第1話 吹けなくて、二千年
今日もマグディエルは原っぱで、ぼーっとしている。
日課のラッパ磨きは、ものの三十分で完璧に終わってしまった。
退屈だな。
ラッパ、吹いてみたいな。
ごろりと寝転がって、金色の楽器を視界に入れないようにする。青空を雲がゆっくりと進んでいく。無害のてっぺんみたいな景色を頭に流し込んで、金色から意識をそらせる。
「おい、そろそろか?」
頭上から唐突に声が降ってきた。
振り返らなくてもわかる。ナダブだ。マグディエルは舌打ちして、いつも通り歓迎の意を示した。
「見れば分かるだろ。まだだよ」
「まだかあ。やることがなくて退屈だよ」
だろうな。
第二のラッパを持つナダブの「そろそろか?」は、「第一のラッパの吹き時はそろそろか?」という意味だ。
二千年もの間、三日に一回は聞いてくる。
正直、ノイローゼになりそう。
二番目はいいよな。一番目が吹かれれば、次は自分の番だと分かるんだから。一番目はどうやって吹き時を知ればいいんだ?
吹き時はまだかまだかと、二千年も待っているんだぞ。待つには、長すぎないか。ほんとは、もう吹き時は来ていて、わたしが気づいていないだけとか。
あ。だめだ、不安すぎて動悸がしてきた。
「予定があるから帰ってくれる?」
落ち着いたふりをして立ち上がる。とりあえず不安を煽ってくるナダブには帰ってもらおう。
「また地上のなんちゃらクリニックか。最近ずっと、情緒不安定おじさんだな」
ナダブの物言いにイライラまで追加される。
同期なのにナダブの見た目年齢は十代のまま止まっている。
何もかもが不公平だ。くそ。
ナダブのことは放っておいて、スマホの画面を見ながら地上に向かう。最近手に入れた地上のすばらしい発明品スマホは、ある程度地上に近づかないと電波がひろえない。これまた地上のすばらしいこころの医療機関、メンタルクリニックに予約の電話をするのにも一苦労だ。
早くクリニックで話を聞いてもらわないと、使命を放り出したくなる。
使命?
そもそも、本当に自分は第一のラッパ吹きか? なんで、そう自覚しているんだっけ? 誰かに言われたわけでも、組織に属しているわけでもない。持っているラッパに第一番と刻まれているだけ。
そのラッパすら、吹けるかどうか怪しい。
ぎゅっと喉がつまった感じがして、大きく息を吸い込んだ。
こわくなってきた、はやくクリニックに電話を。
そう思ったとき、目の前に美しいヘビが現れた。淡い青緑色の体に、高級な皿に刻まれていそうな金模様がある。人ひとりくらい飲み込めそうな大きさのヘビだが、怖いよりも優美さが勝っている。
そして、かぐわしい香り。
うっとりするようなこの香りは、間違いなく、高位の天使の香りだ。
ヘビは「素敵なラッパだね。さぞかし良い音がするんだろう?」と、何もかも打ち明けたくなるような、優しく親密な声で言った。
香りのせいなのか、さきほどまでの不安が消え、マグディエルは正直に「どんな音がするかは知りません。知りたいけれど」と答えてしまった。
「それなら、今、ひと吹きしてみるといい」
「いいえ、これを吹くのは神が定めた時だけ。吹けば地上に災害が起きてしまう」
ヘビは優しい声で「大丈夫だよ」と続けた。
「試しに吹くくらい問題ないさ。練習で吹いちゃいけないなんて、言われてないだろ?」
……確かに、そうは言われてない。
「私が強いことを知っているだろう? 何か起きても守ってあげるよ。吹きたい?」
そうだ、吹いてみたい。
ちゃんと自分は吹けるってことを確認したい。
それにこのヘビは間違いなく、イヴをだましたあの古いヘビだ。神に逆らって、今なお自由に生きている。そのヘビが守ってくれるなら、ひと吹きくらい、……いいかもしれない。
それにしても、なんて魅力的なヘビなんだろう。
ティファニーブルーのなめらかな姿を見ていると、なんだかうっとりした気持ちになる。
握りしめたラッパの先が頬に触れて、その冷たさにはっとする。
まずい。
うっかりその気になるところだ。マグディエルは全速力で逃げた。腕っぷしが一番つよい、第七のラッパ吹きであるアズバの元へ。
ヘビは追いかけて来なかった。
素敵な声で「私は君の味方だよ」と聞こえた気がした。
*
「マグディエル。顔が青いし、なんだか良い匂いがするわね」
「古いヘビに会った」
アズバの家で、そう打ち明けると、アズバは軽い調子で「あらあら」と言った。
彼女が入れてくれたアップルティーを一口飲む。暖かい。思いのほか緊張していたらしく、力の入っていた肩がゆるんだ。甘酸っぱい紅茶の香りを吸い込んで、あのヘビの惑わすようなうっとりする香りを追い出す。
「きっと私が抱いた疑念を嗅ぎつけて、やってきたんだ」
「そう、で、一体どんな疑念を?」
「私は本当に第一のラッパ吹きかなって」
アズバはアップルティーを一口飲んで、何か考えるように黙ってしまった。そして、おもむろにマグディエルのラッパを手に取った。自分以外が触れると、それだけで胃のあたりがキリキリと痛くなる。
アズバは「そこにいて」と言って、一歩ずつマグディエルから離れた。
ラッパが離れるほど、胃の痛みが強くなる。三歩目で痛すぎて吐き気までしてきた。五歩目で目の前がチカチカして耳の内側が痛んだ。「やめてくれ」と叫ぶとアズバはすぐにラッパをマグディエルの手に戻した。
すると、途端に体の不調が消え去る。
「私も同じ疑問を持ったことがあるわ。ラッパから離れようとして、今のあなたと同じようになった。私たちの体はラッパなしではいられない。これが答えではなくて? 聖書にあるとおり、第一から第七の吹き手まで同期で存在しているしね」
そういえば、ラッパを体から離そうなんて、今まで思いつきもしなかった。
ラッパを持つ手にじっとりと汗がわく。
第一のラッパの担い手だということが分かったとしても、……残る問題が重要だ。
「もし、私が救えないほどポンコツで、吹き時も、吹き方も分からなかったら?」
「ひな鳥は飛んだことがなくても、時が来れば飛び立てるでしょ。心配しなくっても大丈夫よ。私たちは完璧に作られてる。神の御業をうたがうなんて、あなたまるで人間みたいよ」
アズバの表情には確信めいたものがる。
なぜ、アズバも、ナダブも、他の天使たちも疑問に思わないんだ。
なぜ、使命を受け入れて、己がそれを実行できると確信しているんだろう。
マグディエルの手の中で、吹き方も、音も知らないラッパが、ずっしりと重くなる。
もうとっくに吹き時が過ぎていたらどうする。
神は私に失望しただろうか。
……ふと、おそろしい疑問が頭をよぎる。
「神は、いるだろうか」
心からぽろっとこぼれ出た思いが、口から転がり出た。
アズバが信じられないという顔をして「マグディエル、あなた本気で言ってるの?」と叫んだ。
御座を見たこともなければ、神を感じたこともない。
そうだ、私はラッパの音どころか、神さえ知らない。
残り香とともに、ヘビの言葉がよみがえった。
『練習で吹いちゃいけないなんて言われてないだろ?』
言われてない。
神は……、私に何も言わない。
マグディエルはラッパを掲げて、口元に近づけた。隣でアズバが息をのんだ。金色の愛しい半身を両手で握る。唇が震えた。口先が金色にふれる。冷たい。しっかりと口をつけて、まっすぐ構える。あとは……吹けばいい。
とつぜん、風が起こった。
おそろしく、かぐわしい香りがあたりを包む。
眩い光とともに美しい天使が目の前に現れた。白い衣は太陽の暖かさと光を放っている。かがやく六枚の羽根は透き通るように白い。
膝をつき祝福を受けたくなる。
アズバが膝をついたのが目の端に見えた。マグディエルも抗いがたい衝動に、膝をつく。
美しい天使は、マグディエルの両頬を手でふわりと包み込み、額に祝福のキスをした。
人の子を見て、親からのキスを羨ましいと思ったことがある。きっとこんな風にちがいない。泣きそうな暖かさがあった。
「さがしなさい。そうすれば、見いだすことができます」
天使はそう言って、マグディエルの手に一通の手紙を乗せた。
天使はやわらかに微笑んでマグディエルの頭をなで、アズバにも祝福のキスを与えたあと、光とともに消えた。
あっという間のことだった。
部屋には、優しい香りだけが残った。
「神はいるのかも」
マグディエルのつぶやきに、ぼーっとしていたアズバが「いいかげん殴るわよ」と低い声で言った。三百年ほど前に、ナダブがボコボコにされたのを思い出して肩がぎゅっとなった。
そうだ、神を知らないなら、自分から知ればいい。御座を見たことがないなら、見に行けばいいんだ。さがしに行こう。ラッパの吹き時も、吹き方も、音も知らないなら、まずはラッパの取扱説明書があるか聞きに行こう。
神のもとへ。
「もしかして神様からの手紙かしら」
アズバが羨ましそうにのぞいてくる。
ごくり、と喉が鳴った。
中身はラッパの取扱説明書が入っているとか。もしくは、思いやりのメッセージとか。二千年の不安をやわらげる何かが、書かれているかもしれない。期待で手紙をあける手がふるえる。
中には一枚の便箋があった。
開くと、ピンクの花柄が可愛らしい。
便箋の真ん中に、二文字だけある。
『まだ』
封筒の中や便箋の裏を探すが、それ以外は何も書かれていない。
目が泳いだ先で、アズバと目が合った。彼女は戸惑ったように小さく「あー……」と言ったあと、気遣うような顔でぎこちなくにこっとした。
マグディエルは二千年過ごした中で、おそらく最速のスピードで地上へ飛んだ。金の腰巻からスマホを取り出し、履歴から通話ボタンを押す。思ったより大きな声が出た。
「今日すぐに予約できますかっ!」
メンタルクリニックの白い鳩のマークが見えた。
☆聖書豆知識☆
【黙示録のラッパ吹き】
ヨハネの黙示録(予言の書)に出てくるラッパ吹きの御使い(天使)のこと。
第一の吹き手から、第七の吹き手までが存在する。
それぞれラッパを吹くと、世界に災害が起き、地上は終末世界へと近づく。
【イヴをだましたあの古いヘビ】
サタン、古いヘビ、邪な竜などと呼ばれる。
【御座】
ヨハネの黙示録において、神の座と呼ばれる場所。




