第2話 マグディエル、墜ちる
「御座ってさ、どこにあるか知ってる?」
マグディエルはアズバが入れてくれた紅茶を飲みながら、聞いてみた。今日はジンジャーティーだ。
「知らない」
アズバの返事はそっけない。
「天国の地図って、私は見たことないんだけど、あったりするのかな?」
「知らない」
「そもそも、私たち天国のどのあたりに住んでるんだろうね」
「知らない」
「ねえ……アズバ、もしかしてだけど……、なんか怒ってる?」
アズバはジンジャーティーを飲みながら「別にぃ」と言った。
これは……、間違いなく怒っている。
どうしよう。
理由もわからずに、とりあえず謝ったりしたら、余計にボコボコにされそうで怖い。
マグディエルは、ジンジャーティーを置いて、姿勢を正した。
どうする。
怒っているとしたら、何に怒っているんだ。
最近あったことと言ったら、とんでもなく良い匂いの天使が来て、祝福のキスと手紙を与えてくれた事件だけど……。その時に、なにか怒らせるようなことをしでかしただろうか。ずっと情けないすがたを彼女に披露しすぎていて、もはや、どこの部分で怒られているのか、見当もつかない。
しばらく考えてみたが、正解は見つかりそうになかった。
こうなったら、聞くしかない。
マグディエルはアズバが座っている椅子の前までいって、跪いた。彼女の膝のあたりに、両手をのせて祈るように指を組む。こうすると、ちょっと西洋絵画的な、赦しをこう天使みたいになる。
「アズバ、私の大切な友よ。私のどんな至らぬところが、君のことを傷つけてしまったんだろうか。どうか、私にあやまるチャンスを……、ください……」
最後にぎゅっと目を閉じて、審判の時を待つ。ふりをして、薄眼をあけて様子をうかがう。
アズバがジンジャーティーを置いて、ちいさくため息をついた。
彼女はマグディエルに向き直って、彼の手の上に、その手をかさねて置いた。
「ほんとうに、怒ってないわ。ただ……」
「ただ?」
アズバは、すこし唇をとがらせて拗ねたような表情をした。
「ただ、あんな大天使がやってきて手紙がもらえるあなたが羨ましかったのよ」
アズバは「しかも、あなたは手紙をもらってもまだ、神のことを疑っていそうだしね」と続けた。
「あれ、大天使だったの?」
マグディエルの問いに、アズバはびっくりするほど大きなため息をついた。
「どう考えても、あれはガブリエルでしょ」
どうしよう……、全然わからなかったけど。
なんで、アズバは分かったんだろう。
マグディエルの考えてることが分かったのか、アズバは「あんなに綺麗な六枚羽に、びっくりするほど良い匂い、圧倒的に美しくて、跪いてなでなでされたくなるあの感じ! 間違いなく高位の天使だわ。しかも手紙を届けに来た。神のメッセージを伝える者よ!」と一息でまくしたてた。最後の一押しとばかりに大きい声で続ける。
「ガブリエルで間違いないでしょ!」
「そ……、そうなんだ」
「そうよ!」
アズバは、あの手紙が神からのものだと確信しているようだが、マグディエルは、いまだにあの手紙が神からのものだとは確信できないでいる。
差出人の名前がなかったし。
ガブリエルらしい天使も、誰からの手紙とは言わなかった。
マグディエルが「うーん」と悩んでいると、両頬をつねって持ち上げられる。目の前にアズバの顔が近づく。翠の瞳がきれいだ。それに、大天使ほどではないにしろ、アズバからも天使特有の良い香りがする。
「まさか、手紙のことも、神からのものかどうか、疑っているんじゃないでしょうね」
アズバの眼がこわい。
「あ、ちょっとだけ」
マグディエルがそう言うと、アズバは脱力して手をはなした。
「もういいわ、あなたって、そうだった。それで、御座をさがしにいくの?」
結局、アズバもまったく御座について知らなかった。
誰かに聞こうにも、私たちが住んでいるあたりには、ラッパ吹きの天使以外は住んでいない。
「ナダブに聞いてみたらどうかしら。あの子、いっつもフラフラそこいらじゅう徘徊してまわっているじゃない」
ふたりはジンジャーティーを飲み干して、ナダブのもとへ行くことにした。
*
「御座ぁ? あっちじゃない?」
ナダブは、そう言って山が見える方を指さした。
私たちラッパ吹きが住むあたりは、なだらかな丘が続き、ところどころに小さな森がある。そのはるかかなたに大きな山が見えていた。
「あの、いっちばん高い山がシオン山なんじゃない?」
なんだか適当に言ってそうな感じはあるが、たしかに目指せそうなのは、あの山くらいかもしれない。山があるのと反対側は、似たような丘がずっと続いているし。御座の前に広がるというガラスの海は、ここからは見えない。
「一番高い山がシオン山とは限らないし、シオン山が御座の近くにあるとも限らなくない?」アズバから冷静な意見がでる。
「でもさぁ、黙示録に『シオン山にあつまった人間たちが御座の前で歌う』ってあるじゃん。シオン山が御座の近くにある方が便利でよくない?」
ナダブは「それにそれにぃ」と続けた。
「神様って高いとこ好きじゃん。地上から贖われた人間たちを置くっていうシオン山も、高くしてそうじゃない?」
神が高いところを好むっていうのは、はじめて聞いた。
「なんで、神が高いところを好きだと思うんだ?」
マグディエルが聞くと、ナダブは「まぁ、好きっていうかさぁ、ずっと高いところにいそうでしょ? どこかは知らないけど。神がおられるのは『いと高きところ』で、それは今我々がいるこの天国よりも上をさしていそうな気がしない? なんとなくだけど」と言う。
なんという適当な意見。と思ったが、もし神がいるなら、なんとなく我々がいる天国よりも上にいそう、という感覚はマグディエルにもあった。
私たち天使には、地上にあるような『色々教えてくれる学校』とか、『便利なグーグル検索』とかはない。でも、天使はある程度のことは、なんとなく生まれながらに知っている。だから本来、不安になったりすることもない。
例外的にマグディエルは、この不安というものに捕らえられているけれども。
本来持っている天使としての知識は、明確な知識というよりも『感覚』に近い。だから、ナダブの「なんとなくそう感じる」とか、マグディエルの「確かになんとなくそうかも」という感覚は、天使の知識に通じている可能性がある。
「贖われた民って、神様が自分に似せて作った人間のなかでも、よりお気に入りの群れだろ。神様もお気に入りのことは、自分の近くに置くかも。それに、あれがシオン山でなくても、高い山にのぼれば、それだけ周りも見渡せるし」
シオン山かどうかはさておき、高いところから天国を見渡すというのは良いアイデアに思えた。
「俺たちの翼では、のぼる高さに限界があるしぃ」
マグディエルが考えていたことを、ナダブがそっくりそのまま口にした。
天使のはばたきは万能ではない。より強い天使なら高く飛べるかもしれないが、マグディエルたちはさほど高くは飛べなかった。
結局、ほかに目指せる場所もなく、山を目指すことになった。
ナダブも「暇だからついていく」といって、後ろに続いた。
*
山を目指してなだらかな丘を通りすぎていく。
ところどころ、まばらに家があったりするが、地上のように都会的な場所や、家が密集しているところはない。飛び続けるうちに、川が多くなってきたし、なんだか川幅も大きくなっている。山は、あいかわらず遠くの方にいて、いっこうに近づいたような気がしない。
大きな森にさしかかって、そのこんもりした緑のかたまりをぬけた瞬間、まだ遠いが、先の方に海が見えた。もしかしたら、大きな湖かもしれないが、左右に大きく広がる水面のはしは見えなかった。山は、その海のはるか向こうにある。
水面がきらきらと輝いて綺麗だ。
こころなしか、水気を含んだ風が、海から吹いているような気がした。
マグディエルの住んでいるあたりからは、高低差のある丘に隠されて見えていなかったから、はじめての海のある風景にちょっとワクワクする。
はりきって海に向けて、飛ぶ。
もうちょっと。
もうちょっとなのに。
なんだか、ちょっと飛ぶの、疲れてきたかもしれない。
翼の動きがぎこちなくなった。また、ナダブにおじさん扱いされるのが嫌で、必死で翼を動かす。だが、意識するほど、翼は動かしにくくなった。
一瞬、マグディエルの頭に、飛べなくなった自分の姿が思い浮かぶ。
うわぁ、だめだめ。
飛ぶこともできなくなったら、なんて考えるともう……。いつもの嫌な動悸がおそってきて、手にじわっと汗がうかぶ。メンタルクリニックの先生に言われたことを思い出す。そう、とりあえず不安に思うこととまったく違うことを思い浮かべてやり過ごそう。
……。
ぼちゃん、と水面に落下する自分が浮かんだ。
だめだっ。
ようやく近づいた海の上に差し掛かった瞬間、マグディエルはつまずいた。
がくん、と空中でつんのめる。
え?
マグディエルは翼がなにかにひっかかったように動かせず、まっさかさまに堕ちた。
水にぶつかるすごい音がして、次の瞬間には水中で耳をふさがれたみたいになった。
水面に打ちつけた顔が痛い。
水にとらえられた翼は、動かすことすら難しい。
手足をばたつかせて、必死にもがく。
苦しい。
うっすらと開けた視線のさきに、ゆらゆらと揺らめいて光る水面が見えた。
手をのばす。
こんな目に合うくらいなら、御座なんか探さずに、メンタルクリニックに行けばよかった!
わたし、死んじゃうんだろうか。
マグディエルの意識が遠のいていく……。
☆聖書豆知識☆
【ガブリエル】
名前の意味は「神の人」。神のことばを伝える天使と言われている。
【シオン山】
ヨハネの黙示録においては、地上から贖われた十四万四千人が立つ特別な場所とされている。