第66話 白瀬上沼②
どよぉ~ん
明らかに誰からもわかるほど、田中先輩が落ち込んでいる。
「そんなに気にすることはありません。湿地あるあるです。もともと水を多く含んだ脆弱な土壌ですから、上から押さえるとスポンジのように水がでて萎んでしまうんです。今回は軽トラの重さで沈み、さらに、排出された水でぬかるんで出られなくなったんです。あのまま何もしなければ、もっと沈んでました。早めに電話をいただいて良かったです。」
木山さん、実は、決して、早めではなかったんです。
散々、あれこれしたんです。
そして、たぶん、自分がぬかるみにはまってしまったところから反省してます。警察官にねちっこく質問されたんです。
「木山さん。手数をかけてしまってすまなかった。あの辺りはパーキングもなかったんで、安易に停めちまった。〈あるある〉ならなおさら気をつけなきゃいけなかった。」
田中先輩がさらに落ち込む。
「本当に気にしないでください。だけど、きっと日枝さんにはこってり絞られます。それは覚悟してください。戻って来たときの格好が、なんとも凄かったでしょう?」
白瀬上沼から帰って来たとき、二人とも散々な格好だった。作業着どころか靴下まで泥だらけで、汗で髪はべっとりと顔に貼り付いていた。ズボンは、ドロボウだらけで、さらに、ドロボウに泥がつき、まるで新種の虫にそこらじゅう噛みつかれたようになっていた。長靴を脱いだ後に作業をしたから、履いていった靴も汚れて車内も泥だらけだ。どうしたら座席シートまで汚れるんだと皆に誂われた。軽トラの荷台には、ショベルなどの道具も汚れたままで、雑然とぐちゃって重なっていた。
その様子を見て、日枝さんは衝撃を受け、目が点になっていた。
日枝さんは、もともとキレイ好きでお洒落ということもあるが、『いつも整理整頓は職人の基本だ、良い職人は道具を丁寧に扱う』と、繰り返し言っている。自分の道具は自分の手足、汚いまま作業をすれば作品も汚れるし、自分も怪我をする。服装も、だらしない着方は事故に繋がるって、袖口のボタンを締め忘れただけでもすぐに直される。
戻って来たときの、あの泥だらけのへろへろな格好を思い出す。
ああ、絶対に、確実に、叱られる。
いろいろ、突っ込みどころ満載だったと自分でも思う。
「それと、社長から、当日は手伝うように言われていますので、作業は私もご一緒します。」
木山さんは僕たちの様子を見ながら楽しそうに言う。
もしかして、社長にも怒られるのか。トホホ。
「当日、車をどうするかな。鉄板を敷くか、依頼主の家に置かせてもらうか。」
「そうですね。依頼者の家に停められるなら一番良いですね。」
何気なく、木山さんは、田中先輩の横から書きかけの見積案を覗き込む。
「不法投棄が多かったようですが、それはどうするのですか。」
「そう、そうなんだ。悩んだんだが、積算には入れておこうと思っている。草刈りに邪魔だから、やはり取らざる得ない。そうすると金額は跳ねあがるんだが仕方ない。問題はワニをどうするかだな。」
「ワニですか。」
そう、ワニだ。下見では本当にワニがいるのかを確認できなかった。野鳥はいたが、大型の捕食者の気配はなかった。人間を餌として狙えるほどの大きさなら、田中先輩がぬかるみにはまったときに捕食しようと近くに来ただろう。だから、小型種か、他の何かだろうと話をしていた。
「行政への手続きなど、絶対に必要な経費は計上しておいた方が良いですよね。」
「そうなんだが、ワニの捕獲許可はいらないんだ。捕獲してもワニはペットだから遺失物扱いだ。だけど、万が一、許可の必要な鳥獣の場合、手続きしておかないと放獣しなきゃなんなくなるから悩ましい。どちらにしろ、ワナを設置したら毎日、見回りはしなきゃなんないから手間は同じなんだ。どうするかな。実際、何も捕獲できないと思うんだ。依頼主に目に見えるものがないのに、費用ばかりかかんのは、ちょっとな。」
「本当にワニなら、誰かに捨てられたんですよね。飼い主は名乗りでるものなんでしょうか。」
木山さんの疑問はごもっともだ。
「ワニは確かチップが入っている。名乗りでなくても、たぶん、警察が問い合わせれば教えてくれる。だから、遺失物として届け出ると所有者が判明するのがわかっているから、本人が受け取りに来るまで警察から預かってくれって頼まれたりしてな。本当にワニなら捕獲できても面倒なんだ。」
そうだ。危険生物だからチップが入っているんだ。
確かに、きちんとした輸入業者が絡んでいれば、すぐに判明する。
そういう人に限って、また捨てるんだよな。あれっ? また捨てられたりしたらどうするんだ?
・・・。
あ。チップで飼い主が判明するから同じことの繰り返しか。イタチゴッコだな。
それなのに何故捨てるんだ。謎だ。
「うーん。だけどなぁ。ワニかぁ、なんか違う気がするんだ。」
田中先輩は首をかしげ、うんうん悩んでいる。
「田中さんのヨミは、ワニ以外なんですね。」
木山さんに向き直り、
「そうなんだ。はじめは、小さい種類のワニか、イグアナのような爬虫類かと思ったんだが、そういうのは沖縄とか、暖かい地域では増えて困ってるって聞くんだが、冬に雪の降る地域ではあまり聞かないんだ。冬を越せない気がするんだよ。」
「言われてみれば確かに。変温動物ですから多くは死んでしまいます。どこかに温泉が吹き出ていたり、燻っている火種があって暖がとれるなら別ですが。」
木山さんも頭を傾げる。
「そうなんだ。それに水路の水は決して暖かくない。むしろ沼地の方が暖かいと思うんだ。ワニのような体温調整ができない種類がこの場所にずっといるのかなと。歩いて移動できるだろ。沼の方が餌も豊富だ。そう考えると、菅原さんも言っていたとおり、カメが一番可能性が高い。カミツキガメは水に潜っていることが多いし、氷が張っていても活動していることもあるようなんだ。」
本当にカミツキガメかもしれないのか。
「なるほど、カメですか。ワニより現実的です。実際に下沼のカメは活動しているものがいましたしね。それに水路の水源は下沼の湧水ですから、冬場に雪が降っても凍らない。冬眠していない個体がいてもおかしくないかもしれない。依頼者にはカメ捕獲で提案してみてはいかがですか。」
そして、ワニからカメの捕獲大作戦になった。
<ドロボウ>
ドロボウ草又はひっつき虫と呼ばれる植物で、種子等の表面がカギ型に曲がり毛がびっしりと生えている種類やトゲが逆さについていて、衣服の繊維にくっつき、一度くっつく、なかなか取れないようになっている植物です。オオモミやセンダングサなどのことです。人間や野生動物が種子を遠くに運ぶ運搬役になる感じでしょうか。




