第18話 本気で、吹く!
マグディエルは、三回深呼吸をしてから、自分の部屋の扉をあけて外に出た。
大丈夫。
わたしは、大丈夫。
何が大丈夫かは、いったん横へ放り置いて、とりあえず、わたしは、大丈夫。
マグディエルは、大股気味に歩みを進めた。
*
昨日、何度か試したものの、マグディエルの笛から音が鳴ることはなかった。
マグディエルの右肩には『二千年もの間、笛を吹こうともしなかった、怠惰な者』という石がのしかかり、左肩には『ラッパ吹きのくせに、笛の音すら出せない無能な者』という石がのしかかった。
アズバとナダブが、何度かなぐさめようとしてか、口を開いたが、何も言えずに閉じる、ということを繰り返していた。それは、そうだろう。「吹いたことがないのだから」と言えば、怠惰の石が重くなり、「練習すれば吹けるようになる」というには無能の石が大きすぎる。音すら出なかったのだから。
結局、終末でも訪れたのか、という空気を背負ったまま、ダビデが案内してくれたそれぞれの部屋にこもった。ダビデが夕食を一緒にどうかと誘ってくれたが、喉を通りそうになかったので、辞退した。
「わたしは、毎朝、あの音楽堂で竪琴の練習をしているんです。朝日がさしてとても美しく、心安らぎますよ。みなさんも、よかったら、どうぞ来てください」
ダビデの誘いに、マグディエルもアズバもナダブも「では、あすの朝、音楽堂に集まるまで、それぞれ休もう」ということで解散した。
*
マグディエルが、大丈夫、わたしは大丈夫、と言い聞かせながら、朝の音楽堂に足を踏み込むと、えもいわれぬ美しい音に包まれた。
音楽堂の中央あたりで、ダビデが竪琴をひいていた。
耳にやさしく響く、繊細な旋律は、まるで美しい朝の祈りのようだった。
ナダブが、ダビデの近くの床に寝そべって、目を閉じている。翼を完全にひらいてリラックスモードだ。アズバはダビデの足元に座って、目をとじ、顔をすこし傾けて、じっとしている。
マグディエルが近寄ると、ダビデがこちらを見て微笑んだ。
祈るような旋律から、明るく励ますような旋律に変わる。
ダビデの足元に近づいて、床に座り、音に耳をすませる。
なんだか、大丈夫、という気持ちが強まってきた。
いける、今日は笛が吹ける、きっと。
マグディエルの気持ちが、完全に上向いたころ、ダビデの旋律が終わった。
「おはようございます、マグディエル。よく眠れましたか?」
ダビデが笑顔で言う。
「はい、おかげさまで」
「それは良かった」
「笛の練習をしてみようと思います」
マグディエルがそう言うと、ダビデもアズバもナダブもぱっと嬉しそうな顔をした。
「素晴らしいです、マグディエル」
「えらいわ、マグディエル、とっても素敵よ」
「いいじゃん、いいじゃん、一緒に練習しようぜ」
マグディエルは落ち込んで自己嫌悪に陥って、どうしようもなくなっていた昨日の自分を恥じた。そうだ、下手なら誰よりも練習すればいいのだから、とにかく練習あるのみだ。
部屋まで持ち帰っていた、昨日の笛を両手でぎゅっと握り締めた。
場の雰囲気が和やかになったとき、「ダビデ王はおられますか」と、はりのある女性の声がひびいた。
見ると、ひとりの立派な女の天使が入り口に立っていた。りりしい顔つきで、体つきは大きくないが、二枚の翼はしっかりと大きい。金の胸当てをしている。
「マトレド、久しいですね!」
ダビデが笑顔で答えた。
マトレドはダビデの前まで来ると、恭しく礼をした。
「ダビデ王、おひさしぶりです」
笑顔になると、すこし幼い顔つきになるようだ。
「もしや、また遠征ですか?」
ダビデが笑顔で訊く。
「はい、一月後に宿舎をお借りしたいのです」
「わかりました。用意させましょう。今回もあなたにお手伝いいただけるのですか?」
「はい、用意を手伝うよう言い付かっております」
そこまで話すと、ダビデが、マグディエルたちにマトレドを紹介した。
マグディエルたちも礼儀正しく、自己紹介した。
「まあ、ラッパ吹きの使命をお持ちなのですね。ご立派な使命です。わたしは天軍に所属しております」
マトレドはそう言って、マグディエルたちひとりひとりと握手を交わした。
ナダブが天軍と聞いて、嬉しそうな顔をした。
ダビデがそれを見ながら言った。
「彼女、とても強いんですよ。なんといっても、ミカエル直属の部隊ですから」
マトレドが、はにかんで「いえ、わたしなど、まだ」と言った。
「えっ! 一月後にここに来るのってミカエル直属の天軍なの⁉」
ナダブが、大きな声で言った。
そういえば天軍好きのナダブだ、ミカエルといえば天軍の最高指揮官なのだから、テンションが上がるのも無理はない。
マトレドが笑顔で答えた。
「はい。ミカエル様とともに、以下千名ほどの部隊でお邪魔することになります」
かなりの数だった。
あらためて、ダビデの町と、この城の大きさに感心する。
ダビデが「そういえば」と、思いついたようにマトレドに訊いた。
「マトレドは、ずいぶんいろんな所に遠征されていますよね?」
「ええ、まあ」
「御座へ行ったことはありませんか? かれらは御座がどこにあるのか探しているのです」
ダビデの言葉に、マグディエルたちは頷く。
「御座……ですか。いえ、御座には行ったことがありませんね。場所についても聞いたことがありません」
マトレドは「お役に立てなくて……」と眉尻を下げた。
「あ、でも」
マトレドは、考えるようにして言った。
「わたしは天軍の中でも若輩者ですので、行ったことがないだけかもしれません。古くからいる天使ならば知る者がいるかも……。それに、ミカエル様ならば、もしや知っているのではないでしょうか」
ナダブがすごい勢いでこちらを向いた。
「ミカエルに聞こう。そうしよう」
「う、うん。そうだね、一番知ってる可能性が高そうだし——」
「だよな! じゃあ、天軍が来るまでここに滞在するよな!」
ナダブが力強く「な!」と言った。
「そ、そんなに長く滞在しても大丈夫ですか?」
マグディエルがダビデの方に視線をやって聞くと、ダビデが笑顔で答える。
「もちろんです。ずっといてくださってもよいのですよ」
ナダブが「やったー!」と手をあげた。
ナダブはその勢いのまま、マトレドに話しかけた。
いつから天軍にいるのかとか、どんな訓練をするのかとか、遠征先でどんなことをするのかとか、矢継ぎ早に質問している。最初は戸惑っていたようだが、天軍に好意的なナダブの様子に、マトレドはすぐに打ち解けたようだった。
あっという間に、ふたりは砕けた口調で話し始めた。
楽しそうだ。
「アズバ、今日の午後は石投げの競技があるけれど、出ないかい?」
ダビデがアズバに話しかける。
「石投げ! したことないけど、面白そうね」
ふたりは、石投げについてや、ほかの催しにどんなものがあるとか、昨日のふたりの試合について、話がつきることがないようだった。
こちらも、砕けた口調で楽しそうに話している。
マグディエルは、すこし離れて、手に持っていた笛を見た。
どうやら、それぞれ、話に花が咲いているようだし、ちょっと吹いてみようか。
昨日教えてもらったように、笛の穴を抑える。
リラックスして、吹く。
ふこー。
やはり、音が出ない。
吹き方に問題があるんだろうか……。
抑える穴の位置を変えて、吹いてみる。
ふこー。
出ないな。
やっぱり、優しく吹きすぎているのか。
マグディエルは腹に力を込めて、吹いた。
ふこーっ。
ちょっとずつ出力をあげていく。
ふこーッ。
ふっこーッ。
ふここーッ!
ええい、出ろ!
フコーッ‼
もっとか!
マグディエルは息を深く吸い込み、思いっきり腹に力をこめて、全力で、吹いた。
瞬間、信じられない大きさの破裂音が鳴った。
銃声か、というような音だった。
アズバが悲鳴をあげ、ダビデが「何事だ!」と警戒しながら、アズバを引き寄せた。ナダブが耳をおさえて「何⁉」と叫び、マトレドが大きな羽をぶわっと広げてナダブを守るようにした。
警戒して身を固くする四人と、すこし離れていたマグディエルの目が交錯する。
「え?」
マグディエルは自分の手を見た。
さっきまで笛があった、自分の手を。
笛は跡形もなく、消えていた。
「マグディエル? あなたなの? 今の音」
アズバがダビデの腕の中から、おそるおそる言った。
マグディエルは、もう一度自分の手を見た。
——ない。
「な、なんで?」
笛は、破裂して、跡形もなく粉々になってしまった。
窓から差し込む光を受けて、マグディエルのまわりを舞う笛の粉がちらちらと輝いている。
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おまけ ☆聖書豆知識☆
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【ミカエル】
「神に似たるものは誰か」という意味の名前。
旧約聖書では、天使たちの長、また頭と記されている。




