第38話 紀元前から愛してる
震えるマグディエルの目の前で、女の姿がほどけて消える。光る糸は、何事もなかったようにまた地面にあいた穴を編みはじめた。ウリムとトンミムは、光をうしない掌の上でふたたび沈黙している。シェムハザは、女の面影を惜しむようにしばらく空を見つめていた。
シェムハザがマグディエルに向き直って言った。
「ウリムとトンミムを貸してくれてありがとう」
マグディエルの様子を見て、おや、という顔をした。シェムハザは自分の手を月明かりにすかして、納得したように笑って、説明した。
「これはわたしの実態ではないんだ。私の身体はこの下にある。わたしも、罪びとのひとりさ」
地下世界の罪びとなら、おそらくシェムハザもグリゴリなのだろう。さっきの、人の女のまぼろしは、シェムハザと一緒に罪をおかした者なのだろうか。
マグディエルはおそろしくなった。
シェムハザが、にやっと笑って言った。
「じつはね、わたしは地上をほろぼしかけたんだ」
「えっ!」
こんなに優しそうな顔をしているのに、そんな恐ろしい堕天使だったなんて。マグディエルの震えが加速する。
「だからせめてもの罪滅ぼしに、こうやって穴をふさいだりしているんだよ」
良かった。今は、もう改心しているのだろうか。マグディエルの口から安堵のため息が出る。
シェムハザが、ひそひそ声で言った。
「でも、じつは最初は逃げられるかもと思って、ほどけた穴から出ようとしたんだ」
「えっ!」
やっぱり改心なんてしていないんだろうか。マグディエルは逃げるべきか迷った。
シェムハザは「結局、身体は出られなかったから、あきらめたけれどね」と言った後、おどすような顔をして、こわいことを言った。
「わたしは犯した罪を後悔していない」
マグディエルは思わず数歩下がった。
シェムハザは、その様子を見て、我慢ならないといった様子で笑った。
「きみって、反応が素直でいいね」
からかわれただけだろうか。マグディエルは立ち去ろうか悩んだが、シェムハザの笑顔を見ると、もうすこし話を聞いてみたいような気持がした。
「地上をほろぼしかけた罪とは、いったいどんな罪なのですか」
「うーん、どこからが罪になるのだろうね。結果はとんでもない罪になったけれど」
シェムハザはすこし考えてから、愛しいものを見るような目で微笑む。マグディエルはその表情から目が離せなかった。
「素敵な人に出会ったんだ。なにもかも捧げたくなるほど」
「さっきの女の人が、シェムハザの素敵な人ですか?」
「そうだ。彼女の魂は、散り散りになって地下世界を彷徨っている」
「散り散りに?」
シェムハザは視線を、ずいぶんと塞がってきている穴に向けてから、ぽつりぽつりと話した。
「わたしは、彼女と出会って、愛の歓びを知った。ふたりで素晴らしい時間を過ごしたよ。何にも、かえがたい時間だった。そうするうちに、わたしと彼女の間に子どもができた」
シェムハザが、懐かしむような顔をした。
「子どもができたと気づいたときは……、本当に幸せだったよ。奇跡だと思った。わたしと彼女のこどもは、いちばん大きなネフィリムになった。そうだな……、身の丈は三千キュビトほどあった」
古い長さの単位だ。マグディエルは頭の中で計算した。三千キュビトということは、千三百メートルを超える。大きい。
「わたしと彼女の子ほど大きいものはいなかったが、それに近いネフィリムもたくさんいた。最初は、ふつうの人間と同じようなものを食べていたが、どんどん大きくなってね。そのうち、ひとくちで牛を一頭食べるようになったな」
ふと、シェムハザの顔から表情が消えた。
「わたしと彼女のこどもは、彼女の兄弟を喰らった」
一瞬、何を聞いたのか分からなかった。
シェムハザは淡々と続けた。
「彼女の両親も喰らって、村の家畜も、人間も、作物もすべて喰いはじめた。大人も子供もみな喰われた。村にあるものを食べつくすと、村からさまよい出て、いたるところで動物や、人や、植物を根こそぎ食べた。……いくつもの、国が滅んだ。そのうち、食べるものが見つからないと、家や、そこらの木や岩まで食べはじめた。あの子は、ずっと、腹を空かせていたよ。そして最後には、食べるものがなくて、ネフィリム同士が食べ合った。……ああ、わたしの知る天使もいくつか喰らったな」
シェムハザがこちらを向いた。
「かわいそうな子だった。ただ腹をすかせてなげいていたんだ。自分が何をしているか、何もわかってはいなかった。大洪水の、水に沈んでいくその瞬間も……、ほんとうに、ただ腹を空かせていたよ」
マグディエルは、シェムハザの瞳を見ていたくなかった。
その瞳に、くらい水底に沈んでゆく大きな影が映る気がした。
「彼女はそんなネフィリムを産んだ自分を許せなかった。でも、こどものことを愛してもいた。その思いが彼女の魂を千々に刻んでしまったんだ」
シェムハザの瞳が、深い悲しみに沈む。深くて、仄暗い、穴のようだった。
「わたしは無力で、そのどちらも救うことができなかった。いまは、ただ、ずっと彼女の魂のかけらを集めている」
マグディエルは、これまでグリゴリの堕天使をおそろしく邪な者たちだと思っていた。人の女と交わり、ネフィリムを産ませ、地上を堕落させた者たち、そう思っていた。
でも……、シェムハザはただ、人の女とその間にもうけた子を愛しただけではないのか。
シェムハザの罪はどこにあるのだろう。人の女と出会ったことだろうか。その女と想いあったことだろうか。女と交わり子をなしたことだろうか。マグディエルには、どれも罪には思えなかった。ネフィリムを、地上をほろぼすまでに成長させたことが罪だろうか。それならば……、子に手をかけることが罪を避ける方法だったろうか。
そんなはずない。
マグディエルはやるせなくなって、眉間にぎゅっと力を入れた。
シェムハザが優しい声で言った。
「きみはやさしいね、マグディエル。いい子だ」
エレデの言い方ととても似ていた。
「そろそろお別れの時間のようだ。マグディエル話を聞いてくれてありがとう。きみのような年若い天使と話をできるなんて思わなかったな」
ぽっかりと開いていた穴は、もうほとんど閉じかけていた。
「シェムハザ、わたしはグリゴリのことを誤解していました。……あなたの、道に光がありますよう」
シェムハザは嬉しそうに笑って「ありがとう」と言った。
「わたしは時々ね、神はひどく優しいのかもなと思うんだよ」
シェムハザの言葉にマグディエルは首をかしげた。残酷な運命に、到底そんな風には思えない。
「マグディエル、君と知り合えただろう」
優しく笑う顔につられて、マグディエルも笑った。
「さようなら」
「さようなら」
光の糸が最後のひと編みを終えると、シェムハザの姿がほどけるように消えた。
マグディエルは、編みあがった地面の上に跪いた。
ミカエルの言葉が思い出される。
『天国で噂されていることがすべてじゃない』
マグディエルは祈った。
シェムハザと、シェムハザの素敵な人に、その子であるネフィリムにも、すべてのグリゴリとそれにかかわるものたちに、どうか愛の安らぎがおとずれますように。
どうか、すべての悲しみを遠ざけてください。
彼らの行いを、どうか罪と定めないでください。
すべてのものに愛をお与えください。
おられるのなら……、どうか、主よ。
*
シェムハザは地の底で、上からわずかにただよう優しい祈りの香りをかいだ。マグディエルが祈っている。なぐさめの香りがただよった。
いい子だなぁ。
ウリムとトンミムに手をかざした瞬間、ほんの一瞬、マグディエルの指先にシェムハザの手が重なった。意図せず、彼の記憶をのぞいてしまった。ウリムとトンミムのみちびきだろうか、ずっと会いたいと思っている者の顔が見えた。
ルシファーがあどけない顔で笑う姿が見えた。
マグディエルが持つラッパには、ルシファーの羽の祝福まであった。友だちになりたてだと言っていたが……。まさか、ルシファーが一目ぼれしたとか?
「え~、ルシファ~、気になる。聞きたい、聞きたい」
エレデの姿も見えた。
優しい瞳が、楽しそうに揺れていた。元気そうだった。それに、大きくなっていた。
「エレデ……、まだ成長止まらないんだ」
このふたりの姿を見ただけでも、幸せな驚きなのに、マグディエルの記憶にはシェムハザが最も会いたいと願っている者の姿まであった。
ミカエル——。
跪いてこちらを見上げている姿が見えた。ミカエルが甘えるときの癖だ。むかしは、シェムハザとルシファーに向かって、よくあれをやっていた。怖くなったり、寂しくなったりしたら、近くにやってきては、ああやって見上げてキスをねだっていたっけ。それも、ルシファーがよみに堕ちてからは、滅多にしなくなったけれど。
「ミカエルは、相変わらずかわいいな」
ミカエルに会いたい。
ルシファーが去って、あんなにショックを受けていたのに——。シェムハザまでもが、自分を裏切ったと思ったに違いない。何も言わずに地下世界の石の門を閉めるミカエルの姿が思い出される。
あの瞬間、心が引きちぎれそうだと思った。
人の娘を愛したゆえに地上がほろびへと向かったことも、我が子が目の前で水に沈んでゆくのに救えなかったことも、愛したものの魂が砕け散るのをただ見ているしかできなかったことも、心がひびわれるような思いをさせられたが、ミカエルをひとり残してゆくことは、——もっとも罪深く感じられた。
大切に思っていたのに、すべて、わたしが壊してしまった。
シェムハザは、土の壁にもたれて、座り込んだ。
審判の時まで、もう姿を見ることもかなわないと思っていたが、マグディエルのおかげで、友の姿も、愛する彼女の姿も見ることができた。運命は不思議にできている。天国がどんなに古かろうと、地下世界との間のほころびなど、そうできるものではない。
神のはからいは粋だ。
地下世界へ封じられた時にも、それを感じた。
本来であれば、千々に刻まれた彼女の魂は、そのまま散り散りになって、集めることはできなかっただろう。だが、地下世界に封じ込められた魂は、ここにとどまり続ける。審判のときまで、どれほど時が残されているかは分からないが、シェムハザには彼女の魂を集める猶予が与えられた。
ウリムとトンミムがうつした彼女の姿——。
笑っていた。
シェムハザは願った。
どうか、わが子の魂も、神の愛のもとにありますように。
どうか、すべての罪は、わたしだけのものにしてください。
こんなに……罪深いわたしを、ウリムとトンミムは励ましてくれた。
「主よ……、感謝いたします」
シェムハザの声が震えた。




