第23話 エレデと、優しい夜
ミカエルはマグディエルを抱えると、羽をひとふりした。
途端に、周りの景色が溶けたように流れる。一瞬のちには空高くにいた。ミカエルはすごい速さで上昇した。何層もの雲を突きぬける。もうそれ以上雲がないところまで上がると、今度は雲の水平線の先に見える、月をめざして飛ぶ。
マグディエルの羽では到底飛ぶことのできない景色だった。
眼下にひろがる景色は、雲の粒子が月の光に照らされて、美しい海のようだ。
しばらく飛ぶと、ひとかたまりの雲が、ぽつんと、他の雲よりも高い場所にあった。
その上に降りると、真ん中に泉があった。
夜空の星をふくんだような、美しい泉だった。
泉の真ん中に、巨大な目玉がつっぷして、白目だけが見えている。
エレデの身体は、半分ほど泉につかっていた。
いつも目玉のまわりに、くるくるとまわっている金の輪っかは、すべて泉の中に沈んでしまって、ただ、白い巨大な真珠が半分だけ見えているようだった。
もしや、寝ているのだろうか。
「エレデ、エレデ」
ミカエルが何度か呼びかけると、寝返りをうつように、ぐるりと、目玉がまわり、泉の中から、エレデの大きな瞳があらわれた。彼がゆっくりと、泉から上がると、沈んでいた金の輪も浮かび上がり、まわりはじめる。泉の水が、エレデの眼と金の輪からすべりおちて、きらきらと輝いた。
エレデが、目を覚ますためにか、何度か瞳孔をぎゅぎゅっとしてから言った。
「やあ、ミカエル、マグディエル。こんばんは」
マグディエルとミカエルは「こんばんは」と返した。
「ミカエル、こんな時間にまた悪さをしていないだろうね」
エレデが笑いを含んだ声で言った。
「今日はしてない」
ミカエルが答える。
「いや、さっきしていました」
すかさずマグディエルが言った。
エレデが不思議な響きのする声で笑った。
「ふたりとも、来てくれてうれしいよ。なにか、聞きたいことがあるのかい?」
ミカエルが、マグディエルの笛の件について簡単に説明する。
エレデは「なるほど」と言って、じっとマグディエルを見た。
「笛を吹いてみてくれるかい?」
エレデにそう言われたが、マグディエルは笛を持っていなかった。
ミカエルが右のてのひらを上に向けると、どこからともなく小さな銀製の縦笛があらわれる。マグディエルは、その銀色の笛を受け取って、口をつけた。
少しずつ、力を強めて吹く。
ふこー
ふこーっ
フコーッ
ミカエルとエレデの瞳が、笛とマグディエルに注がれている。
マグディエルは、思いっきり息を吸い込んで、渾身の力で、吹いた。
月夜に、銃声のような破裂音がひびく。
エレデが驚いたのか、瞳孔をびゃっと開いた。
ミカエルが「うるさ」と言って、顔をしかめる。
エレデの瞳孔が開いたまま、金の輪っかの動きも止まってしまう。
「エレデ?」
マグディエルが声をかけても、そのままだった。
よく見ると、エレデの瞳はわずかに震えるように動いている。銀の笛が粉みじんになったものがエレデの眼の先で、月の光に揺れていた。銀の粉がすべて落ちたころ、エレデが「なるほど、なるほど」と言って、動いた。
巨大な目を天にむけて、すこし考え「なるほど、なるほど、なるほど」と言う。
「わかったよ」
エレデの眼が、マグディエルを見た。
「マグディエル、君はもしかして、いままで一度も、笛をふこうと思ったことがないんじゃないかな? 今回は君から望んだわけではなく、ただ笛を吹く機会があったということではないだろうか?」
「え、ええ、そうです」
マグディエルは恥じ入って答えた。
吹けない理由は、やはり練習不足なのだろうか。
「それなら良かった」
「え?」
エレデの言葉に、マグディエルは戸惑う。
良かった?
「そうであれば、きみにかかっているロックは正常に動作しているということだ」
「ロック?」
エレデの瞳がうなずいた。
「きみは、第一のラッパ吹きだね?」
「はい」
「すべて、さいしょというのは、爆発的な力が必要なものだ。何事にもね。何かをはじめようとするときには、いろんな労力や勇気や努力が必要なように、さいしょが最もむずかしく、もっとも力がいる」
マグディエルは、ラッパを手に取って、第一番と刻まれている刻印を見た。
エレデがマグディエルの手にあるラッパを見て言った。
「あの子の、祝福があるね」
あの子……、ルシファーのことだろうか。
「とても綺麗な祝福だ」
マグディエルのほうを見たエレデの眼が、微笑んだような気がした。
優しい声だった。
「マグディエル、きみは第一のラッパ吹きだ。その力はとても強い力なんだよ。強力で、危険を伴う力だ。なんといっても、終わりを始める音だからね。だから、来たる時まで、その力が行使されないように規制されているのだろう。きみが吹きならす音が、天にも地にも、影響を与えないように。ラッパであれ、笛であれ、音が鳴るものは吹けないようになっているし、そもそも吹こうという気も起きないようにされているんだ。笛が粉々になるのは、君の力の影響だろうね」
マグディエルの肩から、力が抜ける。
笛が吹けないことは、怠惰や無能が理由ではなかった。
だが、マグディエルは安心したのもつかのま、腹の底が冷えるような気持になった。
思い出した。
「わたしは……」
マグディエルの声が震える。
御座を目指そうと思ったあの日、あの手紙をもらった日、一番初めに望んだことは何だったか。
『退屈だな。ラッパ、吹いてみたいな』
そうだ。
そう思った。
「わたしは、ラッパを吹きたいと思ったんです」
来たる時まで、決して、吹きたいと思ってはいけないはずのラッパを吹きたいと望んだ。
ラッパを持つ手が震えた。
「そして、理由はわからないけれど……、御座を目指してラッパ吹きの丘を出ました」
言いながら、マグディエルはユダの言葉を思い出した。
『なぜ、まっさきに『御座を見たこともなければ』という言葉があらわれたのでしょう?』
『その言葉をあなたに与えたのはだれです?』
マグディエルを、つよい恐怖がおそった。
エレデとミカエルが、互いを見た。
ミカエルの顔が、厳しくなる。
「第一のラッパが吹きならされるのは、御座の前だ。——時が近いと?」
ミカエルの言葉に、エレデが、すこし考えたように間をおいて言った。
「そうとは言い切れないだろう」
エレデの眼が、マグディエルの方に向く。
「いまだ、ヨハネの黙示録の予言は実体を伴ってはいない。マグディエル、おそれることはないよ。おいで」
そう言うと、エレデの金の輪から、無数の白い手がのびた。
泉のふちまで行くと、エレデの白い手がいくつか、マグディエルの頬にふれた。
男の手でもなく、女の手でもない、優しいひかりのような手だった。
「さあ、しばらく、きみのおそれは、わたしが引き受けてあげよう」
エレデの手が暖かくなったと思ったら、マグディエルの心から、おそれる気持ちが、ほどけるように消えてしまった。ラッパを握り締める手の震えも去った。
「ああ、きみはやさしいね、マグディエル。地上に向かってほろびの音を吹きたくはないんだね。いい子だ」
エレデのあたたかな手が、マグディエルの頭や頬をなでた。
なんて、やさしい心地なんだろう。
足りないものが、満たされるような心地がした。
ミカエルがとなりにやってきて、エレデの手に、甘えるように自分の頬を押し付けた。
「ミカエルも、いい子だね」
エレデが、やさしく微笑むような声で言った。
しばらくすると、エレデの白い手は光が溶けるようにして、消えた。
エレデの、大きな瞳がまっすぐにマグディエルを見る。
「マグディエル、進みなさい。求めれば、与えられる。まだ今は、きみが望んだことが何を起こすのかは分からないが、きみの望む通りに進むんだよ。おそれる必要はない。ただ、心のままにゆくんだ。もし、迷った時は、うちなる声、うちなる言葉に従いなさい。ようく耳をすませるんだ。かならず、きみを助けてくれるから」
マグディエルは頷いた。
エレデが引き受けてくれたからか、マグディエルの心に、おそれや迷いはなかった。
ふと、ラッパを持っていない右の手に、なにか握り締めていることに気づく。
手を開くと、ふたつの異なる輝きをもつ石があった。
「それをきみに。ウリムとトンミムだよ」
エレデが言った。
はじめて見た。
みちびきの石だ。
「これから、きみのやくに立つかもしれないからね」
エレデの声は、どこまでも優しい。
「ありがとう、エレデ」
エレデが眼をこくりと動かした。
「さあ、ふたりとも、きょうはゆっくりとお眠り。おそれが忍び寄らないよう、わたしがここから見張っていてあげる」
ミカエルとマグディエルはエレデに「おやすみなさい」と言って、戻った。
部屋に戻ると、部屋を出る前とはうってかわって、口数少なになったミカエルは、さっさとベッドに入った。マグディエルにしつこく添い寝をしろと言ったりしなかった。
マグディエルは、自ら、ミカエルの隣に行って、彼を抱きしめた。
手と翼をつかって、守るようにして温める。優しさを返したかった。ミカエルが連れて行ってくれて、エレデが与えてくれた、このあたたかでおだやかな心を、自分以外に与えたかった。
ミカエルが、マグディエルに腕をまわして、ぎゅっとひっついた。
大天使にも、おそれや、寂しさはあるのだろうか。
ぴったりくっつくと、おたがいの足りないものをおぎなえるような心地よさがある。これが、ミカエルが気持ちいいと言っていたものなのかもしれない。
マグディエルは、大天使の羽をなでた。
どうか、安らぎだけが、おとずれますように。
マグディエルは、心地よい暖かさの中で眠りについた。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【ヨハネの黙示録】
イエスの弟子ヨハネが書いたと言われる予言の書。
終末世界について書かれている。
【ウリムとトンミム】
「光と完全」という意味。
大祭司であったモーセの兄、アロンが神の前ではかならず胸に入れていたという謎の石。
モルモン教では、地球がきよめられて不滅の状態になると、一つの雄大なウリムとトンミムになる、と言われている。




