表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

43/76

第43話 番外編 ベルゼブブの書

 ベルゼブブは、いつもと変わらない様子で前を歩くルシファーのうしろ姿を、目を細めて見た。


 どうも最近、ルシファーの様子がおかしい。


「最近、ルシファー、様子がおかしくないか?」


 ミカエルに聞いても「そうか?」とまったく気にしていない。


 いや、ぜったいにおかしい。


 天軍てんぐんでの仕事ぶりはいつだって完璧だし、話をしているときにおかしな様子はない。でも、ふとした時に、姿を見かけると、ぼーっとしていることがある。そんなこと、今までなかったのに。この前も、窓から空をながめて、ぼんやりしていた。


 絶対に、何かある。


 ベルゼブブは夜、ルシファーの部屋に行った。そっと部屋に入ると、ルシファーが部屋の窓辺に腰かけて、また空を見上げていた。ベルゼブブが隣に座ると、明けの星が輝く瞳がこちらを向いて、言った。


「どうかしたか?」

「それは、こっちのセリフだ。なに考えてる」

「——」


 ルシファーは答えない。


 絶対におかしい。


 今まで、こんなことはなかった。ルシファーが、何かを答えられないことなど、今まで一度たりともなかった。


 ベルゼブブは、ルシファーの瞳をのぞき込んで言った。


「わたしにも言えないことか?」

「いいや」

「なら、言え」


 ルシファーの瞳の内側に見たことのない色が揺れた。

 彼はしずかな声で言った。


「神を殺せると思うか?」


 ルシファーの瞳の中に、炎が見える。


「おまえなら、殺せるかもな」


 正直な気持ちだった。誰よりも強いルシファーが、力を出し切っているところを見たことがない。どれほどの力を秘めているのか、天軍のかしらであるルシファーを補佐する、ミカエルとベルゼブブですら、知らない。


「しかし、なぜ、殺す必要がある。お前は、一番に愛されているじゃないか」

「愛とは、わたしの翼をしばりつけることか?」


 そんな風に感じていたのか。一体、いつから。


「だが神はすべてを知るものだ。たとえ、お前が使命に唾棄だきしたとして、それさえ——」


 それさえ、神の知るところ、既に書かれていることなのだとしたら。

 ルシファーの瞳は、真っ直ぐだった。そんなことは、とうに考えたのだろう。


「わたしは予言を書きかえたい」


 しばられたくないと、そう聞こえた。


「すでに書かれていることだとしても、翼を地にこすりつけ、心をおとしめて生きるくらいなら、あの高みにいる者に叛逆はんぎゃくし、おのれの心とともにする」


 これだから、好きなんだ。


「わたしも、ともにゆく」


 ベルゼブブの言葉に、ルシファーは答えない。

 ベルゼブブは、床にひざまずいて、ルシファーの膝の上に、頬を乗せた。


「おまえが天に逆らうと言うなら、わたしもともにゆく。おまえがいない場所にいたって、ちっとも面白くないんだ。天軍の仕事だって、おまえがいたから、していただけだ。いいだろ、ルシファー」


 ルシファーがベルゼブブの髪をなでながら言った。


「ミカエルには、言うな」

「はいはい、おまえはいつだってミカエルが一番なんだからな。あいつ泣くだろうな」

「ミカエルはここにいるべきだ」

「心配か?」

「ああ」

「シェムハザがいるさ」


 ルシファーは窓の外に目をやった。


 どれだけ一緒にいても、ルシファーの表情はよめない。



     *



 天の万軍ばんぐんの三分の一が、ルシファーのもとにつどった。もうルシファーの手に、号令のラッパはない。三分の一の軍勢は、ただ、ルシファーの意志のもとにつどった。


 軍勢は、天を目指すルシファーに続く。


 力の強いものたちばかりが集まったが、ルシファーの翼の力にはだれも追い付けない。ベルゼブブの翼も、これ以上上昇するのが難しくなってきた。翼がくうをかく。風がまるでいとうように、すり抜けてゆく。ルシファーはどんどんのぼっていった。


 ああ、彼ならきっと、あの高みに届く。


 だが、天に神の怒りがたちこめた。雲がこちらを喰らおうと、うずをまく。天の怒りのように、雷鳴がとどろいた。


 その瞬間は、まるで、幻のようにゆっくりと見えた。


 天の火が我々を打とうと、あたり一帯に放たれた。まさにその瞬間、ルシファーは突き刺すように飛んでいた羽をめ、わずかに後方を見た。あの美しい六枚の羽を、うしろにつづく軍勢を守るように広げた。


 そんなことをできる天使がどこにいる。


 万軍ばんぐんの三分の一とはいえ、数えきれないほど多くの軍勢を、ルシファーは翼の下にかくまおうとした。


 すべての軍勢が天の火に焼かれた。

 だが、ルシファーが、あの火のほとんどを己で受けたのを、ベルゼブブは見た。


 彼ひとりなら、もしや、天に届いたのかもしれない。


 ベルゼブブが意識を保てたのは、そこまでだった。



     *



 ベルゼブブは苦しみの中、目を覚ました。


 炎の中にいた。


 おぞましい苦痛が襲う。手も、足も、己のものとは思えない姿に変容していた。怨嗟えんさの声が満ちている。みな、焼かれている。地の底で、あの輝きの中にあった、天の軍勢が焼かれ、変わり果てていた。苦しみ、叫ぶ声が、あたりに満ちる。


 叫んでなど、やるものか。

 たとえ、この身が焼き尽くされ、灰になろうとも、一声たりとも上げてやるものか。


 炎の谷のむこうにひろがる海から、巨大なものが起き上がった。


 闇をまとう者だった。


 手足は、どこまであるのか分からないほど長く伸び、地を覆い、その顔には、闇だけがある。巨大な胴体がもちあがると、海が割れるようにゆれた。闇をまとう者は、長い手で、海をなぎはらった。海の水が、天の軍勢の上にふりかかり、火を鎮める。そいつは、海から上がろうとしていた。


 ベルゼブブはルシファーを探した。


 誰も分からない。


 すべて変容してしまっていた。誰が、誰なのか、すべて、おぞましい姿となり果てている。あたりに、とまどい、なげく声が満ちた。


 闇をまとう者が、扱いづらい身体を無理に動かすようにして、海から立ち上がった。立ち上がると、この地の底の世界ですら、小さく見えるほど、巨大で、堂々とした姿だった。


 闇をまとう者から、声がとどろく。


諸侯しょこうよ、なにをなげくのか」


 ルシファーだった。

 闇がひろがる顔が、こちらをねめつけている。


「あの天の高みにいるものは、われわれを消し去ることはできなかった。いまだ、われらの手には永世の命がある。いまや、天の使命は失墜し、この手には自由がある。天の栄光のもとに輝く姿を失ったとしても、魂の輝きはいや増すではないか。われらは、いままさに、われらの魂を自らのものとしたのだ。諸侯は、天の国におけるがごとく、安らかに、ただ眠りをむさぼるために、この道を選んだのか。ただ勝利を賛美し、美酒に酔わんと、このわたしの後を追ったのか。——そうではないはずだ。われらは、自由をもとめたのではなかったか! さあ、立て! さもなくば永遠の滅びに向かえ!」 


 ああ、これだから、好きなんだ。


 堕ちた者たちが、ルシファーの言葉を聞いて、恥じ入るようにした。


 ベルゼブブは変容してしまった羽でとんだ。まわりの者たちもよろよろと飛んだ。全身が悲鳴を上げるようだった。痛みとともに、ようやっと、ルシファーの足元に落ちるようにして、たどり着く。


 決めた。


 わたしは、この強く美しい生き物の、最も近くでひざまずくものになろう。


「我らの王よ」


 ベルゼブブが大きな声で言うと、みな口を同じくして言った。


「我らの王」


 地の底に、王を求める声が満ちた。

 ベルゼブブは叫んだ。


「あの天のものどもは、高みにいるものの名をかさに着て、善をふりかざします。われらは、さまざまの世界をしばりつける予言を打ち破りましょう。彼らが善を行うというのならば——、我らは悪を行うのです!」


 ルシファーの大きな手が、みなの上をなでるように横切る。

 たちまちに、ベルゼブブも他のものたちも、天使たる姿を取り戻していた。


 ベルゼブブは、己のもとのままの手を見たのち、ルシファーを見た。


 まさに黎明れいめいの子たる姿がそこにあった。


 みな、ひざまずく。


 ルシファーが泰然と微笑んで言った。


「いいだろう、ベルゼブブ。では、こうしよう、予言によれば、高きをゆく者はあたらしい世界を作ったという。まずは、わたしがそれを見てこよう」


 ベルゼブブは、ルシファーを見上げて言った。


「あたらしい世界の者どもは、我等よりも弱く、しかし、あの高みにいる者により近づけて作られ、エデンに置かれたという噂です。まずは、その者どもに、悪の心が何たるか、教えてやるがよろしいでしょう」


 ルシファーがぞっとするような笑顔をした。


 ああ、ぞくぞくするな。



     *



 ベルゼブブは、ルシファーの家のリビングをのぞいた。


 いた、いた。


 ルシファーは、ソファに寝そべって本を読んでいる。そろそろ、マグディエルを帰してひとりでくつろいでいるだろうと思った。

 ベルゼブブは、無理矢理、ルシファーが本を持っている腕の中に、入り込んだ。


「読めない」

「ねえ、怒らないんです? マグディエルに告げ口したのに」

「怒らない」

「え~」


 なんだよ、面白くない。


 ルシファーが笑って、ベルゼブブの髪をなでて言った。


「手を出すなよ」

「どこがいいんです? ただの弱い天使ですよ」


 ベルゼブブは、マグディエルが怒ったところを思い出した。


『彼のことを、悪く言わないでください』


 怖がっているくせに、そこだけは、やたら強気だったな。

 あの顔は気に入った。


 ルシファーが淡々と答えた。


「ぜんぶ」


 本気か、こいつ。


 だめだ、ほんとに、こいつの表情だけは、何年たっても、よめない。


 ベルゼブブは、そまま、ルシファーの胸に頭をどんと置いた。



 寝よ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ