第43話 番外編 ベルゼブブの書
ベルゼブブは、いつもと変わらない様子で前を歩くルシファーのうしろ姿を、目を細めて見た。
どうも最近、ルシファーの様子がおかしい。
「最近、ルシファー、様子がおかしくないか?」
ミカエルに聞いても「そうか?」とまったく気にしていない。
いや、ぜったいにおかしい。
天軍での仕事ぶりはいつだって完璧だし、話をしているときにおかしな様子はない。でも、ふとした時に、姿を見かけると、ぼーっとしていることがある。そんなこと、今までなかったのに。この前も、窓から空をながめて、ぼんやりしていた。
絶対に、何かある。
ベルゼブブは夜、ルシファーの部屋に行った。そっと部屋に入ると、ルシファーが部屋の窓辺に腰かけて、また空を見上げていた。ベルゼブブが隣に座ると、明けの星が輝く瞳がこちらを向いて、言った。
「どうかしたか?」
「それは、こっちのセリフだ。なに考えてる」
「——」
ルシファーは答えない。
絶対におかしい。
今まで、こんなことはなかった。ルシファーが、何かを答えられないことなど、今まで一度たりともなかった。
ベルゼブブは、ルシファーの瞳をのぞき込んで言った。
「わたしにも言えないことか?」
「いいや」
「なら、言え」
ルシファーの瞳の内側に見たことのない色が揺れた。
彼はしずかな声で言った。
「神を殺せると思うか?」
ルシファーの瞳の中に、炎が見える。
「おまえなら、殺せるかもな」
正直な気持ちだった。誰よりも強いルシファーが、力を出し切っているところを見たことがない。どれほどの力を秘めているのか、天軍の頭であるルシファーを補佐する、ミカエルとベルゼブブですら、知らない。
「しかし、なぜ、殺す必要がある。お前は、一番に愛されているじゃないか」
「愛とは、わたしの翼をしばりつけることか?」
そんな風に感じていたのか。一体、いつから。
「だが神はすべてを知るものだ。たとえ、お前が使命に唾棄したとして、それさえ——」
それさえ、神の知るところ、既に書かれていることなのだとしたら。
ルシファーの瞳は、真っ直ぐだった。そんなことは、とうに考えたのだろう。
「わたしは予言を書きかえたい」
しばられたくないと、そう聞こえた。
「すでに書かれていることだとしても、翼を地にこすりつけ、心を貶めて生きるくらいなら、あの高みにいる者に叛逆し、おのれの心とともにする」
これだから、好きなんだ。
「わたしも、ともにゆく」
ベルゼブブの言葉に、ルシファーは答えない。
ベルゼブブは、床に跪いて、ルシファーの膝の上に、頬を乗せた。
「おまえが天に逆らうと言うなら、わたしもともにゆく。おまえがいない場所にいたって、ちっとも面白くないんだ。天軍の仕事だって、おまえがいたから、していただけだ。いいだろ、ルシファー」
ルシファーがベルゼブブの髪をなでながら言った。
「ミカエルには、言うな」
「はいはい、おまえはいつだってミカエルが一番なんだからな。あいつ泣くだろうな」
「ミカエルはここにいるべきだ」
「心配か?」
「ああ」
「シェムハザがいるさ」
ルシファーは窓の外に目をやった。
どれだけ一緒にいても、ルシファーの表情はよめない。
*
天の万軍の三分の一が、ルシファーのもとに集った。もうルシファーの手に、号令のラッパはない。三分の一の軍勢は、ただ、ルシファーの意志のもとに集った。
軍勢は、天を目指すルシファーに続く。
力の強いものたちばかりが集まったが、ルシファーの翼の力にはだれも追い付けない。ベルゼブブの翼も、これ以上上昇するのが難しくなってきた。翼が空をかく。風がまるで厭うように、すり抜けてゆく。ルシファーはどんどん上っていった。
ああ、彼ならきっと、あの高みに届く。
だが、天に神の怒りがたちこめた。雲がこちらを喰らおうと、うずをまく。天の怒りのように、雷鳴がとどろいた。
その瞬間は、まるで、幻のようにゆっくりと見えた。
天の火が我々を打とうと、あたり一帯に放たれた。まさにその瞬間、ルシファーは突き刺すように飛んでいた羽を止め、わずかに後方を見た。あの美しい六枚の羽を、うしろにつづく軍勢を守るように広げた。
そんなことをできる天使がどこにいる。
万軍の三分の一とはいえ、数えきれないほど多くの軍勢を、ルシファーは翼の下にかくまおうとした。
すべての軍勢が天の火に焼かれた。
だが、ルシファーが、あの火のほとんどを己で受けたのを、ベルゼブブは見た。
彼ひとりなら、もしや、天に届いたのかもしれない。
ベルゼブブが意識を保てたのは、そこまでだった。
*
ベルゼブブは苦しみの中、目を覚ました。
炎の中にいた。
おぞましい苦痛が襲う。手も、足も、己のものとは思えない姿に変容していた。怨嗟の声が満ちている。みな、焼かれている。地の底で、あの輝きの中にあった、天の軍勢が焼かれ、変わり果てていた。苦しみ、叫ぶ声が、あたりに満ちる。
叫んでなど、やるものか。
たとえ、この身が焼き尽くされ、灰になろうとも、一声たりとも上げてやるものか。
炎の谷のむこうにひろがる海から、巨大なものが起き上がった。
闇をまとう者だった。
手足は、どこまであるのか分からないほど長く伸び、地を覆い、その顔には、闇だけがある。巨大な胴体がもちあがると、海が割れるようにゆれた。闇をまとう者は、長い手で、海をなぎはらった。海の水が、天の軍勢の上にふりかかり、火を鎮める。そいつは、海から上がろうとしていた。
ベルゼブブはルシファーを探した。
誰も分からない。
すべて変容してしまっていた。誰が、誰なのか、すべて、おぞましい姿となり果てている。あたりに、とまどい、なげく声が満ちた。
闇をまとう者が、扱いづらい身体を無理に動かすようにして、海から立ち上がった。立ち上がると、この地の底の世界ですら、小さく見えるほど、巨大で、堂々とした姿だった。
闇をまとう者から、声がとどろく。
「諸侯よ、なにを嘆くのか」
ルシファーだった。
闇がひろがる顔が、こちらをねめつけている。
「あの天の高みにいるものは、われわれを消し去ることはできなかった。いまだ、われらの手には永世の命がある。いまや、天の使命は失墜し、この手には自由がある。天の栄光のもとに輝く姿を失ったとしても、魂の輝きはいや増すではないか。われらは、いままさに、われらの魂を自らのものとしたのだ。諸侯は、天の国におけるがごとく、安らかに、ただ眠りをむさぼるために、この道を選んだのか。ただ勝利を賛美し、美酒に酔わんと、このわたしの後を追ったのか。——そうではないはずだ。われらは、自由をもとめたのではなかったか! さあ、立て! さもなくば永遠の滅びに向かえ!」
ああ、これだから、好きなんだ。
堕ちた者たちが、ルシファーの言葉を聞いて、恥じ入るようにした。
ベルゼブブは変容してしまった羽でとんだ。まわりの者たちもよろよろと飛んだ。全身が悲鳴を上げるようだった。痛みとともに、ようやっと、ルシファーの足元に落ちるようにして、たどり着く。
決めた。
わたしは、この強く美しい生き物の、最も近くで跪くものになろう。
「我らの王よ」
ベルゼブブが大きな声で言うと、みな口を同じくして言った。
「我らの王」
地の底に、王を求める声が満ちた。
ベルゼブブは叫んだ。
「あの天のものどもは、高みにいるものの名をかさに着て、善をふりかざします。われらは、さまざまの世界をしばりつける予言を打ち破りましょう。彼らが善を行うというのならば——、我らは悪を行うのです!」
ルシファーの大きな手が、みなの上をなでるように横切る。
たちまちに、ベルゼブブも他のものたちも、天使たる姿を取り戻していた。
ベルゼブブは、己のもとのままの手を見たのち、ルシファーを見た。
まさに黎明の子たる姿がそこにあった。
みな、跪く。
ルシファーが泰然と微笑んで言った。
「いいだろう、ベルゼブブ。では、こうしよう、予言によれば、高きをゆく者はあたらしい世界を作ったという。まずは、わたしがそれを見てこよう」
ベルゼブブは、ルシファーを見上げて言った。
「あたらしい世界の者どもは、我等よりも弱く、しかし、あの高みにいる者により近づけて作られ、エデンに置かれたという噂です。まずは、その者どもに、悪の心が何たるか、教えてやるがよろしいでしょう」
ルシファーがぞっとするような笑顔をした。
ああ、ぞくぞくするな。
*
ベルゼブブは、ルシファーの家のリビングをのぞいた。
いた、いた。
ルシファーは、ソファに寝そべって本を読んでいる。そろそろ、マグディエルを帰してひとりでくつろいでいるだろうと思った。
ベルゼブブは、無理矢理、ルシファーが本を持っている腕の中に、入り込んだ。
「読めない」
「ねえ、怒らないんです? マグディエルに告げ口したのに」
「怒らない」
「え~」
なんだよ、面白くない。
ルシファーが笑って、ベルゼブブの髪をなでて言った。
「手を出すなよ」
「どこがいいんです? ただの弱い天使ですよ」
ベルゼブブは、マグディエルが怒ったところを思い出した。
『彼のことを、悪く言わないでください』
怖がっているくせに、そこだけは、やたら強気だったな。
あの顔は気に入った。
ルシファーが淡々と答えた。
「ぜんぶ」
本気か、こいつ。
だめだ、ほんとに、こいつの表情だけは、何年たっても、よめない。
ベルゼブブは、そまま、ルシファーの胸に頭をどんと置いた。
寝よ。
 




