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第3話 天国からの追放、おことわりします

 水面にゆらゆらとかげが映る。

 誰かが水中をのぞき込んでいる。


 マグディエルは両腕を掴まれて、引き上げられた。

 水から出て急いで空気を吸い込むと、同時に鼻からも口からも、入ってきた水にむせる。


 吐きそう。


 アズバの「しっかり、マグディエル」という声と、ナダブの「溺死できしするおじさん天使とか笑えないよ」というむかつく声が聞こえて、ほっとする。


 生きてた。


 立ち上がってみると、水位は腰までないくらいだった。

 アズバが、自分の衣が汚れるのもかまわず、袖口でマグディエルの顔をぬぐう。


 天使なのに、飛べずにちるというショックから立ち直れず何も言えずにいると、アズバが肩をかしてくれた。岸へ向かう。水に濡れた羽が重くて歩きづらい。重さで下がった羽のつけねのあたりが、すこし痛んだ。


 うまく歩けずにいると、ナダブが空いている方の腕を支えてくれる。

 ふたりに支えられて、なんとか岸にたどり着く。


 水から上がると、マグディエルは座り込んでしまった。

 唯一飛べることぐらいが天使らしいふるまいだったのに、それも失われるなんて。


 アズバがマグディエルのうしろにまわりこんで羽の様子を確認している。


「折れたりはしてなさそうね。びっくりしたわ。すごい勢いで墜ちたから」


 墜ちた。


 なんか、もうその言葉を聞いただけで泣きそう。

 アズバがマグディエルの顔を覗き込む。


「ちょっと、マグディエル、顔色が悪いわ。どこか痛むの?」

「そんなに痛くない」

「じゃあどうして泣くのよ」


 ナダブが横から覗き込んできて「ほんとだ、泣いてる~」と言う。


「もしかして、自分だけ飛べなくなったと思って落ち込んでるんじゃない?」


 ナダブの言葉に、アズバが「あ、そういうこと!」と言いながら、マグディエルの肩をぽんぽんとたたく。


「大丈夫よ、マグディエル。あなただけ飛べなくなったわけじゃないわ。私たちみんな、この水の上の領域は飛べないみたい」

「そうなの!」


 変にひっくり返った大きな声が出た。


「けっこう手前の方から、飛びにくかったからあなたに声をかけようと思ったんだけど……。なんだか加速して突っ込んでいっちゃったから、止められなかったわ」

「そうだったんだ」


 アズバが「止めてあげられなくてごめんね」と言って、抱きしめてくれる。

 アズバの肩に頬をあずける。

 なんだかどっと疲れてしまった。


 はじめての景色に興奮して、一人でつっこんでいったのが恥ずかしい。


「ね、あそこにテントみたいなのあるよ。あそこで、この海だか湖だかについて教えてもらえるかも」


 ナダブが指さす先には、水辺に建てられた白い幕屋まくやが、ぽつりとあった。



      *



 マグディエルたちが幕屋まくやへ近づいていくと、なんだか美味しそうなにおいがした。


 地上で嗅いだことのあるにおいがする。

 バーベキューの匂いだ。

 お肉のやける……、良い匂い。


 幕屋の前で、肉が焼かれていた。


「牛? まるごと?」


 マグディエルのつぶやきに、丸焼きの牛の焼き加減を見守っていたらしい男が振り向いた。


「おや、どちらさまで? いや、その前にずぶ濡れですね。どうぞ、火に当たってください」


 背の高い男が、ほりの深いかおをこちらに向けた。人間のようだった。

 椅子をすすめられて、丸焼きの牛を取り囲むように、みな椅子に座った。

 マグディエルたちは、それぞれに礼儀正しく自己紹介した。


「ラッパ吹きの御使みつかい様でしたか。わたくしは、アロンと申します」

「アロンって、あのアロン?」


 ナダブがそう言いながら、アロンの顔を不躾ぶしつけにのぞきこむ。

 アズバが、ナダブの肩を拳で叩いていさめる。


 アロンは気を悪くした様子もなく、人好きのする笑顔で「おそらく、そのアロンで間違いありません」と笑った。


 マグディエルはアズバの方を見た。


 どのアロン?

 アズバが控えめな声で「ほら、モーセのお兄さんよ」と教えてくれる。


 え! 超有名人!


 そうか、天国だもんな。探せばいるよね有名な人たち。

 マグディエルはつい、きょろきょろとモーセを探してしまう。


「モーセなら、もうすぐ帰ってくると思いますよ。肉につけるヨシダソースが切れてしまって、買いに出かけたんです」


 アロンの言葉にアズバが「ヨシダソース美味しいですよね」とすかさず返した。


「よかったら、皆さんもお肉食べていってください」


 アロンの優しい申し出に、マグディエルたちは甘えることにした。

 ついでに色々と聞いてみる。


「向こうに見える大きな山がシオン山かどうかは、すみません、知らないですね。目の前にあるのは海ではないと思います。淡水ですから」


 アロンにそう言われて、そういえば、堕ちたときに塩辛くはなかったな、と思い出す。

 やはり、アロンも天国の地図のようなものを見たり聞いたりしたことはなく、ただ、自分の周囲にあるもののことしか知らないようだった。


「あの湖を渡る船についても聞いたことはありません。とくに必要としなかったものですから。すみません……、お役に立てないようで。姉のミリアムが一番しっかりしているので、何か知っているかもしれません。モーセと一緒に買い出しに出かけているので、帰ってきたら聞いてみましょう」


 ふと、マグディエルは疑問に思った。


 なぜ、天国に住む者は、天国についてあれこれと疑問に思ったりしないんだろうか。神はどこにいるのかとか、御座みざはどこにあるのかとか、目の前の湖や山がどんな名前なのかとか、気になったりしないんだろうか。


 とはいえ、マグディエルも最近まで、そんなことに興味を持ったことはなかった。存在をうけてこのかた二千年のほとんどを、何も疑問に思うことなく、ラッパ吹きたちが住む丘で変わらぬ日々を過ごしていた。


 気になり始めたのは、不安に襲われて、神を疑いはじめてからだ。


「それにしても、えらく静かな場所に住んでるんだね。一緒にエジプトを脱出したイスラエル人たちは近くで暮らしてるの?」


 ナダブの疑問は、マグディエルも考えていたことだった。

 この幕屋の周囲には、人気ひとけがなさそうだし、幕屋自体も多くの人をひきいた人間が暮らすには、随分(つつ)ましい佇まいだ。


「イスラエル人たちは、自由に好きな場所で住んでいます。たまに、ここを訪れる人もいますが、ほとんど交流はないですね」


 まあ、沙汰さたがないのは元気にやっている証拠でしょう、とアロンの言い方は妙にさっぱりしている。


 あ、なんかこの感じ知っているな。

 マグディエルは、よく知る感覚をアロンから感じ取った。


 マグディエルがナダブのことを鬱陶うっとうしく感じるときのそれだ。別にナダブのことを嫌いではない。同胞として愛しているが、イライラさせられるので、ちょっとだけ距離を置くくらいが丁度いい。そういう感じが、アロンからふんわり漂ってくる。


 マグディエルのもの言いたげな視線に気づいたのか、アロンが苦笑して続けた。


「実のところ、私たち兄弟は、あのエジプト脱出でほとほと疲れ果ててしまいまして。もう追われることも、住む場所を探す必要もなくなったものですから、とにかく静かに過ごしたいと思って、ここに隠居しているのです。とくにモーセは、あまりイスラエル人と顔を会わせたくないんですよ。だから、このひっそりとした場所に幕屋を建てたのです」

「なんで会いたくないの? みんな一緒に苦労したエジプト脱出組じゃん」


 ナダブがすかさず聞く。


「あの脱出は……、道中いろいろありましたから……。モーセもイスラエル人を嫌っているわけではないんですよ。愛していますが……、見るとイライラするそうで」


 まさに、マグディエルが感じていた感覚そのものの答えだった。

 アズバとナダブの口から同時に、「あー」という声が出た。


 聖書には繰り返しあやまちを犯すイスラエル人に、モーセがキレ散らかしているところが散々くわしく記されていた。神様からもらった大切な石板まで破壊するほどのキレっぷりだったことを考えると……、もうこれ以上イライラしたくないと思うのも納得できる。


「そういうわけで、私たちはこの幕屋に住み始めてからというもの、あまり外の様子を知らないんです。用事で出向く場所も、この先の森にある、御使みつかい様がやっておられる『地上ショップ』くらいのものです」


 地上ショップ?


 マグディエルたちが住むあたりにも、たまに座天使スローンズが行商のように地上のものを持ってきたりしていた。それの商店版ということだろうか。


 その時、幕屋のとなりに広がる森の方から、かすかに音が聞こえた。


「帰ってきたようですね」


 アロンがそう言って立ち上がる。


 森から聞こえてきたのは、ロバが荷車を引く音だった。荷台には幼い少女と、年老いた男が乗っている。

 荷車が近くまでくると、アロンが紹介してくれた。


「姉のミリアムと、弟のモーセです」

「似てないね」


 すかさず正直な物言いをするナダブの頬をアズバが打つ。


 まだ幼い少女の姿をしたミリアムが愉快そうに笑って「うち、家庭環境複雑だからね」と言った。


 家庭環境よりも、見た目年齢のせいでは、と思ったがマグディエルは黙っておいた。余計なことを言うと、アズバにぶたれるかもしれない。



      *



 ミリアムとモーセが買ってきたヨシダソースをつけた肉と、パンと、ワインがふるまわれた。

 アロンが話したのと変わらず、ミリアムとモーセも、湖を渡る方法について知らなかった。


「この湖けっこうむこうまで距離ありそうだもんね。飛べないとなると、まあまあしっかりした船が要りそうだけど……。そんな船が湖上にいるの見たことないなあ」


 ミリアムは幼い見た目にふさわしく、かなり砕けた話し方をする。

 見た目年齢には、性格的な要素も反映されるんだろうか。


 ミリアムがモーセに「船見たことある?」と話を向けると、モーセは「ない」とだけ返した。モーセはどうやら、かなり無口なタイプのようだった。誰かに話を向けられるまで、自ら話そうとはしないうえ、返事もそっけなく短いものばかりだ。年老いた見た目と相まって、頑固そうに見える。


「あ! いい方法思いついた!」


 ミリアムが、ほっぺにヨシダソースをつけたまま、楽しそうに言う。


「モーセが割ればいいよ!」


 ミリアムの『船がなければ、海を割ればいい』という、エジプト脱出世代しか思いつかなさそうな大胆な提案に、思わず期待の眼差しでモーセを見る。


 モーセは答えない。


「ねえ、モーセ割ってあげなよ。困ってるみたいだし」


 モーセの眉がぎゅ、と真ん中に寄った。


「ことわる」


 まあ、そうでしょう。


 湖が割れる壮大な姿を見られないことは、ちょっとばかり残念に思ったが、それだけだ。奇跡の力をおいそれと簡単に使ったりはできないだろう。なんとか他の方法を探すしかない。


 マグディエルは早々に、違う方法を見つけださねばと考えていたが、ミリアムが食い下がった。


「ケチケチせずに助けてあげなよ。割れるんだから。困ってる人は助けないと。でしょ?」

「いやなものはいやだ」

「この人でなし! 神様に言われなきゃ人助けもできないの!」

「そうだ! 神に言われたんでなきゃ、するもんか!」

「そんな考えじゃ天国から追い出されるわよ! 正しい行いをしなさい!」

「必要なら神がそう言うだろう!」

「モーセ!」

「うるさい!」


 モーセは勢いよく立ち上がって、年老いた見た目とは裏腹にしっかりとした足取りで、幕屋の中に入ってしまった。

 あっけにとられていると、うしろからすすり泣く声が聞こえた。


「ミリアム、あの、気にしないで……え?」


 マグディエルはミリアムが泣いているのかと思ってなぐさめようと振り向いたが、泣いていたのは、アロンだった。


 動揺しすぎて、おろおろしているとミリアムがアロンの目元を袖でぐいとぬぐった。


「なんで、あんたが泣くのよアロン。まったくもう」


 どんどん泣きがエスカレートするアロンの口から、とぎれとぎれに聞こえる言葉を要約すると「モーセが天国から追放されてしまったらどうしよう」ということを心配しているようだった。


 アロンの口から「あんなに頑張った子なのに」とか、「神様どうぞお救いください」とか、「追放するなら私を追放して」などの言葉がなげきにまじって聞こえる。もうしばらくは泣き止めなさそう、くらいにしゃくり上げるアロンのえりをミリアムがつかんだ。


「とりあえず、あんたはいったん寝て落ち着きなさい」


 背の低いミリアムに襟をつかまれたまま、変にねじれた姿勢でアロンは幕屋に連れていかれた。


 しばらくすると、ミリアムが一人で外に出てきた。


「なんかごめんね」


 ミリアムの謝罪に、マグディエルたちは一斉に口をひらいた。謝罪となぐさめの言葉が重なって、誰が何を言ったか聞き取れなかった。


 ミリアムは、ふふ、と嬉しそうに笑い、そのあと何故かぞっとするような笑顔をした。


「モーセが天国から追放されないように、湖を割らせてみせるわ」


 どうやって、とはなんとなく怖くて聞けなかった。


「さあ、そうと決まれば行くわよ!」

「どこに?」


 ナダブが聞く。


「『地上ショップ』よ!」


 マグディエルは、はりきるミリアムのほっぺについたヨシダソースをぬぐう。



 また……、なんだか不安になってきたな。


☆聖書豆知識☆


【アロン】

モーセの兄。

モーセが神に「喋るの苦手だから、民を率いるのでは無理です」と言ったら、「話すのが得意なアロンがいるじゃないか」と神に名指しされて、民の前に立たされた人。


【モーセ】

奴隷としてエジプトにいたイスラエル人を率いて、約束の地カナンへと導いた人。

海を割ってエジプトから脱出した話が有名。

わりとすぐにキレる。


【ミリアム】

モーセとアロンの姉。

エジプト脱出時に、海にのまれたエジプトの軍勢を見たあと、

タンバリンを打ち鳴らしながら歌い踊った女予言者。


【イスラエル人】

旧約聖書で、神が導いた民。

すぐ文句を言う。

すぐ禁止されていることをする。

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これ・・・時事的に大丈夫なのか?w? 大丈夫なのかなぁw
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