第19話 メンタル、メルトダウン
音楽堂に、銃声のような破裂音が響いた。
マグディエルの手の中から、木製の笛が霧散する。
これで、通算百本目だった。
つらい。
ダビデが用意してくれた、百本の笛をすべて——、壊してしまった。
はじめの一本を爆発させてから、そろそろ一月が過ぎようとしている。
マトレドによると、ミカエル率いる天軍の軍勢はもう明日には到着するという。
*
マグディエルが笛を爆発させた日、みなで頭をつきあわせて話し合った。
「一体、なんだって、笛が爆発したりするんだよ」
ナダブが言った。
「わからないけど……、エレデがいたら、あの目で調べてくれたかしら」
アズバの言葉にマトレドが反応した。
「エレデ……あの目……? まさか座天使のエレデ様ですか⁉」
「え、ええ、この街に来る前に会って、色々教えてもらったの。有名なの?」
「有名も有名です! エレデ様といえば、座天使界のカリスマ! 座天使たちがしている活動の発案はほとんどがエレデ様だという噂です」
「ええ! そうなの⁉」
ナダブの反応に、マトレドがうなずいた。
「お忙しい方で、なかなかお会いするのは難しいとか」
マトレドが「会えるなんて、羨ましいです」と続けた。
ダビデが、マトレドの言葉に頷いて言う。
「そうですね、エレデがいたら、もしかしたらマグディエルのことも聞けたかもしれませんが……、エレデをつかまえるのは、難しいでしょうね。それに、彼ほど力のある目を持つものは滅多にいるものではありません」
ダビデが「この街の建設もエレデがしてくれたんですよ」とつけたす。
「おい、マグディエル、あんまり落ち込むなよ。よくわかんないけど、湖の上が飛べないみたいに、権限だのなんだのが絡んでるかもしれないだろ」
ナダブが言った。
「そうよ、それに、タイミングが悪かった可能性もあるわ」
アズバも続く。
「肺活量がめちゃくちゃある、という可能性も」
マトレドが真面目な顔で言った。
「笛をたくさん用意しましょう!」
ダビデが言った。
「もしかして別の笛なら吹けるという可能性もあります。マグディエル、たくさん用意しますから、笛が壊れることは心配せずに、どんどん練習してください。ね?」
マグディエルは、いたたまれないやら、ショックやらで、何も返せず、ただこくりと頷いた。
*
百本目の笛をはかなくさせたマグディエルは音楽堂を出て、とぼとぼと歩いていた。
マグディエルのメンタルは今、ギリギリのラインで超低空飛行をつづけている。ちょっとでも風が吹いてバランスを崩せば、地に落ちそうな具合だった。
笛が吹けないということも、マグディエルの気持ちを不安定にさせたが、この一か月、アズバとナダブと過ごす時間が減っていることも、寂しくて、気持ちの下降に歯止めがきかない原因のひとつだった。
減った、と言っても、ラッパ吹きの丘で暮らしていたころに比べれば、ずいぶん一緒にいる時間は長い。
しかし、あの丘を出て以来、お互いに寄り添い合い、なぐさめ合って、ずいぶんひっついていたものだから、それぞれの部屋で過ごし、それぞれ別の友と時間を過ごすようになると、寂しく感じられた。
庭園を歩いていると、先の方にある噴水に、アズバとダビデの姿があった。
噴水のそばに腰掛けて、何やら談笑している。
アズバとダビデは随分仲良くなった。
毎日のように、一緒に催しものに出ては、人気を博している。
それ以外の時間も、話が合うのか、こうやって談笑しているところをよく見る。
ダビデが、何かおかしそうに言う。アズバが笑って、右手をダビデの肩に置いた。アズバが笑いながら何か言う。ふたりが身をくねらせて、腹をかかえて笑った。
マグディエルは、道をそれて、ふたりから視線を外した。
城壁から、街でも眺めて気分転換しよう。
階段をのぼって、城壁に上がると、あたたかな風がマグディエルの髪をゆらした。
マグディエルの足が止まる。
城壁の先のほうに、ナダブとマトレドがいた。
アズバとダビデが仲良くなったように、ナダブとマトレドもとても仲が良い。
最近では一緒に筋トレもしているらしい。ナダブは笛の練習よりも、マトレドと宿舎の準備を手伝う時間の方が多いようだった。
マトレドが街の方を指差して何か言う。ナダブが、なにやら笑顔でうなずく。マトレドが、ナダブの肩に手をおいて、いたずらな顔をして何か言った。ナダブが口をあけて笑う。
マグディエルは、踵をかえして、上がってきた階段を下りた。
宿舎の方へ戻って、人気の少ない裏庭に出る。
ベンチに腰掛けた。
なぜ、つらいと感じてしまうのだろうか。
アズバとナダブが、マグディエルのことをないがしろにしているというわけではない。それどころか、いつもとても気遣ってくれていた。昨日も笛の練習につきあってくれたし、食事だって一緒にしている。励ましやなぐさめの言葉とキスを与えてもくれる。
何を、不満に思うことがあるだろうか。
大切な友に、良き友ができるのはとても良いことだ。
なのに、なぜ、こんなに寂しく思ってしまうのだろう。
「友よ、あなたの歓びは、わたしの歓びです」
マグディエルは口の中で確かめるように、小さくつぶやいた。
だが、心に歓びのともしびは訪れなかった。
友の歓びを歓ぶこともできず、不満に思ったりするなんて、嫌なやつ。
マグディエルは腰巻からスマホを取り出して画面を見つめた。
もしかして、自分が思っているよりも、メンタルが落ち込んで、なにもかも正常に見えていないのかもしれない。
ひさしぶりに、地上に行こう。
夕暮れまでにもどれば、誰も気づかない。わざわざメンタルクリニックに行くと言えば、アズバもナダブも心配するだろう。せっかく談笑しているのに、水を差したくはなかった。
こっそり行って、ちょっとましになって戻ってくればいい。
マグディエルは、ベンチから立ち上がった。
*
マグディエルは、今度はメンタルクリニックの近くの公園のベンチに腰掛けてぼーっとしていた。
久しぶりにメンタルクリニックで話を聞いてもらっても、気分は上向きにならなかった。それどころか、最近あったことを改めて思い出すと、自己嫌悪の底の底までもぐっていくように、気持ちが落ちていった。
ラッパの吹き時も、吹き方もわからず使命を見失って、神さえ疑い、神の存在はまったく感じられず、姿のコントロールができなくなって、笛さえ練習したことがない未熟者の上に、音すら出せないポンコツで……。
マグディエルはがっくりと項垂れた。
すぐに、帰ろうと思っていたのに……。
なんだか、飛ぶのも、歩くのもしんどくて、へたりこむように公園のベンチに腰掛けて、そのまま動けなくなってしまった。
マグディエルの瞳に、じわ、とこみ上げるものがあった。
なぜ、ふつうのことが、わたしにはできないのか。
笛が吹けなくて、どうやってラッパ吹きの使命を果たすのだろう。
そのうえ、仲良くしている友の姿を見て、よろこぶこともできないなんて。
最低だ。
右目から、あふれたものが、ひとつこぼれて、ひざの上に落ちた。
マグディエルは両手をぎゅっと握り締めて、それを両目に押し当てた。
帰らないと。
また、心配をかけてしまう。
ぎゅっと目を抑えて、深呼吸をすると、涙が止まった。
——。
涙はとまったのに、なぜか、どうしても立ち上がれない。
マグディエルはぼーっと、目の前にある景色をながめた。
人間が連れ立って歩いたり、犬の散歩をしたり、ひとりでそぞろ歩いたりしている。
マグディエルは使命を果たしたときの地上を思った。
第一のラッパが吹き鳴らされれば、血の混じったひょうと火がふりそそぎ、地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草はすべて焼き尽くされる。予言にはそうある。
吹けない方が、いいのかもしれない。
そんなことが起きるラッパを地上に向かって吹きたくはなかった。
そこまで考えて、苦しくなった。
神から与えられた使命まで、嫌悪するようになるとは……。
陽が傾きはじめた。
あっという間に、あたりが夕暮れ色に染まる。
あたりの色が、群青色に近づきはじめたとき、マグディエルの肩に、ふわり、とあたたかな布がかけられた。
布から、えもいわれぬ良い香りがする。
もう、何度もかいだので、すぐに分かる。
ルシファーの香りだ。
目の前に、手を差し出される。
「おいで、マグディエル。ここは冷えるから」
マグディエルがルシファーの手のひらの上に、自分の手をのせると、とたんにその手が女の手に変わった。
ルシファーが手を引く。
強い力ではなかったが、自然と立ち上がれた。
引かれるままに歩くと、メンタルクリニックのあるビルにもどってきた。小さくて古いエレベーターにふたりで乗る。ルシファーが最上階のボタンを押した。
最上階に出ると、廊下があり、部屋がいくつか並んでいる。ビルの上はマンションになっているようだった。
ルシファーは廊下を奥まで進み、角にある扉の前で止まった。
「あの鍵は持っているだろうね」
ルシファーが言った。
あの鍵——。
マグディエルは、ガリラヤ温泉でルシファーからもらった銀色の鍵を取り出した。
ルシファーが、鍵穴を指差す。
マグディエルは、鍵をさして、回した。
かちり、と音がして、ドアが開いた。




