのまま持ち上げて、壁に向けて放り投げる。レビヤタンはまるでおもちゃで遊ぶみたいに何度もそうした。
ルシファー!
聞こえているなら、どうか、もうやめてください。
あなたの望む通りにするから。
すると、ルシファーが姿をあらわして、レビヤタンに待てというように手をあげた。レビヤタンは咥えていたナダブの翼をはなして、ルシファーの顔をうかがうようにしたあと、地に伏せる。
倒れたナダブはぐったりとして、動かない。片方の翼は、折れておかしな向きに曲がっていた。
ルシファーはナダブのもとへ行くと、折れた翼の根元をつかんで、持ち上げた。ナダブが苦しそうにうめき声をあげる。ルシファーはそのまま、半分引きずるようにして、マグディエルの目の前に、ナダブを連れて来た。
「どうだ、マグディエル。ちゃんと神に祈ったか?」
あなたが望むなら神に祈ったりしません。
お願いだからナダブを放して。
「マグディエルに……かまうな、邪なヘビめ」
ナダブが呻くように言うと、ルシファーが嬉しそうな顔をして言った。
「やあ、ナダブ。ずいぶんひどい目に合ったようだね」
「サタンめ」
「どうかな、レビヤタンに命じて、次はマグディエルをぼろぼろになるまで痛めつけてみようか? ナダブ、きみは見たいかい?」
「——」
「きみの魂をわたしにくれるなら、マグディエルの身体に傷一つつけないと約束するよ、どう?」
マグディエルは心の内で、ルシファーの名をさんざん叫んだ。今まで感じたことのない怒りにどうにかなりそうだった。なのに、どうやってもそれを外に出すことができない。
「マグディエル、きみからも頼んだらどうかな。『ナダブ、助けて』と言ってごらん」
「ナダブ……、たすけて」
マグディエルの喉から、なんの抵抗もなく言葉が出てくる。
ナダブがそれを聞いて、つらそうな顔をした。
ナダブ、聞くな。お願いだから。
ルシファーが手をひとふりすると、レビヤタンが立ち上がりマグディエルのとなりまで来た。
「ナダブ、きみが魂をささげると言うまで、ひとつずつマグディエルから奪ってみようか。まずは片方の翼からだ」
レビヤタンが、マグディエルの片方の翼に噛みつこうと口をあけた。
マグディエルの翼に、生温かなレビヤタンの息がかかる。
ナダブが叫んだ。
「やめろ!」
「わたしに魂を明け渡すか?」
ナダブの瞳が、マグディエルを見つめた。
そこに迷いは見えなかった。
「ああ、渡すから……マグディエルを傷つけるな」
ああ、主よ、どうか……。
マグディエルは、はっとしてルシファーを見た。
ルシファーがじっと、感情の読めない顔でこちらを見ていた。
「さあ、ナダブ。最後にマグディエルに、変容の痛みがどんなものか、聞かせてあげるといい」
炎が上がる。
ナダブはその身体が変容し、沈みゆく中で、おそろしい叫び声をあげた。
苦しみと痛みが、突き刺さるような声だった。




