表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

劉備と諸葛亮が初めて会ったのは、樊城か新野か?

諸葛亮が初めて劉備と対面し会話したのは、一般のフィクションで描かれているように隆中りゅうちゅうの自宅ではなくどこかの城の面接会場であったことは間違いありません。その後に劉備が“三顧”で諸葛亮の自宅を訪問したわけです。


史書においては、『正史』本文ではなく裴松之の注に引かれた『魏略』および『九州春秋』にこの話が書かれています。長らく「異説」として否定されてきた話なので、他者のフィクションで描かれることはほぼありませんが。


記録文を引用しておきます。


<引用始まり>

劉備が樊城に駐屯していたのは、曹操がちょうど河北の平定を終えたときのことである。諸葛亮は曹操のつぎの目標が荊州であるのに、荊州牧の劉表は優柔不断で軍事面の知識もないことを知っていたので、襄陽の北にあった樊城へおもむき劉備に見参した。ところが、劉備は諸葛亮を知らなかったうえ、かれが若いのを見て、「食客の希望者だろう」くらいに思って、とくに言葉をかけることもしなかった。やがて時間がきてみなが引き取ったのに、亮はひとり黙然と居残っていた。劉備は劉備で、「この若造いったい何者だ」と思いながらも、声もかけずにいた。

備は生来、旗の飾りにする牛毛を編むのが好きだった。たまたまある人からボウ牛/ヤクの尾を贈られたので、なぐさみに編んでいた。亮はそれを見ると、進み出ていった。

「名将の聞こえ高い将軍のこと、当然、遠大なお志をお持ちと思いましたのに、なすこともなく旗飾りなどを編んでおられるとは、これは驚きました」

備はこれはただ者ではないと悟り、ぱっとそれを投げ捨てていった。

「なんと申す。わしは手なぐさみにやっていたまでじゃぞ」

すると亮がいった。

「将軍には、劉鎮南(劉表)と曹操を比べて、いずれが優るとお考えですか」

「とうてい曹操の敵ではないわ」

「では、将軍ご自身を曹操と比べてみられていかがですか」

「やはり、向こうが上だ」

「いまや曹操にかなう者はいないというのに、将軍の軍勢はわずか数千。これで曹操の軍勢に対抗しようというのは、あまりにも無謀というものではありませんか」

「わしもそれを憂えているのだ。いったいどうしたものだろう」

 このように備が虚心坦懐に手のうちをさらけだしてみせたので、亮はいった。

「現在、荊州の人口は決して少ないわけではないのです。戸籍に載っている者が少ないのです。それで、その不完全な戸籍簿の人数にしたがって兵を徴発するので、民衆は喜ばないのです。劉鎮南に進言され、州内に命令を下し、まだ戸籍に載っていない者たちをすべて登記させ、そのうえで兵を徴発すれば軍勢を増強できるでしょう」

劉備はこの計に従って軍勢を増強することができた。このことがあって以来、備は亮が雄大な戦略構想を持っていることを知り、最高の賓客としてもてなすことにしたのである。


【『三国志英傑伝3(正史・蜀志)』徳間書店より「中国の思想」刊行委員会翻訳】

<引用終わり>


諸葛亮の内心の説明は全く違いますが(小説本文に書いた通り)、他人の視点から勝手な憶測を加えて書けばこんな記録になってしまうということでしょう。偏見強めな記録文です。


いずれにしても、この通り記録文でも裏付けられたため「諸葛亮が劉備と初めて対面したのはどこかの城」だったことは事実と言って良いでしょう。


では、それはいつのことなのか。


裴松之注の記録文には

「劉備が樊城に駐屯していたのは、曹操がちょうど河北の平定を終えたときのことである」

とありますね。


“曹操がちょうど河北の平定を終えたとき”とはいつのことかというと、厳密に定義するなら西暦で206年頃となるのでしょう。ただしばらく曹操の支配に抵抗する人々が各所で反乱を起こしていましたので、記録文を書いた当時の人の感覚では207年頃が「河北の平定が終わった」と思えたのでは。


だとすれば諸葛亮がどこかの城で劉備と会ったのは206年~207年頃と考えて良いです。

諸葛亮は満年齢で25~26歳。だいたい出仕の時期と合っていますので間違いないでしょう。


しかし一般フィクションで描かれている通り、207年当時の劉備は荊州領主・劉表から新野しんやを与えられて本拠としていたはず。


人材を集めるための面談会を、新野ではなく樊城で催したのは何故…? 

(本拠の新野で開催すればいいのではと思いました)


ちょっとその辺りが私にも謎で、今回この小説を執筆するにあたって地名設定に迷いました。



■新野での面接会だったら孔明は行かなかっただろう


改めて考察するためGoogleで地図を開いてみました。


新野は襄陽から60キロほど離れています。

日本、首都圏で言えばだいたい東京都千代田区→神奈川県秦野市(鎌倉より先)あたりまでの距離。


と言うことは新野へ徒歩で行くのはハードルが高い… 徒歩に慣れた当時の人間なら歩けないこともありませんが、しっかり旅支度をしたうえで一泊しての“旅行”となりますね。

馬または馬車を借りて行くことも可能でしたが、畑仕事で生計を立てていた諸葛亮がそんな金を投じてまで行ったかな? 親族が金を出すということあり得るが、さすがにそれは断るはず。


私のイメージでは、――つまりこの小説の設定では、諸葛亮は当時「出仕する気がなかった」。だから現実に長年出仕せず畑仕事で暮らしていたわけなのですが、親族に強く言われて仕方なく劉備開催の面接会場へ行っています。

だとすれば小説の設定上も、遠い新野まで一泊旅行の歩き旅をするのは整合性がなくなるでしょう。そんな情熱をもって面接会に駆けつけるのはおかしいということ。


いっぽう樊城は当時、襄陽城と河を隔てた対岸にありました。今の地名だと襄陽市内になります。


ということは諸葛亮が当時住んでいた隆中からも徒歩で一日圏内。

だとすれば、樊城なら「親族に言われて仕方なく行った」としても不自然ではありませんね。


結論として、劉備と諸葛亮の初対面の場は新野ではなく樊城とするほうが妥当と考えました。

(史実としても当小説の設定上も)



■劉備は何故、樊城で面接会を開いたのか?


裴松之注『異説』記録文は地名・時期ともに確かだということは分かりました。


では当時新野を本拠としていたはずの劉備が何故、樊城で面接会を開いたのでしょうか?


ここからは推測ですが、劉備は荊州領主・劉表のいる襄陽城を頻繁に訪れていたはず。

その都度、劉備を襄陽城に泊まらせるのは難儀なので劉表は彼に樊城も与え、宿泊地としていたのでは。


劉備が樊城で面接会を開いた理由は、やはり新野だと遠くて首都から来る人が大変だからではないでしょうか。

当然ながら荊州でも学がある高級人材は“首都”の襄陽に多く住んでいました。このため劉備がわざわざ樊城へ赴き面接会を開いたのだろうなと思います。


もっとも当時の劉備は大変な人気だったため、新野でも募れば出仕希望者が殺到していたはずです。

むしろそのことが分かっていたからこそ、面接者の労を減らすために襄陽の近場で開催したのでしょう。途中の宿泊地も混雑してしまいますから。


現代人には想像しづらいことですが、当時人気者だった劉備が動くところ人が集まり混雑しました。宿泊地ではトラブルも多く発生したでしょう。

そのようなことをなるべく避けるために樊城で面接会を催したのではと思います。劉備の気遣いを感じます。


近場で開催されたおかげで、世事に関して“やる気のない”青年だった諸葛亮も面接会場へ行くことになりました。

面接会が新野でしか開催されていなかったら三国志の物語も存在しなかった、と言えるかもしれない。運命とは不思議なものです。



■“城主”と呼ぶのは違和感でしょうが、ご容赦を


作品中の呼び方について補足です。


この小説内では出仕前の諸葛亮が劉備を「城主」と呼ぶ箇所があります。(地の文で)

これは時代地域を定めない架空小説だった、旧『我傍に立つ』の呼び方をそのまま引き継いだものです。


当時の劉備は樊城に駐屯していたので、庶民からの呼び方で「樊城城主」は間違っていないかなと思いますが(当時の人がそう呼んでいたということではなく現代日本語の小説設定として)、一般の三国志フィクションに慣れた方は違和感を覚えるかと思います。


ちなみに正史本文でどう記録されているかというと、諸葛亮は当時の劉備を「将軍」と呼んでいます。

「将軍」…確かにその尊称が正しいのでしょうが、日本語だと違う気がしませんか? 「将軍」は日本語で最前線に切り込んで行く強い武将のイメージ。劉備のキャラクターと合いません。

そこで地の文では「城主」または「劉皇叔」と呼ぶことにし、会話文中『天下三分計』では正史ママで「将軍」と呼ぶことにしました。


不自然に感じられるかもしれませんが、日本語小説の工夫としてご容赦ください。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ