第55話 愛される子、ネフィリム
マグディエルの背にあった熾天使の羽は、あっというまに金色の炎をあげて消えた。マグディエルとアズバとナダブは、三人絡み合ったまま墜ちる。
アズバが翼を広げて叫んだ。
「翼を広げて! 上昇はできなくても、滑空はできるわ」
三人少し離れて、翼をひろげる。
ほとんど落ちているのと同じだったが、方向は定められそうだった。
ナダブが下を指さして言う。
「あの森を目指そう。イエスたちの馬も、そっちに向かっていそうだ」
まだ随分と距離はあるが、このまま滑空できれば、雪がまばらになった森になんとか着地できるかもしれない。
もう森がすぐそこ、というところまで来て、翼に風をつかむ感覚があった。ぎりぎりのところで、翼をうごかしなんとか速度をゆるめる。
減速しきれないまま、マグディエルたちは森のなかのすこしひらけた場所に、勢いよく落ちた。地面に勢いよく転がる。最初に地面につっこんだマグディエルの上に、アズバが転がり込み、ついでナダブが転がり込んだ。
マグディエルはふたりの下から聞いた。
「ふたりとも、ぶじ?」
ふたりが「なんとか」と答える。
三人で起こし合いながら、立ち上がる。
まわりには、すっかり雪はなく、大きな木が立ち並ぶ森が広がっていた。
大きな木のてっぺんから、立派な白い馬が勢いよく飛び出して、マグディエルの目の前に着地した。イエスとペトロが、その背にのっている。
「三人とも、無事でなによりです」
イエスがそう言いながら、馬から降りる。
イエスとペトロが馬からおりると、とたんに馬の姿がくずれ、形をつくっていた雪が地に落ちて広がった。
マグディエルは肩を小さくして、言った。
「イエスとペトロも無事でよかった。すみません、わたしのせいで」
イエスが笑う。
「すっごいミザァでしたね。ひさしぶりの雪遊びができて愉快でしたよ。ね、ペトロ」
ペトロも笑って答えた。
「アーメン」
イエスが楽しそうにつづけて言う。
「わたしの雪遊びの、馬、かっこよかったでしょ」
「アーメン」
「……ペトロ、あなた今、適当にこたえましたね」
「アーメン」
「ペトロ、まことに、まことに、あなたに」
「ごめんなさい」
イエスとペトロがいつもの要領でじゃれあう。
イエスが「あ!」という顔をしてマグディエルを見た。
「そういえば、ルシファーの星の祝福、ナイスアシストでしたね」
「はい、おかげで、なんとか助かりました」
横からナダブが「そういえば」と言いながら、マグディエルの前に大きな風切り羽を差し出した。
「これ、墜ちるときに、とっさに掴んだら、抜けた」
「これって」
「おまえの背中から消えた熾天使の羽」
ナダブにわたされた羽は、真っ白で大きく、うっすらと虹色の輝きを持っている。マグディエルの背にある羽とは、あきらかに様子の異なる羽だった。
匂いをかいでみる。
ナダブがとなりで「何やってんだよ」と言った。
ルシファーの匂いがするかと思ったけど、特に匂いはしなかった。
残念。
そのとき、森の奥から、何かが近づいてくる音がした。ひとつではない。多くの者が草を踏み分けて、こちらに近づいているような、ざわざわとした音だった。
大きな木の陰から、ひょい、とのぞくものがあった。
黄色い……ぽよぽよ?
不思議な姿をしている。
ひょい、ひょい、と次々に姿をあらわしたそれは、大小さまざまだったが、一番大きい者でも、マグディエルと同じくらいの背丈だった。小さいものは、膝ほどの高さしかない。
おそるおそる、と言った様子で、こちらに近づいてくる。あっという間に、すごい数に囲まれた。
それは、淡い黄色の、愛らしい生き物だった。
まるでくびれのない瓜に、手足を簡単にくっつけただけ、といった形をしている。胴体と頭のあいだに首はなく、頭から尻までひとつのまるい塊になっていて、上の方につぶらな黒い瞳と、小さな口がついている。毛はない。
身体にたいして、手は不自然に細長い。足も細いが、これはかなり短かった。
全体的にやわらかそうで、ぽよぽよしている。
背には、使い物にはならなさそうな、小さな小さな白い翼があった。
不思議ないきものに取り囲まれると、イエスが言った。
「静かに! 怒らせてはだめ!」
なぜ……、ちょっと高めの声で言うのだろうか。
口調もいつもと違うような……。
集まってきた不思議ないきものが、一番手近にいたイエスに、細長い手をのばした。イエスは、どうぞ、というように両手をひろげて、ぽよぽよたちに身体を触らせた。
イエスが、また、なんだか高めの声で言う。
「わたしたちを調べている」
集まったぽよぽよたちの無数の手が、イエスにぴたぴたと触れた。首をかしげながら、なんだろこれ? といった様子でさわっている。
大丈夫なんだろうか。
イエスが、なんだかわざとらしい感じで言った。
「ネフィリム! ごめんなさい! あなたたちの巣を騒がして……。でも わかって。私たち あなた方の敵じゃないの」
ん?
これは……、あのジブリの名作の、王蟲に対して言うセリフでは……。
しかし、マグディエルは、はっとして叫んだ。
「ネフィリムっ⁉」
グリゴリと人の娘の間に生まれた、あの、ネフィリム⁉
イエスの前に立つ一番おおきなネフィリムが、イエスの懐からキットカットを見つけた。身体に見合わない小さな手で、調べるようにしてキットカットを色んな角度から見る。
イエスが、そっとキットカットを取って、袋を開けて、ネフィリムの手にもどしてやる。
ネフィリムは匂いをかいで嬉しそうな表情をしたあと、キットカットを半分に割って、となりのネフィリムに渡した。
渡されたネフィリムはそれをさらに半分にして、となりのネフィリムにわたした。
そうやって、何度か渡されたあと、もう割れなくて、ネフィリムの手の中でキットカットが粉々になった。
粉々にしたネフィリムが悲しそうな顔をした。
すると、まわりのネフィリムたちもみな、悲しい顔をする。
「あ……、わたしが割けばいいんでした」
イエスがそう言って、もうひとつ懐からキットカットをだし、すべてのネフィリムにキットカットをわたした。
みんなにキットカットがいきわたると、ネフィリムは安心したように微笑んで、小さな足をたたんで地に座り、小さな口で大切そうにちびちびと食べた。
足が短すぎて、ほとんど立っているときと背丈が変わらない。
マグディエルはイエスに訊いた。
「ネフィリムって……、あのグリゴリの天使たちと人の娘の間にできた子ですよね」
「ええ、そうです」
「大洪水で沈んだのではなかったのですか」
「ええ、ほとんどが沈みましたね。ここにいるものたちが、そうです」
もしや。
「神によって、天の国に召し上げられたのですか?」
イエスが、近寄ってきたネフィリムを撫でながら答える。
「あの大洪水は、けして地上をほろぼすためのものではなかったのですよ、マグディエル」
「地上を荒らすネフィリムを消し去るために、神が大洪水を起こしたのではないのですか?」
イエスが、ネフィリムの頬をぽよぽよと堪能するように両手で弄びながら言った。
「マグディエルは最もおおきなネフィリムが、どのくらいの大きさになったか知っていますか?」
「三千キュビトほどあったと」
「よく知っていますね。そう、とても大きかったのですよ。ですから、彼らに洗礼を与えるためには、大洪水が必要だったのです」
「洗礼⁉ 大洪水が、水による洗礼だったのですか⁉」
まさか、あの大洪水が、ネフィリムの身体を水に浸し、罪を洗い清めるためのものだったなんて。
「……神の、怒りによって、滅ぼされたわけではないのですね」
「まさか。ネフィリムも、神の愛する子のひとりです」
腰ほどの高さの、小さなネフィリムがそばにきて、マグディエルにふれた。マグディエルは、その頭を撫でてみる。見た通り、触り心地もぽよぽよしている。
「ここでは、大きくないのですね」
「洗礼を受けて、新しい命を与えられましたからね。もう暴食のすえに大きくなることはありません。今はこのシオン山の裾野の森の管理人をしてくれているのです」
シェムハザの子も、どこかにいるのだろうか。
シェムハザのことを思い出した時、マグディエルに触れていたネフィリムが反応した。
マグディエルの瞳をじっと見つめた後、何かを伝えようとするように、片方の手をのばし、ほかのネフィリムに触れる。すると、そのネフィリムも、他のネフィリムに手をのばした。そうやって、ネフィリムたちは手をつなぎ合った。
しばらくすると、うしろから小さなネフィリムがあらわれた。
一番ちいさい。
両の掌のうえにのってしまいそうなほど、ちいさな体をしている。
ちょこちょこと、短い足でマグディエルのもとにやってくる。
マグディエルは膝をついて、小さなネフィリムに手をさしだした。ネフィリムがちいさな両手でマグディエルの指にふれる。
マグディエルはシェムハザと、その素敵な人である彼女の姿を思い浮かべた。
ネフィリムが、小さな目で、マグディエルの目をじいっとのぞいたあと、短い足でぴょんぴょんと跳ねた。嬉しそうな顔をしている。
マグディエルの指におかれた、小さな手から直接、ネフィリムの思いが伝わってきた。
大好き。
大好き。
大好き。
そう聞こえた。
ああ……、シェムハザ。
ここに……、ここに、います。
あなたに、今すぐ伝えられたらいいのに。
イエスが隣に膝をついて、小さなネフィリムをなでた。ネフィリムがぱたんと倒れて、腹を見せる。イエスがなでると、うれしそうにくねくねする。
「マグディエル。すべてのことは、つながっています。悲しみも、歓びも」
イエスの瞳が、マグディエルに向けられる。
イエスの瞳の奥に、星のひかりが見えた。
彼は、すべてを、知っているのだろうか。
なぜか、そうだという気がした。
*******************************
おまけ ☆聖書豆知識☆
*******************************
【洗礼】
全身を水にひたすか、頭部に水を注ぐか、頭部に水滴をつけるか、やり方は色々。
罪を洗い清め、新しい生命を与えるというようなニュアンスがある。
イエスは弟子たちに「すべての民に、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい」と言ったらしい。




