第37話 まっくら森の、イケメン天使
マグディエルは夜中に身体が痛くて目が覚めた。アズバにしごかれて、限界まで追いつめられた全身の筋肉が悲鳴をあげている。
アズバとナダブはすっかり寝ている。
そっと、ベッドから出た。音を立てないようにして、外へ出る。夜の森の空気はしっとりとしていて、すこし冷えた。マグディエルは、腰に手をあてて、身体をそらすようにして天を仰いだ。背中にぎゅっと力をいれて、胸をひらく。縮こまっていた筋肉が伸びると気持ちよかった。
ん?
マグディエルは胸元に手をあてた。
あれ?
もう一度さわる。
えっ。
マグディエルは胸元に手を突っ込んだ。
ないっ!
胸元に入れていた、ウリムとトンミムが消えている。
夜の冷気ではない冷たさが胸におりた。
落ち着け、思い出せ、いつからないんだ。ダビデの城を出た日には、あった。その次の日は、あの女の幽霊が出る穴に落ちた日だ。その日から……、ウリムとトンミムを見ていない。マグディエルは、まっくらの森を見つめた。
どうしよう。
あんな怖いところには行きたくない。夜だし。でもアズバとナダブを起こすことはできない。昼間に力仕事をしていたし。明日、アズバとナダブについてきてもらおうか。
いや。
推し様の言葉がよみがえる。
『できることをすればいいよ』
よし、自分にできることから、だ。
今から穴のまわりの様子だけ見て、なかったらすぐ戻ってこよう。穴の底にあるなら、明日アズバとナダブに相談して取りにいけばいい。マグディエルは月明かりをたよりに、森へと歩みを進めた。
*
穴の場所にいくと、ひとりの天使が穴に向かって手をかざしていた。短髪で背が高く、大きな六枚の羽を持っている、男の姿をした天使だった。天使が手をかざす先では、月の光をあつめたような糸が、ゆったりと舞うように、地面にあいた穴をはしから編んでいる。
美しい光景だった。
天使が、マグディエルを見た。
意志の強い眉と、しっかりとした顎をしている。男らしくてかっこいい。マグディエルはちょっと、どきどきした。天使はほんのりと微笑みがのっている優しい顔をしている。やわらかく目を細めて、声をかけてきた。
「やあ、こんばんわ」
「こんばんわ」
「こんな夜遅くにどうしたのかな?」
お互い様だが、夜の散歩をするには随分と遅い時間だった。
「大事なものをなくして、このあたりにないか探しに来たんです」
「大事なもの? もしかして、あれかな?」
天使が指さしたのは、穴からすこし離れた場所だった。草地の上にころがり、月明かりをうけて不思議な色の光を放っている。ウリムとトンミムがそこにあった。マグディエルは走り寄って、拾った。
「これです」
「よかったね。それはウリムとトンミムだろう? とても貴重なものを持っているんだね」
「え、ええ」
貴重なものと知っているのに、拾わずにそのままにしていた天使の行動にすこしの違和感があった。
マグディエルは礼儀正しく名乗ってから、訊いた。
「あなたは、こんな時間に何をしているのですか?」
「これはこれは、ご丁寧に。わたしの名はシェムハザだよ。見ての通り、この穴をふさぐのが仕事みたいなものだ。だれかが落ちたりしたらあぶないからね」
「昨日、落ちました」
「それは悪いことをしたな。怪我なんかしなかったかい?」
「ええ」
「そう、良かった」
マグディエルは、月明かりの中で踊る、光る糸を見ながら訊いた。
「この穴は何なのですか?」
「これは、まあ、なんというか、開いちゃいけない穴だ。天国はずいぶん昔からあるからね。場所によってはこうやってほつれるように、繋がってはいけない場所が繋がることがあるんだ。ごくたまにだけどね」
「繋がってはいけない場所?」
「そう、この先は地下世界だよ」
マグディエルはぞっとした。罪をおかしたものがゆく場所だ。
「下で幽霊を見ました。罪びとの幽霊でしょうか?」
「幽霊?」
「はい、女の人がたくさん。何かを探しているようでした」
シェムハザは困ったような顔をして答えた。
「あれを見たんだね。あれは、そう、罪びとになるだろうね。悲しいことだけれど」
マグディエルが首をかしげると、シェムハザが続けた。
「彼女たちは、子どもを探しているんだ。失われてしまった子どもをね。きみは地下世界に行ったものがどんなものたちか知っているかい?」
「人の女と交わった堕天使であるグリゴリが封印されたということは知っています」
「そうだ、地下世界にはグリゴリたちが封印された。そのときに、天使と交わった人の女の魂も、ともに地下世界に封印されたんだよ、おなじ罪をおかしたものとして。きみが見たのは、その女たちの魂のかけらのようなものだ」
「子どもの魂は一緒ではないのですか?」
「子どもの魂は、どうなったのか分からない。みんな水の底に沈んで、そのあとはどうなったか……」
「水の底に?」
「そう、きみは人と天使の間に、どんなものが生まれるか知っている?」
「ネフィリムが生まれるのですよね。それが、どういったものなのかは知りませんが」
「そう、ネフィリムだ。ネフィリムは、はっきりとした魂のかたちを持っているのか……、よく分からない存在なんだよ。魂がしばる形がないから、どんどん大きくなるんだ。際限なく育つ。食べれば食べるほどね。そして大きく育つほど、その身体を維持するためにより多くの食べ物を必要とする。なんでも食べたよ。そこらじゅうにあるもの、全部ね。そうやって地上を荒らすネフィリムを、神が大洪水で沈めたのさ。ノアと箱舟だけ逃がしてね」
あの大洪水にそんな背景があることを、マグディエルは知らなかった。聖書には、人が堕落した様子を見て神が心を痛め、悔やみ、すべてを消し去ろうと心に決めたと描かれていたにすぎない。
ふと、シェムハザがマグディエルの腰にあるラッパを見て、驚いたような表情をした。そして、優しい顔をして言った。
「とても綺麗な祝福だ」
エレデの言い方に似ていた。
「これは、割れてしまったのを友だちが治してくれたのです」
「友だちが……、それはとっても素敵だね。仲が良いんだ?」
「え、うーん、まだ、なりたてで」
「なりたてでその祝福を? ずいぶん太っ腹な友だちだな」
シェムハザが笑った。
シェムハザは、右手を顎にひっかけて、すこし悩むようにして言う。
「会ったばかりで、こんなお願いをするのは、申し訳ないのだけれど……」
次の言葉を言うまで、しばし間があった。
「ウリムとトンミムに聞いてみたいことがあるんだけれど、だめかな?」
「いいですよ」
マグディエルは右手に握り締めていたウリムとトンミムを、差し出した。
「持っていてくれ、わたしにはそれは持てない」
シェムハザはそう言って、マグディエルが差し出した掌のうえに、彼の掌をかさねるようにした。触れはしなかった。
「ウリムとトンミムよ、どうか私に示してください。私の行いは、間違いだろうか。多くのものを……不幸にしてしまった」
シェムハザが掌をどける。
ウリムとトンミムは、月の光を受けて沈黙していた。
みちびきの石は答えない。
シェムハザは、しばらく見つめていたが、あきらめたように小さく息をついた。
その時、わずかにマグディエルの掌のうえで、ウリムとトンミムがあたたかくなった。シェムハザが操っていた穴を編む光の糸が舞い上がる。シェムハザの前に、光の糸が形をつくった。すこしずつ、おおきくなり、ひとの姿に近くなる。そして、ウリムとトンミムが光りはじめた。光はまるでヴェールのように波打ち、糸が作り出した人の形と絡み合うようにして、像を結んだ。
人の女だった。
意志の強そうな瞳を持ち、小さな唇は、歓びをしめすように両端が持ち上げられている。晴れやかな笑顔だった。彼女の手がシェムハザの頬にのびた。
シェムハザと女が見つめ合う。
掌の上のウリムとトンミムから、マグディエルの心に想いが流れ込んできた。言葉にはしづらい感覚のようなものだった。大丈夫というような、背をなでて励ますような、進めと先を指すような、前向きであたたかな優しさがあった。
切なくなるほど、優しい。
マグディエルは、シェムハザと人の女を見つめた。
ひとつ、気づいて、血の気が引く。
光がうつす女の姿は、透けて向こうが見えている。そして、女が手を触れているシェムハザの頬も、そこだけ透けて向こうが見えていた。シェムハザが女の頬に手を伸ばし、お互いが触れ合うような形になったとき、彼の姿も不安定な光のように揺れた。
透けて向こうが見えている。
マグディエルは身を固くした。
そういえば、六枚羽のあきらかに高位の天使なのに、シェムハザからはなんの香りもただよってはこない。
幽霊だ!
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【ネフィリム】
「天から落ちてきた者達」という意味。
天使と人の娘の間に生まれた巨人。




