第29話:猪牙
三人称視点の過去編です。
ガーディナスとフルブラッド達の話し合いから三日、ガーディナスは約束通り魔王討伐遠征にアステルギア国を旅立った。ガーディナスの討伐対象は水の魔王シルトロード、光の魔王と共にムーダイル達の両親であるバルトロナスとディーシャを死へと追いやった存在、その片割れである。
今回、水の魔王は光の魔王と共闘しておらず、あれから光の魔王の存在も確認されていない。魔王の侵攻ルートは前回と同じで北方から南下してテミス連合を目指すルート、その中間にアステルギア国が存在する。ガーディナスはアステルギア北方の領地境界を越えた先、タロス平原で水の魔王と戦う予定だ。
国内で転移陣の設置してある場所なら、転移魔法によって移動することが可能であるため、ガーディナスは転移魔法で北方の境界都市デルストークへ移動、その後は陸路でタロス平原へと向かう。タロス平原はダイモーン帝国の領地であるため、直接転移魔法で移動できないということもあるが、タロス平原は異常魔力の嵐が吹き荒れる場所で、転移魔法が安定しないということが大きかった。
転移魔法自体は発動できても、その出現先を精確に指定出来なければあまり意味がない。土や水の中に転移してしまったり、目的地から大きく外れた場所へ転移してしまう可能性があるからだ。ガーディナスは水や土の中に転移した所で死ぬことはないものの、目的地から大きく外れた場所へ転移してしまうのは大きな問題だった。
基本陸路であるために移動に時間がかかり、さらにダイモーン帝国は遊牧国家で様々な遊牧民族が存在し、その中には好戦的な部族もいる。事故的に転移し、そういった部族と接触した場合、戦闘になるかどうかはともかくとして、足止めされてしまうことが予想された。ダイモーン帝国自体には魔王討伐の話がアステルギアから通してあるが、その取り決めもどこまで効力があるのか不確かなものだった。
ガーディナスは予定通り、境界を越えて陸路でタロス平原を目指した。平原へと向かうためのルートもまた平原で、街道は存在せず、多くの魔物が跋扈していた。見渡す限りの視界のほとんどが草原で、水場もほどよく存在する肥沃な大地だった。魔物達のほとんどはガーディナスに襲いかかることはなかった。襲いかかろうと接近まではするが、いざガーディナスに近づくと、自身とガーディナスの力量差を感じ取り、逃げていくことがほとんどだった。
それでも無謀に挑みかかる魔物もいたが、多くは巨大で若い魔物だった。自分が強いと思い込み、強者と戦った経験のない魔物だった。そういった魔物に対しガーディナスは剣を抜くこともなく素手で一撃、殴り飛ばすだけで対処した。その一撃は致命傷一歩手前レベルに加減されていて、そこまでのダメージを受けると無謀な魔物達も生存本能を働かせて逃げていった。加減しなければ魔物は死んでいたことだろう。
だがガーディナスは魔物を殺すことはなかった。これまでに魔物討伐の遠征で数え切れないほどの魔物を殺してきたが、この旅でガーディナスは一度も野生の魔物を殺すことはなかった。そうして歩みを進め続けていると、その一帯の魔物達はガーディナスに道を譲るように、ガーディナスの前方から去っていった。
「……お前達の方がよっぽど賢いな……俺はもうこの肉の世界から……人の世界に疲れちまったよ。俺は今まで守られていたんだな……己の強さが、己の無力さを覆い隠してた。魔王を殺して、それで何が変わるっていうんだ……どうしたら、あの頃みたいに戻れるんだろうな? お前達に言っても仕方ないことだよな……」
好戦的でない魔物、人に友好的な走鳥の魔物達はガーディナスの移動を邪魔せず着いてきていた。ガーディナスの側にいれば自分たちが他の危険な魔物に襲われることはないと思ったからだ。そんな魔物達に、ガーディナスは複雑な心内を語りかけていた。
「メゥゥ……」
「はは、まさか同情してるのか? そんなに今の俺が弱そうに見えるか? 互いを対してしらない同士で、種族も違う、魔物であるお前達ですら俺を想えるのに、人同士でまるでうまくいかない。お前達の方がよほど人らしさを持ってるぜ……こんな馬鹿な話があるかよ。ヒト族、人間、傲慢もいいとこだ。人らしさを失っても人と名乗れる、俺達のどこがヒトなんだ? 父さん……母さん……俺、自信がないよ。
あいつらを守ってやる自信がない、命も心も、守ることがこんなに難しいなんて知らなかった。俺の力があればなんとかできるって……勝手に思ってたけど、結局さ、俺は戦うことしか能がない。魔王からあいつらを守れても、それ以外ができる気がしない、フェルトやディアは頭がいいから、俺が心配するまでもなく勝手にやるべきことをやるだろうって思うけど……あいつらの心はどうなる?」
走鳥達は話の意味は理解できていないようだったが、ガーディナスの気持ちは分かるようだった。知性が高いらしく、守って貰っているガーディナスに対し仲間意識を抱いているようだった。仲間意識というよりは護衛の愚痴を聞くような感じかもしれない。守って貰っているのだから、どうにか元気づけたいといったところか。
「もうずっと滅茶苦茶だ、敵を騙して自分を偽ることが普通になって、嬉しいことも楽しいことも忘れちまった……心の中のなんかが、もう壊れかけてんだ。ムーダイルがいたら……まだ、あいつらは笑えたかもしれないって最近は思うんだ。俺もみんなも、判断を間違えたのかも知れないってさ。あいつはずっと……俺達の心を守ってたんだ。心の盾を……俺達は手放したんだ。自分たちで手放した、守られてたのはこっちだったってことも知らずに……
俺だけじゃない、ディーシャもフェルトもディアも、ネルスタシアも、いつもあいつに元気づけられてた。人の心に寄り添って、癒やすことがどれほど難しいか……俺は、一番兄ちゃんなのに、弟のあいつを頼ろうとしちまうなんてな……
父さんと母さんが死んで、ムーダイルが旅立って、生活が変わっていって、嫌な気分になった時、誰かに助けて欲しいって思った。でもそんな姿、あいつらには見せられないからさ……助けて欲しいって思った時、思い浮かんだ姿はムーダイルだったんだよ。父さんでもなく母さんでもなく……あいつだった。おかしな話だよな。
あいつがいたら……きっと俺に、大丈夫だよって言って、俺は馬鹿みたいにそれを真に受けて、ムーダイルも一緒に前を向けた気がする。きっと、他のみんなもそうなんだ。些細な言葉の一つも、それが心からの言葉なら、すげーでかい力になるんだよ。でもまぁ、とりあえず俺は魔王を倒さないとだな。つまんねー話聞いてくれてありがとな、お前ら」
ガーディナスはそう言って微笑みながら走鳥の体を撫でた。走鳥はそれを嫌がることもなく嬉しそうにしていた。そうしていた所──
「──ほんとうだ! 本当にハイモーンがいたぞい!! ちょっとあんた、そんな徒歩で歩いてたら日が暮れちまうぞい!」
「は、ハイモーン? あんたらさっきから俺のこと着けてきてたけどなんなんだ?」
生い茂る草に身を隠していた人々が走鳥に乗ってガーディナスに近づいて来ると、走鳥から降りて、ガーディナスをキラキラとした瞳で見つめていた。
「おお! ワシらはダイモーンの兄弟、ガイモーンの一族で、ワシはフラッチャっちゅーもんじゃ。まぁ今はここらをまとめとる部族でな、まぁそんなことはどうでもいいぞい。それよりもあんただ。あんたはハイモーンだからワシらはあんたのために働かねぇといかないんだ」
「ああ、よろしくフラッチャ。それでハイモーンってなんだ?」
「ハイモーンは伝説の戦士のことよな。魔物たちがその道を譲り、走鳥が自然と集まって、普通は走鳥を触るまで時間がかかるもんを、一瞬で許される。そんな言い伝えがあるんじゃよ。大昔、このダイモーン帝国が魔王に滅ぼされそうになった時、ハイモーンが魔王を斃したんじゃ」
「ああーつまり勇者ってことか。俺は勇者だからまぁ間違ってはいな──」
「──ちっがーう!! 勇者なんかとハイモーンを同じにしちゃいかんよ? ただの勇者がハイモーンになれるわけないぞい! それに大昔に現れたハイモーンは勇者じゃなかったのに魔王を斃したからすごいんじゃよ!! でも、あんた勇者なのか、それでしかもハイモーンって……一体どんだけ強いんじゃ……」
「勇者じゃないのに魔王を斃したやつがハイモーン。そうか、今までも何度かそういうことがあったんだっけか。大体は王族とかだったと思うけど、そのハイモーンはなんだったんだ?」
「大昔のハイモーンは王族でもなんでもない南方の農民だったって聞いたぞい。荒れた土地が嫌になってこっちに引っ越してきたけどその時に魔王が現れて、ハイモーンは勇者と共に魔王と戦ったんじゃ。南の方じゃその戦いが勇者のおかげで勝ったことになっとるが、そうじゃない。ハイモーンが魔王を斃したんじゃよ。ワシらのご先祖様たちはそれをしっかり見てたからのぉ。
だからこの国のもんはどんな部族だろうと、ハイモーンに恩があるのよ。だけんど、ハイモーンが生きてる間に恩を返しきれなかったから、生まれ変わったハイモーンが現れたら、ワシ等は全力でその手助けをしなきゃいけんのよ!! あんたはそのハイモーン、伝説の戦士の生まれ変わりなんじゃよ!! まさかワシ! この目で伝説の戦士に会えるとは思ってなかったからスゲー感激なんじゃ~~~!!!!!」
フラッチャはガーディナスに話すことでよりその実感が高まったのか、嬉しさから飛び跳ね、小躍りしている。初老の髭を蓄えた男だが、まるで子供のようはしゃいでいた。
ガーディナスはいまいち状況を把握できなかったが、フラッチャ達ガイモーン族のもてなしを受けることになった。ガーディナスは急ぐからと断ろうと思ったが、熱意と移動手段、戦力を提供するからと押し切られ、結局もてなされることになった。
魔法の炎で照らされる草原の夜、ハイモーンのための宴は始まった。現地の肉の煮込み料理や酒、お菓子が振る舞われ、歌や踊りで騒いだ。それは明るく楽しいもので、しばらくの間、ガーディナスが忘れていたものだった。それを噛みしめるようにガーディナスは肉料理を口へ運んだ。
「なるほどのう、アステルギアは今そんなことになってんだなぁ。ワシが思うにさっさとフルブラッドって野郎をぶっ殺せばいいと思うけんどなぁ~」
「でも強引にやったら、罪のない人に死者が沢山でちまうからな。女子供だって沢山死ぬことになる」
「そりゃ確かに心苦しいけどなぁ。病気の元は全部切り取らねぇとダメだぞい。膿を出すときゃ痛いもんだ。中途半端だと良くなるもんも良くならねぇもんよ」
「フラッチャが俺だったらそれもできたろうな。だけど俺も他のやつらもそれができない。ディアは……妹の一人はそれもできたかも知れねぇけど。そんなことやらせたくない。でも俺は良い方法を編みだす頭もねぇからさ……もやもやしてんだ、ここ最近ずっとな」
愚痴ををこぼすガーディナスだが、その表情は一人のときよりもずっと明るく、しっかりとしたものだった。勇者故にその高い耐性から酒を飲んでも酔うことはないが、酒の席の雰囲気に酔い、少し開放的になっていた。
ガーディナスの心の強張りが少し解け、ガーディナスは自然体の自分へと戻ることができていた。張り詰めた雰囲気が消えるとフラッチャだけでなく、他のガイモーン族の戦士達もガーディナスに話しかけてくるようになった。皆伝説の戦士に話しかけるのは恐れ多いという考えがあり、その伝説の戦士がピリピリとした雰囲気を纏わせていれば、当然話かけることなどできない。だが、一人、一人と戦士達がガーディナスと話していく度に、警戒心は薄れ、一緒に酒を飲み交わすまでになっていた。
夜の暗さと魔法の炎による光はガーディナスの心の様相を表しているかのようだった。見通せない暗さの中で、少しばかりの人の温もりを受け取って、ガーディナスは前向きな自分を取り戻しつつあった。宴もたけなわといった所で、ガーディナスはガイモーンの人々に向き合い、口を開いた。
「皆ありがとう。腐ってた俺の心も、お前らのおかげで前を向けるようになった。本当は戦いに巻き込みたくなかったけど、お前達の熱意を無碍にすることはもっと嫌だからな。魔王の討伐をお前らガイモーンの戦士達に協力してもらうことにした。相手は魔王、危険な戦いになるが、力、いや命を貸してもらう。だが俺も、かつてのハイモーンに恥じない戦いをすることを誓おう」
ガーディナスがガイモーンの戦士たちとの共闘を認め、ハイモーンに恥じない戦いをするという宣誓をしたところ、ガイモーンの戦士達は大いに沸いた。口笛を吹き、雄叫びをあげ、踊りだす者もいた。
「だが、それでも俺はお前達の期待を裏切ることになる可能性があることをここで言っておかなきゃいけねぇ。俺が今からする戦いは普通の戦いじゃない、この魔王との戦いは邪悪な人の意志が関わっている。だとすれば、敵が水の魔王一人だけというのはあまりに不自然だ。何故なら俺であれば一人の魔王相手などまるで問題とならないからだ。
きっとこの戦いは何か仕掛けられている。もしこの戦いがそんな悪意に穢されているのなら、それが明らかになったなら、どうか逃げて欲しい。戦士に逃げろというのは無礼なことかもしれない、恥かもしれない。だが俺が逃げろと言ったら絶対に逃げてくれ。穢された、誇りなき戦いで死ぬなんて絶対駄目だ。いつか戦いで死ぬとしても、それがお前達の納得できるものであって欲しい。ま、これだけ言っといて何もないかも知れねぇけどよ」
誇りなき戦いで死ぬことは許さない、穢された戦いであれば逃げろ、ガーディナスの言葉に騒いでいた戦士達の顔つきは真剣なものへと変わる。危なかったら逃げろと言われても誰一人怒るものはいなかった。ガーディナスは戦士達からすれば見ただけで遥かに自分より強いと分かる存在だ。そのガーディナスが釘を刺すだけのことがあるのだと、戦士たちはガーディナスの言葉から背景を読み取った。なんとなくのものではあるが、結局ガーディナスの話す時の表情が大きかったのだろう。
真剣そのもので、不器用さを隠せない男が戦士たちを本気で思っての発言だと伝わったからだ。ガーディナスは気持ちを汲み取った戦士たちの顔を見渡し──
「──勝つぞ。そんでまた酒を飲もう」
その一言で、静まり返っていた宴はまた騒がしくなった。
死、それが迫る現実感を感じながら、それまでの時間を全力で楽しむ。隠せぬ戦いへの興奮が人々に一体感をもたらしていた。
翌朝、ガーディナスがガイモーン族のテントで起きると外には武装した大勢の戦士達がいた。明らかにガイモーン族の戦士達の数よりも多い、そんな光景を眺めているとフラッチャがガーディナスの方を見てウィンクしている。フラッチャは宴の段階で周辺部族達に新たなハイモーンと魔王との戦いのことを伝えていたのだ。それにより興奮を隠せない周辺部族達は大集結し、一国を滅ぼせるかというほどの戦力が集まっていた。
見渡す限りの景色が草原であるはずの場所が、一人では数え切れないほどの戦士達で満たされていた。ガーディナスはフラッチャから走鳥を貰い、簡単な乗り方を教えてもらうと大群を引き連れてタロス平原へと移動を開始した。予定と違い宴もあったが、走鳥に乗ることによって予定よりも早くタロス平原へ到着した。予定になかったのは心強い戦力も同じだ。
タロス平原には様々な種類の大量の魔物たちがいた。しかしひと目でそれは水の魔王の配下のものであると分かる。その魔物たちの額には水の魔力で満たされた魔術刻印が刻まれているからだ。そして、その魔物の軍勢の中央に水の魔王はいた。魔王シルトロード、銀髪で金属と人の肌を持つ女型。水の魔力は青く体を脈打ち、白目の部分が黒く、金の瞳をしていた。金属の肌さえなければ魔族の女と言われれば素直に納得してしまうような見た目だった。
号令の角笛が響き、雄叫びと共に戦端の幕は切って落とされた。魔物たちと戦士たちがぶつかり合っていく。剣が槍が、牙と爪としのぎを削る。金属がぶつかり削れ擦れる音、骨肉が砕かれ、皮が裂かれる鈍い音が響く。人と人でないモノの戦い、魔物たちはただの魔物ではない、魔王の配下であるが故にそれらは統率され、ただの野生の魔物よりも厄介で、より残虐だった。水の魔王の加護を受けた魔物たちは水の力が強化され、殺した戦士達の血から魔力を吸い上げ、己のものとした。
だが戦士たちも負けてはいない、魔力を込めた音魔法による咆哮で、魔物達の魔力吸収の力の流れを打ち消し、カットした。そうした戦いの中、ガーディナスは一点を目指して駆けていく。魔物が多すぎるために走鳥に乗って向かうことはできない場所、魔王の元へ、人の足で駆けていった。大型の魔物の股下をくぐり、邪魔な小型の魔物を殴り飛ばし、魔法を詠唱する魔物には距離を詰めて剣で斬り殺した。魔物たちはどうにかガーディナスを囲もうとするが、それは叶わない。速すぎる移動速度と魔物を殺すスピードが異常であったからだ。
魔物たちがガーディナスを目で追う間にその通り道は魔物の死骸で満たされていた。ガーディナスが流れ作業的に、淡々と、必要最低限の動きで魔物を殺すために、派手さはまるでなく、ただ気絶しているだけのように見える。そのため、魔物たちはガーディナスが自分たちでは戦闘力を精確に測ることのできない格上と認識しても、まだ自分たちで対処できる程度だと誤認してしまった。異常なスピードであっても、威力のあるように見えない攻撃ばかりする勇者。
一撃でも与えてやれば、勝てると思ってしまう。だがそれはありえない。ありえないからこそ、ガーディナスの軌跡には死骸の山があるのだ。あまりに積み上がりすぎた山が生まれる。そうして初めて魔物たちは気づく、この勇者は尋常ではない、自分たちではまるで相手にならないと、だが撤退の判断もガーディナスからすれば遅い。
逃げると判断する頃には、その判断ができる魔物しかその周辺には残っていなかった。そうした事実に気づいた瞬間に、魔物の眼前には勇者がいた。その魔物の首が刈り取られ宙を舞うと、魔王へと至る道はガーディナスによって完成された。
水の魔王とガーディナスの視線が交差する。ガーディナスの瞳には勝利の色が、シルトロードの瞳には敗北の色が映っていた。シルトロードは確信する、自分はこの勇者の剣によって滅するだろうと。焦りから後ずさるシルトロード、絶望の中でシルトロードはなぜか笑っていた。
「なに笑ってやがる。そんなにヒトごときに負けるのが面白いのかよ?」
「余が殺したお前の父と母は言っていた。余は息子であるガーディナスによって殺されるだろうと……ははは、勇者としての力もほとんどないだろうに、ここまでの力をどうして出せる。面白い、これほど面白いことはないだろう! 魔王よりよっぽど化け物がヒトで、ああ、それがなぜか分かれば、余はお前にも勝てたのか?」
「──ッ、知らねぇよ。死んでお前の神に教えてもらえや!!」
勇者としての力もほとんどない、意味深なシルトロードの言葉にガーディナスの判断が一瞬遅れた。その一瞬がなければ、シルトロードは死んでいただろう。シルトロードは死ななかった。首元に振り下ろされるはずだった剣が降りてくることがなかったからだ。ガーディナスはシルトロードのことを見ていない。そして殺されるはずだったシルトロードすらガーディナスを見ていない。
二人の敵対者が見るものは同じ、その視線の先には猪がいた。それは丘のような巨体で、夕暮れ時であった日差しを巨体が遮った。灰色の青い苔で覆われた毛皮は夕日に照らされて紫色に輝く。毛皮には長く捻れた毛先があり、意志を持つかのように蠢いていた。その猪の赤い目がその戦場のすべての命を捉えていた。一対の巨大な牙は見たものに死を想起させた。その死の感覚は間違いではない、事実その牙は数え切れないほどの命を、世界創生の頃より吸ってきた。この戦場全てを覆い尽くす殺気が、イノシシから放たれていた。
人も魔族も、精霊も、神も、この猪の破壊衝動を満たす贄でしかない。猪に戦う気などない、ただ全てを蹂躙するだけだ。
「逃げろおおおぉぉぉっ!! 原種イノシシだあああ!! はやく逃げろ! お前らあああああ!! そいつには絶対に勝てん!! はやく──」
原種イノシシ、ハムドールが王となってしまった原因の一つ、ハムドールの兄であるアリスグエルを殺した猪だ。魔物討伐遠征からアリスグエルから帰ってくるところを殺した。その護衛として存在した部隊も全滅した。文字通りの全滅、その場にいた全ての存在が死亡した。アリスグエルや兵士だけでなく、周囲にいた魔物も精霊も、一切合切の命を奪う全ての命の天敵である。
それが原種イノシシだとガーディナスの叫びによってこの戦場の命達が理解しても、すぐに逃げても、大した意味はなかった。
原種イノシシは牙を地面に突き刺し、大地そのものをすくい上げるようにして投げ飛ばした。大地が……戦場を下敷きにした。国を滅ぼすレベルの大群と互角の数の魔物の軍勢、当然比喩ではなく見渡す限りが戦場だったが、戦場そのものが消えたかのようだった。ガーディナスは空から降ってくる大地に対して斬撃波を飛ばし、弾き飛ばすことでできるだけ多くの命を救おうとした。
しかし、大部分の大地はそのまま降ってきて、ほとんどの命は一瞬で失われた。運良く逃げ延びた者をがいたことをイノシシがその”目”で確認すると、イノシシに見つめられた命は動けなくなった。威圧感と恐怖でその身体が硬直し、麻痺してしまったのだ。イノシシが近づいてくるごとに、巨体から放たれる振動が地を伝わってくる。それを感じとることができても、体を動かすことはできない。
見つめられた命の一つはフラッチャだった。フラッチャにたどり着くまでにイノシシは動けない命を咥え、噛み砕いては地に捨てた。それを見てフラッチャは恐怖から尿を漏らし、充血した目からは涙が溢れた。逃れられぬ圧倒的な死を感じ、フラッチャは戦士としての誇りある死も伝説の戦士も、それ以外の生きる全ての目的を忘れた。全ての思考と魂が死の未来に塗りつぶされようとしていた。
「──うあああああああああああああああ!!!!!」
──ガゴオオオオオオン
鈍く重い音が響く。それは切断するように放たれた、ガーディナスの全身のバネを使った渾身の一撃だった。だが切った音はしない、切ろうとした相手は硬く、振るった剣が歪んだだけだからだ。
原種イノシシにダメージはない、しかしイノシシは目を見開き驚いた。
『強きヒトに会ったのは初めてだ。創世の暁から今まで見た技の中で……二番目に強い』
「なっ、しゃべっ……──」
イノシシの口は動いていない。その思念がそのままガーディナスへと送られていた。
『殺すのは惜しいが、我にはこの殺戮の衝動を止めることは叶わない。故に全身全霊で抗い、生きてみせよ』
イノシシの牙がガーディナスだけを狙って動く。その動きは一見するとゆっくりとしたものに見えるが、イノシシが巨大なためにそう見えてしまうだけで、速く鋭いものだった。ガーディナスはイノシシの牙を避けきった。イノシシが牙を振るう度に衝撃波が生み出され。衝撃波は地面や転がる死体や恐怖で動けないモノを裂いていった。そして放たれた衝撃波がフラッチャへと向かっていった。
ガーディナスはその衝撃波を剣を使って体全体で受け止めた。巨大なエネルギーの塊がガーディナスの全身を貫いていくが、ガーディナスは倒れない。少しばかり吐血するが、戦う意志は失っていない。
『我を前にしても他の命を想えるとはな。勇者も魔王ではない我に対して、恐怖を感じるはずなのだがな……ただの勇者であれば、あの一撃を放てるはずもない……か。他の勇者は皆、我を見て動けなくなったが、お前は違う。
真の勇者よ、これより我は力を使う。一方的な殺戮ではなく、お前との戦を行う。我に傷をつけるのだ。さすれば生き残ることも叶うだろう』
原種イノシシの巨大な頭が空を仰ぎ雄叫びをあげた。空が響き割れ、雲が散って消えた。穴のあいた空に向かって、イノシシから伸びる真っ赤な魔力が突き刺さっていく。すると、空があるはずの空間そのものが波打つように蠢いた。空という皮の下に大量の巨大な虫でもいるかのように、激しく蠢いた。空が透けて赤い光が漏れ出てくる。イノシシの魔力でこの一帯の空が消えようとしていた。
ガーディナスはその異様な光景の中で取り乱すことはなかった。イノシシに傷をつけてみろと言われてから、ガーディナスはイノシシへと放つ一撃のために極限まで集中しており、それ以外の一切を見なかったからだ。
「──心刃・斬鉄・骨断ち・光刃・暗剣・音切り……重ね──景糸斬り!」
ガーディナスは今までに鍛え上げてきた必殺剣の全ての技術を一つの終着点へと重ねた。目指した景色は存在の境界線、その線、糸を斬ること。皮が弾けて血が水に滲むがごとく、それを──空間を隔てる境界線という概念そのものを斬ろうとした。空間を斬るのではなく、それを隔てる薄皮を斬る。その薄皮はどのようなモノにも存在する。そう──それが神さえも殺す化け物だろうと。
だがガーディナスはそのやり方を知らなかった。今までにその糸を斬ろうと思ったことすらなかった。まるで未知であったはず、しかしガーディナスは眼前の、この神話の化け物を目にすることによって理解してしまった。渾身を一撃を弾かれた時の感触が、剣を伝い、ガーディナスにその理を教えていた。イノシシは何層もの空間を重ねた鎧を着ていた。衝撃も斬撃も全てはその鎧で消える。しかし、鎧の重なった大気に弾かれ大きな音を立てた時、その音だけはイノシシの毛皮を揺らした。
イノシシに伝わった音は、自分に跳ね返ってきた音よりもずっとずっと小さく、イノシシに傷を与えることはできない。だが、返ってくる音から、ガーディナスはどこに境界の糸があるのかを理解した。それを叩き斬る。けれども、どの技でそれが切れるかは分からない。
──だからガーディナスは全部の必殺剣を試すことにした。精神を斬る心刃斬りを、鉄の属性を斬る斬鉄を、殴るように衝撃を内部に伝える骨断ちを、亡者を殺す光刃を、闇の剣の暗剣を、音による斬撃の音切りを、一つ一つ試し、次に二つを同時に繰り出し、組み合わせを試し、三つを同時に、そして五つを同時に重ねた時、音と鉄と心と光と闇が重なった時、剣はイノシシの牙の一つを断ち切った。
──ギオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
イノシシは生まれて初めて感じた痛みに叫び、のたうち回る。ガーディナスはそれを見て、倒れたフラッチャを背負い走り出した。力いっぱい「撤退しろ」と叫びながら。その声で恐怖から正気に戻った数少ない生き残り達は戦場から去っていった。
ガーディナスは生き残った。創世神話の化け物の牙を断ち切り、生還をいう奇跡を果たした。この戦場で生き残った者達は、原種イノシシに見られて生き残った、創世の時代より初めての存在となった。
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