第10話 お友達からはじめましょう
身構えたマグディエルの額から、ぽろっと何かが落ちた。
なんだ、と思って見ると、なにやらぶよぶよしたシートみたいなものだった。
「冷えピタだよ」
ふるいヘビである、美しい天使が言った。
「ひえぴた?」
「ひんやりして気持ちよかっただろう?」
そういえば、眠っているときに額にひんやりしたものを置かれて、とても心地よかったような気がする。見たことのないものだが、地獄のものだろうか。
「あなたが、置いてくれたのですか?」
「そうだよ。それにしてもあなたとは……。ずいぶん他人行儀なことだ」
他人行儀もなにも、一番他人ぶりたい相手だ。
「では、なんとお呼びすれば?」
「きみはわたしの名を知っているだろう」
あのヘビ。
あの古いヘビ。
狡猾なヘビ。
邪な竜。
あの悪魔。
——サタン。
大体、天国では彼のことをそう言う。名を呼ぶものなどいるのだろうか。
「ルシファー」
マグディエルがそう呼ぶと、ルシファーは嬉しそうに微笑んだ。あまりに美しいので、正面切って微笑まれるとどぎまぎしてしまう。
「そう、もっと気楽に呼んで、気楽に話してくれると嬉しいよ」
ルシファーが「そうしてくれるよね」と言って首をかしげる。
そうしないといけないような魅力があった。
「ひえぴたを……ありがとう、ルシファー」
「どういたしまして」
あまりに美しく優しそうな様子なので、いまいちピンとこないが、彼は狡猾な悪魔だ。マグディエルは気持ちを引き締めて言った。
「一体、何の用があって、ここに?」
「おや、友に会いに来るのに理由がいるかな」
「友?」
「うん」
マグディエルが自分のことを指差すと、ルシファーは頷いた。
友になった覚えはない。
ちょっと前に一度、惑わされそうになっただけだ。
「たった一度会ったきりで?」
「もう二度会っただろう。わたしと二度会うものは少ない」
なんとなく、怖い物言いだった。
それは一体どういう意味で、二度会うものが少ないのだろうか。
ルシファーはベッドのはしに腰掛けて、マグディエルに向かって右手を差し出した。彼のてのひらの上に真っ赤なリンゴがあらわれる。濃い果実の香りがただよった。
「きみが随分とひどい目にあっているようだったから、友として助けになれないかと思ってね」
ルシファーはそう言って、赤い果実をマグディエルに差し出した。
ヘビが差し出す果実……、不吉すぎる。
「これを食べたら、天国から追い出されたりしない?」
「ずいぶん古いいたずらのことを蒸し返すんだね」
ルシファーはくすりと笑って「ただのリンゴだ」と続けた。
マグディエルは、リンゴを受け取った。
そういえば、お腹が空いたような気もする。
食べると、花と蜜の香りがして、口の中にみずみずしい甘さがひろがった。
やはり、なにか食べるとすこし元気になるのかもしれない。
あっという間に、芯をのこして食べきってしまった。
「マグディエル、わたしにしてほしいことはないかい?」
ルシファーは右手を差し出してそう言う。
何の右手かわからずにいると、リンゴの芯を指差される。
マグディエルはためらったのち、ルシファーのてのひらの上に、かじった後のリンゴの芯をおいた。ルシファーが手をにぎると、芯はあとかたもなく消えた。
「してほしいこと?」
「そうだ、友のために何かできることはないかと思ってね」
何を企んでいるのか。
狡猾な悪魔にしてもらいたいことなど、ない。
と思ったが、ひとつだけ思いついてしまった。
悪魔にたのむには、かなり……、不適切なお願いかもしれない。
マグディエルが悩んでいると、ルシファーはいっそう優しく魅惑的な声で言った。
「きみがのぞむなら、何でもしてあげる」
「なんでも?」
それなら、頼んでもいいだろうか。
この香り、ルシファーから漂ってくる高位の天使がもつ独特の香りがいけない。天使ごとにちがう香りがあるが、ルシファーの香りは、ほんとうにうっとりして頭の芯まで惑わすような良い匂いがする。高位の天使の香りに、下位の天使はどうしても惹きつけられてしまう。
悪魔やサタンと呼ばれても、ルシファーの本質は天使だ。しかも全ての天使を率いる最高位の天使だった。
その香りに包まれ、なぐさめられたいと思ってしまうのは、いたしかたない。
ということにする。
マグディエルは、よし、と意を決してルシファーを見て言った。
「抱きしめて祝福のキスを与えてくれますか?」
ルシファーは一瞬ぽかんとした。
なんとなく親しみを感じる顔だった。
彼は、声をあげて笑った。
「はは、わたしは君のことがとても気に入ったよ」
顔をくしゃっとして笑うと、ルシファーの顔はすこしあどけない感じになる。
彼は「おいで、マグディエル」と言って、腕をひろげた。
マグディエルは、ルシファーの気が変わらないうちにと、そそくさと彼の懐に入った。
「きみの道にいつも祝福のひかりがあるよう」
ルシファーはそう言って、マグディエルの額に祝福のキスを落とした。
ほっと、なぐさめられるような心地があった。
「悪魔に祝福のキスをせがむなんてね」
ルシファーはおかしそうに言って、マグディエルのことを抱きしめた。
彼の香りが強く香った。
強い天使の香りだ。
マグディエルはルシファーの肩に額をあずけて、深く息を吸い込んだ。
「かわいそうに、ずいぶん傷ついて、すっかり疲れてしまったね」
感傷的でなぐさめられる声だった。
ルシファーが「よしよし」と言いながら、マグディエルの背中を軽く叩く。
途端にマグディエルの瞳からぽとりと涙が落ちた。
「そう、つらいだろう。大切なラッパを失ってしまうなんて。身を切り裂かれ、半身を奪われるようなものだ」
不思議とつらさをさらけ出してしまいたくなるような声だった。
マグディエルは、我慢できずに声をあげて泣いた。
「わたしがいたら、助けてあげられたのに」
ルシファーがいてくれたら……。
そうだ、ルシファーがいてくれたら……、きっとラッパは無事だっただろう。
真っ二つに割れてしまうことも、湖で失うこともなかったかもしれない。
ルシファーがそばにいて、守ってくれたら——。
この計り知れない強さをもつ存在に——、守ってもらいたい。
あっ!
しまった!
と思ったときには、マグディエルの身体が小さくなった。
女の姿になってしまった。
ルシファーが「ふうん」と言う声が聞こえたが、決まりが悪くて顔が上げられない。
「そう可愛い反応をされると、持って帰りたくなるね」
地獄に?
それは困る。
「これは、コントロールできなくて……」
言い訳がましくそう言うと、ルシファーに顔を持ち上げられる。
明けの星が輝く瞳が、目の前にあった。
ルシファーはマグディエルの顔を左右にすこしずつ傾けて、調べるように瞳を覗きこみながら言った。
「恐れと、欲望が見える」
「恐れと、欲望?」
「普通の天使は持ちえないものだ。素晴らしいね」
ルシファーは嬉しそうな顔をしたが、どう考えても素晴らしい要素とは思えない。
「どんな恐れと欲望が?」
「聞きたい?」
ルシファーは惑わすような微笑みでそう言った。
マグディエルは頷く。
ルシファーはささやくようにして、答えた。
「『自分には価値がない』という恐れ、それと『価値ある者になりたい』という欲望だ」
血の気が引く。
手の先が冷たくなって震える。
自分には価値がないと、そう感じていたが口にしたことはなかった。
言葉になると、ナイフを胸に突き立てるような痛さがあった。
「そう——、きみは自分に価値がないと思っている。だから、わたしに助けてもらえるかもしれないと思った瞬間、すこしでもわたしにとって価値のあるものになろうと姿を変えた」
「でも……」
「価値のある姿になることが、なぜ女の姿になるのかわからないのかい?」
マグディエルは頷いた。
「天使がお手本にするのは何だと思う?」
マグディエルには分からなかった。
「人間だよ。われわれ天使は人間の在様を擬態するのが得意だ。ずいぶん長いこと人間のことばかり見ているからね。人間は繁栄するために子を産み育てる。男にとっては種を受ける女が価値あるものであり、女にとっては種を持ち込む男が価値あるものだ。まあ、今じゃそれも崩壊しつつあるが、本質的な、無意識にある価値とはそうすぐには書き換わらない」
ルシファーは続けた。
「天使にとって価値のあるものは、与えられた使命と神、それだけだ。だが、君は使命も神も見失った。だから自分を『価値のない者』と感じ、価値を見出してもらいたい相手には人間の在様を真似て『価値のある者』に近づこうとする。いまのわたしは男の姿に近いから、きみは女の姿になった」
あさましいことだ。
また自分の嫌なところが見える。
本当に価値のある者になるでもなく、ただ価値のあるものに擬態するなんて。
「マグディエル、きみはわたしの前で女の姿にならずとも価値がある。と言っても、無意識のことだからコントロールはできないかもしれないがね」
「なぜ……、親切にするんですか」
「わたしにとって価値ある者だから」
ルシファーは一体、なにを企んでいるのだろうか。
ただ本当に親切にしに来たわけではないと分かってはいるが、それでもこうも優しくされると、本当にうっかりと頼りにしたくなる。
「わたしはただ、きみの友になりたいんだよマグディエル」
ルシファーのまどわすような声にどうしても魅かれてしまう。
「君が望むならなんでもしてあげるし、困っているときは私がなんとかしてあげる。私が強いことを知っているだろう? 何か起きても守ってあげるよ」
前にも言われた。
なんて、魅力的で耳に甘い言葉なんだろうか。
マグディエルは、ルシファーの思惑がわからず困惑した。
「わたしにしてほしいことで、真っ先に言うかと思ったけれどね。意外だったな」
ルシファーは目を細めて笑いながら言った。
マグディエルは、首を傾ける。
一体なにを言うと思ったのか。
「さあ、手を出して」
言われるがままに手を差し出す。
マグディエルの手の上に、ルシファーが手をかざすと、小さな風がおこった。
「あっ!」
マグディエルの手の上に、懐かしい重みと冷たさがあった。
真っ二つに割れた金色のラッパが、手の上で輝いている。




