第14話 湯けむりガリラヤ温泉 後編
マグディエルはナダブを探してうろうろした。
だが、なかなか見つからない。
もしや、と思って灼熱極寒地獄サウナを目指す。
向かうと、入り口に『ゲヘナ』とおどろおどろしい文字の看板がかかっていた。『ゲヘナ』の文字の下には『おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者はこちら』と書かれている。
入り口の横にただよっている座天使が『入れ』というような仕草をした。
中に入ると、ちょうど極寒地獄の入り口からナダブが出てくるところに遭遇した。
「ナダブ、まさかずっとここにいるの⁉」
「おう、マグディエル」
ナダブが手をあげる。
「これ、なかなか抜けられないんだよね。なんか、やみつきでさ」
ナダブはそう言って笑った。
ふたりつれだって、灼熱地獄に入る。
入り口の誘い文句がとんでもなかった割に、中は普通のサウナだった。木の香りが熱気とともにかおる。
並んで座る。
マグディエルは、ちらとナダブの上半身裸の姿を見た。
「ナダブって、意外と筋肉質なんだね」
背はマグディエルよりも低く、細身なのに、確実にマグディエルより筋肉がついている。ナダブの腹筋はしっかりと割れていた。
マグディエルは、自分の腹筋のあたりをなでた。
腹筋というには、頼りないくらいの腹があった。
「筋トレしてるからね」
「なんで⁉」
ナダブはすこしためらったのち、答える。
「天軍の天使かっこよくない?」
「天軍の?」
あのムキムキで、めちゃくちゃ身体のでかい天軍の天使?
マグディエルも目にしたことがある。天軍はラッパ吹きの御使いたちが住む丘の近くにも、何度かやってきたことがあった。天国中をまわり、悪魔の侵入に目を光らせている。
急に、こわくなった。
ルシファーと会って話したりするどころか、なぐさめてもらった上に、ラッパまで治してもらった。天軍に知られたら、怒られたりしないだおうか。なんだか、怒られる気がする。
「でっかい身体に甲冑着てさ~、翼もめちゃくちゃ大きいじゃん。腕も足も太くて、かっこいいよな~」
「迫力がありすぎて近寄りがたいよ」
「そこがいいんじゃん」
しばらく、ナダブの天軍の天使がいかにかっこいいかトークがつづいた。
どんどんヒートアップして、ナダブの喋りは止まらない。
「ね、ナダブ……、わたしもう限界かもしれない」
マグディエルの全身から汗が噴き出て、熱さに意識がぼんやりしてきた。
ナダブの天軍トークがやっと止まる。
「よし、極寒地獄行こう」
ナダブがそう言って立ち上がった。
ナダブに支えられて、ふらふらと外に出る。
サウナの外の温度が心地よかった。
極寒地獄は、灼熱地獄の向かいにある。
入った瞬間、寒さに身が固くなったが、すぐになれはじめた。
「うわあ、これは……」
雪原にでもいるのかなという冷気が火照った身体を冷やした。
心地よい。
ならんで座る。
極寒地獄は全面大理石でできていて、座るとこれまたひんやりと気持ちが良かった。
マグディエルとナダブの口から、うっとりとしたため息が出る。
「これは、やみつきになるのも分かるねえ」
「だろお」
そうだ、言わないと。
ナダブに、御座をひとりで目指そうと思う、と伝える。
「ふうん」
ナダブは前を向いたまま興味なさそうな顔をした。
ちらりとマグディエルを見て、表情を変えずに言った。
「暇だからおれも行く」
「あぶないから、丘にもどったほうがいいと思う」
「うるさい。おまえがちかくにいないと、一番目のラッパの吹き時がそろそろかどうか分かんないだろ。ついていくったら」
もうこの話はなしだ、というようにナダブが手をふった。
「ナダブ」
「うん?」
「ありがとう」
「おう」
「御座、どこにあるんだろうね」
結局ユダもペトロも知らなかった。
「まあ、あの山を目指すしかないさ」
ナダブがなんてことないように言う。
ガリラヤの町には、ユダとペトロ以外の使徒や、天使は住んではいない。ユダに他の使徒やイエスに会わないのかと問うと、『時がくれば会うこともあるでしょう』という、なんともあっさりとした答えだった。ほかに問える者もなく、御座についての情報はないままだ。
モーセが湖を割ってくれたおかげで、湖をわたりガリラヤの町に来ることができたが、今はそこまでだった。まだ高くそびえる山ははるか遠くにある。
旅は、わずかばかり進んだが、まだ目的地すら見つかってはいない。
マグディエルは目を閉じた。
——。
ちょっと。
冷えすぎてお腹が痛くなってきた。
*
結局、マグディエルが音を上げて、すぐに極寒地獄から出た。
ナダブはまだ灼熱と極寒を繰り返すつもりらしい。
そろそろ、お湯につかりにいこう。
マグディエルは灼熱極寒地獄サウナから出て、温泉の地図を見る。
薬湯に目がとまる。
またナダブに『おじさん』と言われるかもしれないが、疲れたし、薬湯にでも浸かってゆっくりと癒されることにした。
薬湯のエリアには、いくつかの、それぞれ違った薬効の湯があるらしい。薬湯の扉が並ぶエリアに立ち入ると、不思議な香りがたちこめていた。草木のような香りもするし、花や果実の香りもあり、けぶるような不思議な香りもあった。
マグディエルは、扉の前を歩いてそれぞれの匂いをかいだ。
なんだか、すごくいい香りがする。
一番奥の扉の前に来ると、えもいわれぬ良い香りがした。
ドアの横の看板に『超高級薬効風呂・極(何にでも効く)』と書かれている。
扉を押して入る。
びっくりするほど、良い匂いがした。
中はかなり暗かった。
小さな灯はあるが、扉がしまってしまうと、ほとんど真っ暗だ。
マグディエルはそっと進む。
が、何かを蹴飛ばしてしまった。
「いたい」
「わっ、すみません、見えなくて」
マグディエルは目をこらす。
だんだんと、目が慣れてきた。
何を蹴ったのかと足元を見ると、なにやら、太い、つるりとした鱗がひかるものがある。
なんだ?
その太いものの先が湯船につかっていた。
その先を見ると、ティファニーブルーの身体に、美しい金模様の入った、大きなヘビが湯船につかって顔を出している。
ルシファーだった。
マグディエルはすぐに踵を返して、扉を開けようとした。
開かない。
何度やっても、扉は固まってしまったように、びくとも動かなかった。
あきらめて、振り向く。
湯船には、ルシファーと、となりにもうひとり美しい天使がいた。
美しい天使は、ルシファーのとなりでリラックスして座り、湯船に足だけつけている。中性的な姿の天使だった。男のようにも女のようにも見える。切れ長の目が、すこしきつい印象をあたえている。
「やあ、マグディエル。こんなところで、奇遇だね」
ルシファーが言った。
マグディエルが黙っていると、彼は続けた。
「せっかくだから入っていくといい」
また一体何の思惑があって現れたのかは分からないが、扉が開かないなら逃げることはできない。マグディエルはそっと湯船につかった。
大きなヘビの身体は、湯船のなかに広がっていて、近づかないというのは難しいが、できるだけルシファーと見知らぬ天使が並んで座っている場所からは遠い場所に座る。
身構えるマグディエルを見て、ルシファーが「おやおや」と言った。
「今日は抱きしめてキスしてほしいって言わないのかい?」
「言いません」
「ふうん」
ヘビの尾が動いて、マグディエルの背を押すようにした。
あっという間に、ルシファーの近くに引き寄せられてしまう。
目の前で、ヘビは美しい男の天使に姿を変えた。
とたんに、マグディエルの姿が女にかわる。
ルシファーはどこからともなく出した布をマグディエルの肩にかけた。
そういえば上半身裸だった。
見知らぬ天使が「へえ」と声をあげた。
「姿をコントロールできないのですか?」
見知らぬ天使の問いに、ルシファーが答える。
「わたしの姿に反応してるんだ、かわいいだろう?」
ルシファーが見知らぬ天使にマグディエルを紹介した。
見知らぬ天使は笑顔を浮かべて、手を差し出す。
「はじめまして、マグディエル。ベルゼブブです」
もういやだ。
ルシファーだけでも恐ろしいのに、ベルゼブブだなんて。
これ以上、そちらの知り合いはふやしたくないけれど、と思いつつ、礼儀正しい挨拶にマグディエルも握手を返す。
「はじめまして、マグディエルです」
「かわいそうに、随分ルシファーに気に入られてしまったようですね。お察しします」
ベルゼブブが全然かわいそうに思っていなさそうな笑顔で言った。
一体、このふたりは、こんなところで何をしているんだろうか。
「ルシファー、こんなところで何を?」
マグディエルは、おそるおそる訊いた。
「薬湯に入ってる。大切な羽を一枚失って痛むものだから」
「えっ」
途端に心が痛む。
たしかにあの風切羽は、とても大きいものだった。無理に手折れば痛むだろう。
「そんなに痛むんですか?」
「べつに」
どっちなんだ。
マグディエルが困惑していると、ベルゼブブが横から言った。
「あまり真剣に相手をしないほうがいいですよ。ずっとふざけてるんですから」
だが、ルシファーの羽を見ると、たしかに赤く染まっている部分があった。
傷ついた羽から目をそらせずにいると、ルシファーが目の前に何かを差し出した。
見ると、銀色の鍵だった。
「いつか君の助けになるだろう。プレゼントだよ」
それだけ渡すと、ルシファーは「いきなさい」と言った。
ルシファーの傷が気になったが、気が変わらないうちにと、マグディエルはそそくさと薬湯を出た。
*
ベルゼブブは、そそくさと出ていった天使のことを思い返す。
特別な力を持っているようには見えない、ただ力の弱い天使だった。
「本当に、神の存在を疑っているのですか?」
ベルゼブブが訊くと、ルシファーがまたヘビに姿を変えながら答えた。
「ああ、使命も神も見失ったせいで、姿がコントロールできなくなってる」
人間に恋したり、堕落して使命を見失う天使はままあるが、神を見失うとは……。
面白い。
「それは……随分魅力的ですね」
「そうだろう」
「摘み取ってしまえばよいのでは?」
「それでは面白くないだろう。それにかわいいじゃないか」
まあ愛らしい部類だろうが、特別美人でもなかったけれど。
「手を出すなよベルゼブブ。あれはわたしのものだ」
ベルゼブブは、頭以外とっぷりと湯につかったルシファーの姿を見やった。
ふうん。
随分、執着するじゃないか。
「あなたが貴重な羽まで渡した相手ですよ、手を出すバカがいますか。地獄の者が見ればすぐにわかりますよ。あれは、あなたのものだってね」
たしかマグディエルだったか。
さっきの様子を思い出す。
「しかし、あなたに誘惑されても傲慢さのかけらも現れないとは」
「——」
ルシファーが何も返さないところを見て、ベルゼブブは緩む口をおさえられない。
「楽しみですねえ」
ベルゼブブがそう言うと、ルシファーは尾で湯をはねた。
ベルゼブブの顔に思いっきり湯がかかる。
湯から出ているヘビの背に鱗がはがれて赤くなっている部分を見つける。
思いっきり指で押した。
「いたい」
ヘビがこちらを非難がましい顔で見た。
*
マグディエルは、なんだか申し訳ない気持ちで歩いていた。
ラッパを治すために羽に傷まで作って、今日も何かは分からないが謎の鍵をもらうだけで、何ひとつ悪いことはされていない。
それなのに、ただ悪魔だ、サタンだ、というだけで固い態度をとった。
悪いことをしているのは、こちらの方ではないのか。
かといって、ルシファーと仲良くすることは、ナダブとアズバまで危険にさらすことになるのでは、という気もする。
マグディエルの口から大きなため息が出た。
通りすがりの座天使が『大丈夫?』みたいな身振りをした。
座天使——。
そうだ、座天使に聞こうと思っていたことがあったんだった。
「あの、つかぬことをお聞きしますが——」
マグディエルはガリラヤの町の隣にある湖について座天使にたずねた。もしや座天使なら湖を渡る方法を知っているかもしれない。
ラッパ吹きの住む丘に戻るときのためにも、知っておきたかった。
座天使は目玉のまわりにある金の輪をフォンフォンさせて答えた。
「湖ノ上? 飛ベルヨー?」
飛べるんだ……。
座天使は、まわりの座天使たちにも声をかけて聞いた。
座天使たちがわらわらと、マグディエルのまわりに集まってくる。
「湖ノ上、飛ベルヨネー?」
「飛ベルヨー」
「御座ァ―?」
「御座ワカンナイ」
「コノ天使飛ベナイノ?」
「カワイソウ」
「下手ナノ?」
「羽アルノニネー」
ヤメテ!




