第36話 使徒アクスタはありますか
枕投げを楽しんだ次の日、マグディエルたちはヨハネの家に来ていた。
「わあ、手伝いに来て下さったんですか」
すでに半裸で作業をはじめていたイエスが嬉しそうな顔で言った。
ヨハネの家の修理を手伝いに来たが、よくよく見るとヨハネの家の一部はかなり損傷しているようだった。焦げて真っ黒になって、炭になっている部分もある。
「火事?」
マグディエルがつぶやくと、ヨハネが答えた。
「そうだよ~、先生ったら、うっかり灯りを倒しちゃって……」
ヨハネじゃなくて、イエスが小火をおこしたのか。
イエスを見ると、爽やかな笑顔で「ね~、うっかりうっかり」と言った。
「全焼しちゃうかと思いましたね~」
ヨハネが可愛い顔で笑いながらイエスに言う。ふたりは朗らかに笑った。
「力仕事がたくさんあるので助かります」
イエスがそう言って視線をやった先には、たくさんの木材がつまれていた。
マグディエルたちは、イエスの指示に従って、木材を運んだり、切ったりした。だが、問題があった。力仕事なのでアズバも男の姿で動く。もちろんナダブも男の姿で動く。すると、マグディエルはどちらか一方に近づきすぎると、女の姿になってしまった。
「どっちにしろ、力弱いし、大人しくしてろよ」
ナダブの容赦ない言葉が突き刺さった。
マグディエルは持ち上げられなかった丸太を見下ろしながら、自分の腕を見た。男の姿になって、アズバとナダブに近づかないように、不要になった材料を端によける作業をしていたが、ほとんどが重くて持ち上がらない。
筋トレ、した方がいいのかな。
役に立てないどころか、姿を変えては戻してもらうのに、邪魔ばかりしている。だんだん気持ちが焦る。こんなことでも役に立てない。マグディエルは、持ち上がらない丸太を思いっきり引っ張ろうとした。
「あっ」
背筋をのばして、腰に手をあてる。いま、なんか腰がぴきっていった気がする。穴に落ちた時に、しこたま打ちつけた場所かもしれない。
ナダブがすこし離れたところから言った。
「腰痛か、おじさん」
「うるさい」
腰に手をあてて天を仰いでいると、ヨハネが近くにきてマグディエルをじっと見た。
「ヨハネ、どうかしましたか?」
ヨハネはにっこりと笑ったあと、イエスの方を振り向いて言った。
「先生~」
「は~い。どうしました?」
「マグディエルと遊んできてもいいです?」
「いいですよ~」
「わーい、行こう、マグディエル」
「え、でも」
ヨハネがマグディエルの右手に籠を持たせ、左手を引っ張って森へと向かった。森に入ると、ヨハネはマグディエルの手を放してずんずん奥へと進んだ。マグディエルは何度か後ろを振り返った。イエスとアズバとナダブが力仕事をしているのに、いいのだろうか。なんだか申し訳ない。
ヨハネは、花を見つけては、かわいいと言ったり、香りをかいだり、気に入ったものは摘み取って、持ってきた小さい籠に入れたりしている。
しばらくすると、ヨハネはマグディエルのとなりに来て、歩いた。
「マグディエルは、とっても気にする性格だねぇ。せっかく景色が綺麗なのに、楽しめない?」
「力仕事を任せっぱなしなのが、悪くて——」
「力仕事向いてないみたいだから、任せるしかないよ」
グサッときた。
ヨハネがマグディエルの顔をのぞきこんで笑った。
「自分ができないことを気に病む必要はないと思うけれど」
「せめて、みなと同じくらいできるようになりたいと思ってしまいます」
「え~、ぼくなんて、弟子の中では一番頼りなかったよ。でも、先生は愛してくれる」
「私の友も、私のことを大切にしてくれます。だからこそ、私も役に立って、思いを返したい」
「だからって、できないことをしようとするのは苦しくない?」
「——」
「できることをすればいいよ。見て。これは、先生が好きな花。水に入れると、とっても良い香りがするんだよ」
ヨハネがそっと肩でマグディエルにふれた。
「水を汲んで帰ろう。美味しい湧き水がでるところがあるんだ。きっと力仕事をしたあとに飲んだら美味しいよ」
マグディエルを見上げるヨハネの顔に、木漏れ日が通りすぎる。鳶色の瞳にひかりがさすたび、硝子のように光った。
美しい人だな。
ヨハネは目を前に向けた。長いまつげが鳶色の瞳にかかる。
「とっても綺麗だよね?」
心を見透かされたのかと思った。
「もっとリラックスして、散歩を楽しまなきゃ。かわいい花もいっぱい咲いているし」
「はい」
マグディエルは、もうすこし、ヨハネの瞳を見つめていたいような気がしたが、森に目をやった。ヨハネとふたりで、あの花がかわいい、あれはまずい、あれは粉っぽい、あれは甘いと話しながら散策を楽しんだ。気持ちを切り替えてしまうと、森はずいぶんと魅力的だった。かわいらしい鳥もたくさんいるし、妙な虫もいる、どうやって咲いているのか不思議になるくらい小さな花もあった。ことさら、ヨハネがあれやこれやと言いながら指さす先を見るのは楽しかった。愛らしい指先に目がゆく。
ヨハネが「ここだよ」と言って、連れてきてくれた場所には、美しい小川が流れていた。小川のもとは小さな泉になっていて、水が湧いている。底で砂がおどっていた。ヨハネがマグディエルの持っていた籠の中から、瓶を取り出して、泉に沈めた。
たっぷりと水の入った瓶を持ってヨハネが言う。
「ぼくには重いから、お水を持つのはお願いしてもいい?」
マグディルは頷いた。
ヨハネといると、心が軽くなるような気がする。
摘んできた花を、瓶の中にいれる。甘い香りがした。
「花の香りがうつるまで、すこし時間がかかるから、水に足でもつけてゆっくりしよう」
ヨハネはそう言って、小川に足をひたして、そのままころりと寝転がった。マグディエルもとなりで、同じようにした。
ヨハネが空を見上げたまま言う。
「ね、マグディエルって、すこし変わっているね」
身に覚えがありすぎるけれど、どういうところがだろう。
「なんだか、天使らしくなくて、人間っぽいよ。言われる?」
「言われます」
ヨハネがふふ、と笑って言った。
「とってもかわいい」
かわいいと言われるのは、悪い気がしなかった。なんだか、うれしい気すらする。
ヨハネが地面に肘をついて両手で顔をささえながら、マグディエルをのぞきこんで言う。
「ね、元気になった?」
「元気がなさそうでしたか?」
「どうかな」
ヨハネがいたずらそうな顔をして笑った。
ふたりでお喋りしていると、あっという間に時がすぎた。ゆっくりしすぎて、二人で急ぎ足で笑いながら帰る。ヨハネの家に帰ると、修理作業に一区切りつけたイエスとアズバとナダブが、水を美味しい美味しいと言いながら飲んだ。ヨハネが、皆が見ていないところで、マグディエルに向かって指でハートを作った。
そろそろ帰ろうとなったとき、ヨハネはマグディエルのところに来て言った。
「マグディエル、今日は一緒にお散歩楽しかった。また行こうね。重いもの持ってくれて、ありがとう。とっても頼りになったよ」
マグディエルの心が、ふあーっと舞い上がった。
マグディエルは、自分たちの家にもどってから、イスに座ってテーブルに肘をつき、大きなため息をついた。ベッドに寝ころんでいたナダブが振り向いて言った。
「なんだ、どした?」
「ヨハネが……」
「ヨハネが?」
「かわいすぎて……」
「お、おう」
「アクスタか、ぬいが欲しい」
「推し活じゃねえか」
チェキでもいい。スマホに挟んでおく。
あの癒し。
天使よりも天使。
マグディエルは推し様の言葉を思い出した。
『できることをすればいいよ』
できること……。
マグディエルは、勢いよく立ち上がった。イスが大きな音をたてる。
ナダブの怯んだような「な、なんだ、なんだ」という声が聞こえた。
「筋トレをする!」
推し様の前に恥ずかしくない自分になるんだ。
また、推し様の言葉がよみがえる。
『とっても頼りになったよ』
マグディエルの心が、また、ふあーっと上昇した。
筋トレをして、もっと頼りになる自分に、なる!
ちょうど扉から入ってきたアズバの前に勢いよく、跪く。
「アズバ、筋トレ教えて!」
「あら、びっくりした。筋トレならナダブの方がいいんじゃない?」
「ナダブに近づくと、女の姿になってしまうから」
「あ、そっか。じゃあ、まかせて。わたしがきちんと教えてあげる」
ナダブがベッドの方から「アズバに教えてもらうのはやめといたほうがいいと思うぞ」という声が聞こえたが、無視する。
そのあとは地獄だった。
普段しない動きに、全身の筋肉が痙攣する。
「次はプランクよ。はい、耐えて」
「アズバ、もう」
「だめよ」
「もうっ、ほんとに、限界でっ」
わたしの身体ってこんな動き出来るんだ。
笑ってしまいそうになるくらい、全身ががっくがくに震えている。幽霊と向き合った時の震えとはちがう、痙攣するような大きな揺れだった。
ナダブが遠巻きにベッドで寝ころんだまま言う。
「マグディエル、教えてもらう相手間違ったな」
くそ、ナダブに教えてもらえば良かった。
「アズバっ、もうゆるしてっ」
「だめよ」
「お願いアズバっ」
「だ め よ」




