第13話 湯けむりガリラヤ温泉 前編
「ねえ、アズバ、ちょっとその恰好……」
「なによ」
ちょっと艶めかしすぎるんじゃないのか。
マグディエルはアズバの姿から目が離せない。
うすい布一枚をかぶるような形の着衣は水に濡れて、ぴったりとアズバの身体に密着していた。
綺麗で、つい、見てしまう。
マグディエル、アズバ、ナダブ、ユダの四人は今日、ガリラヤ温泉に来ていた。
*
マグディエルがルシファーに散々誘惑され、元通りの姿になったラッパをひっさげて病院から戻ってきたあの日から、すでに一週間がすぎていた。
モーセに湖を割ってもらって以来、怒涛の勢いで散々な目にあったものだから、マグディエルもアズバもナダブも、すこしゆっくりしたい気持ちになっていた。ユダに「是非ゆっくりしていって下さいね」と言われて、あつかましくももう一週間、ユダの家の隣のテントで寝泊まりさせてもらっている。
「よければ、明日温泉に行きませんか?」
ランチタイムにワインを飲んで、だらりと過ごしているところにユダがそう提案した。
「温泉なんかあるんだ?」
ナダブが嬉しそうに言う。
「ええ、すこしまえに座天使たちが造った施設で、『スーパー銭湯 ガリラヤ温泉』という名前らしいです。せっかくですから、ガリラヤの町におられる間に行ってみてはいかがでしょう」
「いいわね」
アズバも乗り気に答えた。
ユダは「実は私もまだ行ったことがないので、行ってみたくて」と微笑んだ。
そうだ、座天使に聞きたいこともあったんだった。
満場一致で「行こう」ということになった。
*
温泉は、ガリラヤの町からすこし離れた場所にあった。
ユダが用意してくれたロバに揺られて行く。
森にかこまれた場所で、またしてもあの光景を見ることになった。
「でたわね、駐車場」
アズバが言った。
ミリアムと行った『地上ショップ』と同じような、しっかり舗装された巨大な駐車場が現れた。ここもまた、どこから人が集まってくるのか、けっこうな数のロバやウマや馬車のようなものが停まっている。
駐車場の奥に、大きな建屋が見える。
白い壁に赤ペンキででかでかと『スーパー銭湯 ガリラヤ温泉』と書かれていた。
中に入ると、座天使が忙しそうに飛び回っている。
石鹸のような花のような香りが満ちていた。
入ってすぐに歓迎看板があり、『テンプル騎士団 御一行様』、『聖ヨハネ騎士団 御一行様』、『ドイツ騎士団 御一行様』と書かれている。
三大騎士修道会オフでもやっているんだろうか。
籠をぶらさげた座天使がすーっと近づいてきた。
目の前で、籠をゆらす。
中には、紙が入っていた。
どうやら、温泉の案内図らしい。
「すごい種類があるね」
マグディエルは紙を見て言った。
大浴場が三つもある。薬湯、壺湯、打たせ湯、立ち湯、サウナに岩盤浴……。
「すごーい! わたし美人湯めぐり行ってくる!」
「おれ、灼熱極寒地獄サウナ! じゃね!」
「えっ」
一緒に行かないの、と言おうとしたが、何言う暇もなく、アズバとナダブはさっさと行ってしまった。
そうだ。
最近ずっと一緒にいたから、うっかり忘れていたが、元々あのふたりは超がつくほどマイペースなタイプだった。いや、あの二人だけじゃない、ラッパ吹きの御使いたちは、それぞれの姿が見えないくらいの距離感で暮らし、お互いマイペースに暮らしていた。
なんだか、寂しい。
ユダの方を見ると、にっこり笑って「マグディエルはどこに行きたいですか?」と聞いてくれた。
マグディエルとユダは、ひとまず岩盤浴に行くことにした。
一番大きい部屋に入る。
そこまで熱くはなく、薄暗い中で、みな思い思いに座ったり寝転んだりして過ごしているようだった。
ユダと並んで座る。
「それで、もう決められたのですか?」
ユダが訊く。
「え?」
「御座ですよ」
「ああ」
マグディエルとアズバとナダブは、この一週間、ふたつの選択肢について話し合っていた。このまま御座を目指すか、それともラッパ吹きたちの住む丘に帰るか。
「御座を……、目指すことにしました」
「そうですか」
ユダは優しく微笑んだ。
「わたしに手紙を渡してくれた天使が『さがしなさい』と言ってくれたのです」
ユダには、この一週間ですっかり、マグディエルたちの事情を話してしまっていた。
「求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見つかります。たたきなさい、そうすれば開かれます。ですね」
ユダが微笑んで聖句を諳んじる。
マグディエルは、ためらったのち聞いた。
「本当にそうですか?」
天使が言うにはふさわしくなさそうな質問に、ユダはただ優しく微笑んで答える。
「ええ、本当に。あなたが求めるなら、必ず与えられます、マグディエル」
本当に、そうだろうか。
マグディエルは「神はいますか」とはさすがに聞けなかった。
「もうすでに、与えられているのではありませんか?」
「え?」
ユダの言葉に、マグディエルは困惑した。
まだ、神を感じることもできず、ラッパの吹き方も吹き時も分からないままだ。
ユダは、続けて言った。
「なぜ御座を目指そうと思ったのですか?」
「なぜ——?」
「あなたも、もちろん知っているでしょう、マグディエル。神はどこにもおられる。たとえ天に上ってもそこにおられ、よみに床を設けても、そこにおられる」
たしかにそうだ。
神はあらゆる時、あらゆる場所、あらゆる状況にいる存在のはずだ。
たとえマグディエルには感じられなくても、そういうものだという天使の知識としてはそなわっている。
御座は、黙示録で神の座として描かれているにすぎない。
マグディエルは思い返した。神はいるのかと疑い、神を知りたいと求めたとき、自分が持った考えはなんだったか——。
「わたしが神をもとめたとき……、わたしのなかにあらわれたのは『御座を見たこともなければ、神を感じたこともない』という言葉でした」
「なぜ、まっさきに『御座を見たこともなければ』という言葉があらわれたのでしょう?」
なぜ?
なぜ、そう考えたんだろうか。
マグディエルには、その理由はよく分からなかった。
考えに考えて出た言葉ではない。
ただ、自然と湧き出るように、現れた言葉だった。
「その言葉をあなたに与えたのはだれです?」
ユダの言葉に、マグディエルは目を見開く。
言葉を与えたのは——。
マグディエルには分からなかった。
御座を目指せと、そう神が言葉を与えたというのだろうか。
何をもって、その言葉が神によると思えばいいのだろう。
「あなたがたが飛ぶことのできない湖は、モーセが割ったと聞きました」
「はい」
「あなたがたたいたから、道が開かれたのではありませんか」
「——」
答えられないマグディエルの肩に、ユダがそっと手を置く。
「マグディエル。あなたがどうか、主に寄り頼むことができますよう」
マグディエルは置かれた手に自分の手をかさねて、頬をよせた。
ユダが、マグディエルの額に己の額をよせて、ささやくように祈りをあげる。
人の祈りを受けるのは、天使同士でよりそうのとは、またちがった安らぎがあった。
ユダの手はあたたかく、祈りは耳にやさしかった。
*
ユダは……異常に熱さに強かった。
ユダが祈りをしてくれたあと、ロウリュウサービスというものが始まった。
座天使たちが金の輪に団扇をいくつもはりつけて現れ、ぐるんぐるん回りながら、部屋中をかけまわり、一気に部屋の温度があがる。
肌が焼かれるような熱さだった。
マグディエルは限界を感じて飛び出た。
ラッパが、しっかり持てないほど熱い。
ユダは平気そうに「気持ち良いですね、もうすこしいます」と言って残った。天使ですら危険を感じるレベルの熱さだったのに、ユダのあの平気そうなそぶり……、彼ならゲヘナの火の中でも笑っているかもしれない。
マグディエルは、屋外にあるプールを目指した。
外に出ると、風が心地よい。
生き返る~。
「あら、マグディエル。ユダと一緒じゃないの?」
うしろから、アズバの声がした。
振り返ると、ドリンクを売っている売店前のスタンドテーブルにアズバがいた。
すごく——、男に囲まれている。
「アズバ……、何してるの?」
「ドリンクもらったの。ほら、これ『イエスの血』だって」
そう言って、アズバが真っ赤な飲み物を持ち上げた。
「イエスの血……?」
ドリンクカウンターの方を見ると、カウンター内の座天使が『イエスの血! おいしいトマトジュース!』の看板の近くで「どう?」みたいな身振りをした。
アズバの近くまで行くと、彼女の服装に目が行く。
プールで泳いできたのか、髪も着衣も水に濡れている。
アズバのしなやかな体のラインぴったりに薄い布が張り付いていて、男たちの視線がちらちらとそこに注がれていた。
「どうしたの、マグディエル?」
「アズバ、あっちに行こう」
「あっちって?」
「いいから」
アズバの腕をつかんで、引っ張る。
男たちにアズバの露になった美しい姿を見せるのが気に食わない。
アズバを引き寄せて、男たちの視線がふれないよう隠す。
「あそこで休もう」
マグディエルはプールサイドにある日よけ付きの休憩スペースを指差す。
ちょうどふたりで寝転がれそうなサイズだ。
サイドにも日よけの薄布がかかっていて、人からの視線も気にならなさそうだった。
アズバとふたり、向き合って寝転ぶ。
日よけの間から陽が差して、アズバの肩でゆらゆらと揺れている。
アズバが小さく笑った。
「なに?」
「だって、あなたったら、必死でわたしを隠そうとするんだもの」
「見られたくなかったんだ」
「見てるだけよ」
そうだけど。
やっぱり気に食わない。
陽のひかりが揺れているアズバの肩から伸びる腕は、彼女のほそい腰にゆったりとかけられている。
「あなたも見てるじゃない」
そう言われて、あわてて視線をアズバの目に合わせる。
綺麗で、つい、見てしまう。
これではアズバのまわりに集まっていた男たちと同じじゃないか。
「綺麗だと、見てしまうものだね。でも、アズバのことをよく知りもしない男に見られるのは、気に食わない」
「ふうん」
アズバはすこし考えて、言った。
「わたしも、あなたが女の姿のときに男からじろじろ見られていたら、心配だし……、いやかもね」
「そういうものなのかもね」
「そうね」
アズバがちらりとプールの方に目をやる。
「あなたもさっきから見られてるわよ。主に女から」
「えっ」
プールの方に目をやるが、そんな様子はない。
アズバが笑う。
「そんな風に見たら、みんな顔をそらすに決まってるでしょ」
「おじさんでも、見られるんだ」
「やあね、あなた、ナダブが言ってるのを気にしてたの?」
「そりゃあ、毎回言われればね」
「あのこ、自分の見た目が若いまま止まっちゃったから、大人の姿になったあなたが羨ましくて憎まれ口たたいてるのよ」
初耳だった。
「そうなんだ。わたしはナダブが羨ましかったけど」
「ないものねだりね」
「そうだね」
風が吹いた。
あまりにも平和な時間だ。
「アズバ、昨日御座を目指すって決めたけど——」
マグディエルはそのあと、『ひとりで行こうと思う』と続けるつもりだった。
今までの道のりを考えると、御座への道はそう簡単ではないという思いが強くなっていた。それに、ルシファーの存在も、心配事のひとつだ。思惑がわからないから、今後どう動くのかも分からない。
「わたしは一緒に行くわ」
アズバが、マグディエルの言葉を遮るように言った。
翠の瞳が強い意志でこちらを見ている。
「あの夜、あんなに甘やかしたくせに、つっぱねるつもり?」
「えっ」
覚えていないのかと思っていた。
マグディエルが驚いていると、アズバは笑って言った。
「私も御座を見てみたくなったの。あなたのよろこびはわたしのよろこびです。あーめんあーめん」
ふたり、顔を見合わせて笑う。
「ナダブのところにも、聞きにいくんでしょ?」
「そうだね」
アズバが「あの子ぜったいついて行くっていうと思うけどね」と言った。
マグディエルは、上を向いて目を閉じた。
まぶたのうらっかわに、光を感じる。
もうちょっとだけ、アズバと一緒にこの時間を楽しんでから、ナダブを探そう。




