第21話 危険な大天使
「ルシファー、はなして……」
マグディエルは消え入るような声で言った。
「ひどい」
ルシファーはそう言って、マグディエルの腰にまわした腕に力を入れて、よけいにくっついた。
どっちが、ひどいんだ。
マグディエルは、笑顔のルシファーを絶望的な心地で見た。
そのとき、落ち着いた声が、ひびいた。
「ルシファー」
ルシファーがちらりと、声のする方を見る。
マグディエルも見た。
金の甲冑を着込んだ、身体の大きな天軍のなかに、ひとりだけ、甲冑を身につけていない天使がいた。六枚のかがやく羽を持ち、美しい顔にはすこし気だるげな雰囲気が漂っている。たっぷりとした布の服は、くつろぐのにちょうど良さそうで、甲冑姿の天使たちとは、正反対の様子だった。ルシファーの名を呼んだのは、その天使だった。
ルシファーが、リラックスした声で答える。
「やあ、久しぶりだなミカエル」
「その子を返してもらおう」
ルシファーがミカエルの言葉を無視して、マグディエルに話しかける。
「マグディエル、わたしたちは友だちとして仲良くしているだけだ、そうだろう?」
「え……、そ、それは、そうです……」
「わたしはきみを傷つけたりしていない」
「はい……」
「惑わしてもいない」
「でも、からかいましたね」
マグディエルは思わず言い返した。
ルシファーが、おや、と嬉しそうに笑う。
「なんだ、怒っているのか。ちょっと大げさにしただけだ」
「ルシファー」
ミカエルの落ち着いた声が割って入った。
「うるさいぞミカエル、邪魔するな」
ルシファーが舌打ちしながら答えた。
ミカエルがため息をついて、しずかな声で言う。
「主があなたを戒めてくださるように」
「やめろ、それ」
ルシファーが天を仰ぐようにして、嫌そうな顔をした。
彼はマグディエルを横抱きにし、ミカエルのもとまで飛んだ。
天軍の剣の切っ先が一斉にルシファーに向く。
ルシファーが羽をかるく振ると、甲冑を纏った天軍は、後ろにふきとばされたようになって消えた。
「おい、やめろよ」
ミカエルが急にくだけた調子で言った。
「ちょっと吹き飛ばしただけだ。いまごろ天国で尻もちついてるよ」
ルシファーも軽い調子で言う。
「まったく」
ミカエルが、やれやれというように首をふった。
ルシファーがミカエルにマグディエルの身体をあずける。
マグディエルはされるがまま、今度はミカエルの腕の中におさまった。
「わたしのだ。手を出すなよ」
ルシファーの言葉を、ミカエルは聞こえなかったみたいに無視した。
ルシファーは、マグディエルに顔を近づけて言った。
「この部屋は、いつでも自由につかうといい。マグディエル、つらくなったら私の名をよぶんだ。あと、身の危険を感じた時も。いいね」
ルシファーはそう言うと、ミカエルに視線を戻して「手を出すなよ」と言った。
「はやく行け」
ミカエルが面倒くさそうに言った。
ルシファーはふんとひとつ鼻をならして、消えた。
マグディエルは、おそるおそる下からミカエルの顔を見た。
ミカエルは、マグディエルを見もせずに、翼をひとふりした。すごい速さだった。一瞬でダビデの城まで戻ってきた。ちょうど音楽堂のそばの庭園のようだ。まわりには、さきほどルシファーに吹き飛ばされた、甲冑の天軍がいた。
ミカエルがしずかだが、きびしい声で言った。
「サタンの羽のひとふりにも耐えられないとは。明日から直接稽古をつけてやるから、覚悟しておけ」
あんなに大きく見えた甲冑姿の天軍が、ミカエルの言葉に小さくなって怯えていた。
そんなに、きびしい訓練なんだろうか。
マグディエルは、ミカエルの腕の中で、縮こまった。
こわい。
ミカエルはマグディエルを抱えたまま、ナダブとマトレドが用意していた宿舎の方へと向かった。マグディエルは「あの、わたし、歩けます」と言うか言うまいか悩んだ。ケガもしていないのに、こんなに高位の天使にわざわざ運ばれるのは恐れ多い。でも声をかけるのもなんだか恐ろしい。ルシファーとは軽い調子で話していたが、さっきの甲冑の天軍に対する感じだと……。
わたしも、怒られるんだろうか。
何も言われないのが余計におそろしい。
「ミカエル様!」
すこし先の方から、走って来る姿があった。
マトレドと、アズバと、ナダブだった。
アズバとナダブが、ひどく心配そうな顔をしている。
マトレドはマグディエルの女の姿を見るのははじめてで、一瞬だれか分からないようだった。彼女はミカエルの近くに来ると礼をした。
アズバとナダブは、ミカエルを見て跪く。
「立ちなさい」
ミカエルがしずかな声で言った。
アズバとナダブが立ち上がる。
「ケガはない、安心しなさい。だが、しばらくこの子は借りるよ」
ミカエルはそう言って、さっさと歩き始めた。
マグディエルはミカエルの腕から顔をだして、後方に離れていくアズバとナダブを見た。
ふたりに念を送る。
助けて! こわい!
だが、アズバとナダブはほっとしたような顔をして、自分たちの宿舎に戻っていくようだった。
*
ミカエルの部屋は宿舎の一番奥にあった。
結局部屋につくまで、ミカエルに抱えられたまま、一言も喋らないままだった。
部屋に着くと、風呂の前でおろされる。
ミカエルが服を脱ぎ始めた。
ぎょっとしている間に、ミカエルはすべて服をぬぎすてて、おもむろにマグディエルの服に手をかけた。なぜ、と思う間に、ぜんぶひんむかれて、湯船につっこまれる。
目の前で湯につかったミカエルが言った。
「ルシファーくさい」
え……。
なんだか、本人ではないけれどショックだった。
花の香りがする湯を頭から思いっきりかけられる。
羽も全部湯船に沈められ、雑なあつかいに固まっていると、あっという間に、身体をふかれ、服を着せられ、羽と髪をかわかされて、ふたりでベッドに腰掛けていた。
一体なにが起きて……?
混乱している間に、ワインの入った杯をわたされる。
「あ、ありがとうございます」
喉がかわいていたので、すぐ口をつけた。
ミカエルもワインを飲んだ。片方の膝を立てて、そこに腕をひっかけるようにして、だるそうに飲む。
「ルシファーと良い仲なのか?」
ワインがへんなところに入って、マグディエルはせき込んだ。
良い仲とは⁉
「なんだ、まだ抱かれてないのか?」
マグディエルは完全に固まった。
美しい大天使から出てくるとは想像しがたい言葉の数々に、完全に思考停止した。
ミカエルが、笑った。
笑うと、すこしルシファーに似ているような気がする。
「なるほど、それで、あんなにうるさく言ってたのか、あいつ」
くだけた雰囲気に、マグディエルはようやっと口をひらいた。
「ルシファーと、会っていたことを怒らないのですか?」
「きみから、ルシファーの誘惑の痕跡が見えないからだ。それに、そのラッパ」
ラッパ?
「ルシファーの羽の祝福を受けてるな」
「一度割れたのを、ルシファーが羽をつかって治してくれたのです」
「それは、貴重な力だ。きみが思うよりずっと」
マグディエルはラッパをなでた。割れていただろう部分はつるりとしている。
「悪魔の誘惑の痕跡は見えず、天使の祝福の痕跡だけ見えて、いちゃついてるだけなら、怒る理由にはならない」
「誤解です」
「いいよ、障害があるほど燃えるものだろうし」
「誤解です」
「あ、でも一応、おおっぴらにいちゃつくなよ。個々の関係性がどうあれ、悪魔が危険なものだという認識は、天使を守るためにも必要なものだ。痕跡やらなにやらは、ほとんどの天使には分からないだろうからな。きみが悪魔に与して、堕落したと思われるのは嫌だろう? 今日だって、マトレドが血相を変えて移動中の部隊につっこんできて、大騒ぎだったしな」
「マトレドが?」
「きみの友だちが、きみをさがしに地上に降りて、ルシファーに連れていかれるところを見たらしい。さすがにルシファーが相手だと、部下だけを行かせるわけにもいかないし……。というわけで、今日のメンツが、きみがいちゃついてるところに突入したというわけだ」
「誤解です」
マグディエルは、はっきりと、大きな声で言った。
「おかげで、一日早くここに到着させられて、仕事もして、疲れたよ」
人の話を聞かないタイプだな、この大天使。
そのとき、部屋の扉をたたく音が聞こえた。
ミカエルが足をおろして、背筋をのばす。
彼が「入れ」というと、マトレドが入ってきた。
マトレドがミカエルの前に来て、礼をする。
「残りの部隊はあすの昼前には到着できるとのことです」
「そうか」
「明日すぐに、偵察開始でしょうか?」
「そうだな、ひさしぶりの大きな町だ。三日ほど休みにしよう。今日ついてきた先発隊にも、直接の稽古は休み明けにすると伝えてくれ」
「かしこまりました」
マトレドは礼をして「失礼します」と言い、きびきびとした態度で出ていった。
扉がぱたんと閉まると、ミカエルはまたあのだるそうな格好にもどった。
「二面性があるって、言われませんか?」
「ばらすなよ、仕事のできる『ミカエル様』で通ってるんだから」
「あの、ミカエル……様は——」
「部下じゃないんだから……、ミカエルでいい」
「ミカエルは、ルシファーと仲が良いのですか?」
「それは明日話してやる」
ミカエルはそう言うと、マグディエルが持っている杯を取って、自分のものと一緒にサイドテーブルに置いた。
「仕事もしたし、よく飛んだし、今日はもう寝る」
マグディエルは、それなら自分の部屋に戻ろうと、立ち上がった。
ミカエルが上に着ていたものを脱いだ。
「では、失礼しま——」
マグディエルが言いかけると、また、おもむろにミカエルがマグディエルの服に手をかけて、あっという間に上の服を取っ払う。気づいたら、ベッドの中に引っ張り込まれて、ミカエルが至近距離にいた。
あまりの早業に言葉を失う。
「名前、マグダラだっけ?」
ミカエルはなんてことない表情で言う。
「マグディエルです」
マグディエルはぽかーんとしたまま答えた。
「あ、そうそう、マグディエルだった。手を出すなと言われると気になるものだろ。それに、ルシファーとのこと黙っててほしいなら抵抗するなよ」
ミカエルが天気の話でもしてるくらいの雰囲気でにっこりと、悪魔みたいな言葉を口にした。
マグディエルの脳内にルシファーの言葉がよみがえった。
『つらくなったら私の名をよぶんだ。あと、身の危険を感じた時も』
身の危険?
天国で?
大天使といるのに?
邪さのかけらもなさそうな、美しい顔でにっこりと微笑むミカエルの顔が、まつげのひとつひとつまで数えられそうなほど、近くにあった。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【主があなたを戒めてくださるように】
サタンとミカエルが議論した時に、ミカエルが落ち着きはらって言う台詞。
【マグダラ】
ガリラヤの都市の一つで、マグダラのマリアの出身地とみられている。




