第65話 白瀬上沼①
僕は、今、白瀬上沼付近の枯れ草の中にいる。
一面、白茶けた様子に見ているだけで寒さを感じる。
白瀬下沼はこの辺りの陸田の水源になるほど水量が豊富な沼だが、一方で、白瀬上沼は一面、ヨシなどの丈のある植物で、沼というより湿地、湿地というより荒涼とした原野になっている。そして、その上沼に沿って下沼から水路が通っている。
菅原さんからは下草と聞いたのに、ヨシなど丈があるものばかりで下草ではない。沼と耕作放棄地の境はまったくわからなくなっている。それでも、昨年にあった火災の影響で、草木が少ないらしい。
しかし、沼は一見して水がなくても、沼地だから不用意に入り込まないよう依頼主さんから釘をさされた。ぬかるみに嵌ったら、人が通らないから、助けも来ないし、出られず危険なんだ。電波状態も悪いから危ないよって。でも、境界がどこからかわからないから、その危険な場所がどこから始まるのかわからないよ。
恐る恐るかき分けるように進む。
そう、今日は菅原さんから相談のあったワニの目撃情報の現況確認をしに来た。田中先輩も一緒だか、スタスタと先に行ってしまった。すっかり置いていかれ、誰もいない原野で迷子になりかけている。
向こうに何か黒い物が見える。
良かった。はぐれずにすんだ。
少しホッとして小走りに近づいていく。
げ。黒い物、不法投棄された自転車だった。
自転車の周りのヨシがなぎ倒され、パドル焼け溶けて炭のように黒くなっている。
ガサガサッ
突然、音がした。
音のした方角を振り向いたが、シーンとして誰もいない。ただ、カサカサ、ザザザッとヨシが擦れ合う音だけが響く。
なんか怖い。
道もあるんだかないんだか、枯れ草でわからなくなっている。
しまった。完全に迷子だ。
「こんにちはぁ。この辺の方ですか。」
遠くから声がする。良かった。人だ。
あの辺りが農道なのかな。声のした付近を見る。
「そこの作業着の君! そう。君だよ。」
そこには屈強な警察官が2人、それも警察車両を農道に停め、わざわざ降りて声をかけてきた。
「え? あ、はい。・・・。」
何故、警察が? 僕、何かしたか? 現況確認のため、キョロキョロ辺りを見ながら歩いていたが、不審者ではない。土地所有者にも了承を得ている。だから、もちろん何も悪いことはしていない。
してないのだが・・・。
「ここで何をしているんですか。」
何を? 何をって言われても、今日は現況確認なんですけど。
「あ、あの・・。」
警察官に職務質問を受けたのは初めてだ。緊張して言葉が出ない。
どうしよう。どうしたらいいんだ。
「ちょっと、ちょっとこっち来てくれる? 話が聞きたいんだ。」
「え? あ、ぼ、僕ですか。」
行くのやだな。なんだか妙に落ち着きがなくなる。
僕は何も悪いことしていないのに。
こんなときに、田中先輩、どこまで行ったしまったんだ。
「君以外に人はいないだろ。悪いけど、こっち来て。」
逃げるか。ここは逃げたほうがよいのか。
でも、逃げきれないよな。二人いるし。
ああ。田中先輩、早く戻ってきて。
僕は、ゆっくりと警察官のほうに歩き始める。
「お~い。スズキ。」
遠くから、田中先輩の声がする。
僕は振り向き、声のする方向を向いた。
「お~い。鈴木。スズキさぁ~ん。悪いけど、手を貸して。」
やはり、田中先輩の声だ。
僕は警察官のほうへ向き直り、「ちょっと呼ばれているんで。」と声のする方向を指さし、警察官から逃げるように田中先輩の声のする方向に向かう。すると、警察官2人も、顔を見合わせてから後をついてきた。
体格の良い二人に追われ、ちょっと怖くなって、小走りに枯れ草をかき分けて進む。そうすると、警察官もムキになって追いかけてくる。段々はぁはぁと息があがり、なんだが逃走者になったような緊迫感だ。
「おーい。ここだ、ここ。手を貸してくれ。」
そこには、ぬかるみに足をとられ、長靴が抜けなくなって両手をつき、さらに、ぬかるみ嵌って四つん這い状態の田中先輩がいた。
「何、やってるんすか。」
「いやぁ。悪い悪い。ガザガサって音がして驚いてバランス崩したんだ。一瞬、本当にワニがいるかと思って驚いてしまった。長靴の中まで泥が入ってくるし、参ったよ。悪いが手を貸してくれ。」
ところどころに水が残っている場所があり、ぬかるみになっていた。手を伸ばして助けようとするが、成人男性は重い。逆に引っ張られ四苦八苦していると、追いついてきた警察官が二人がかりで引っ張りあげてくれた。さすが警察官、こういうときは頼りになる。
「いやぁ。警察の方まで、すみません。無理に抜け出そうと手を着いたら、さらに悲惨な状況になっちまって。ハハハハハ。ワニが来たらたいへんだった。お恥ずかしい。」
笑って誤魔化している。
「笑い事じゃない。あなたがた、こんな人気のないところで何をやっているんですか。そもそも、ワニなんているわけないだろ。まさか放したんじゃないよな。ほら、こっち来て。向こうで話を聞くから。」
警察官に思い切り不審者と疑われた。
そして、警察官から、ペットを捨てに来たんじゃないかとか、ゴミの不法投棄をしに来たんじゃないかとか、勝手に野生動物を採りに来たんじゃないかとか、散々、疑われ、しつこいほど職務質問された。草刈りの依頼を受けたことやワニの目撃情報があったことを説明したが、なかなか納得してもらえない。農道近くに戻って、軽トラの荷台にある道具を確認してもらい、名刺も渡して、やっと信じてもらえた。信じてもらえたのに、その後もぶつぶつと注意を受けた。
沼を一周し、警察官となんだかんだ話し、現況確認は思ったより時間がかかってしまった。
「そろそろ帰るか。」
田中先輩の言葉に、長靴を履き替え、車に乗り込む。
農道は一本道のため、通行の邪魔にならないよう軽トラを畔に乗り入れて停めていた。この間の火事のように緊急車両が通れないのは良くない。車が通れるように配慮したんだ。
ブルブルブルブル。ギュルギュル。
あれ?
エンジンをかけアクセルを踏み込むが、車輪が空回りする。
ブブ、ギュルギュルルル。ギュルギュル。
いつの間にか、トラックがぬかるみに嵌っている。ここ、こんなぬかるんでいたかな。
再度、アクセルを踏み込む。
ブル、ギュルギュル。ギュルギュル。
「駄目だ。荷台に板か何か乗せてあったかな。タイヤに何か噛ませるようなものが・・・。」
田中先輩が車を降り、荷台を確認する。道具をいくつか動かし、下に何かないかも確認する。
「今日は下見だけのつもりだったからな。何もないな。ちょっと後ろから押すよ。」
車から降り、腕まくりをする。
「せーの。」
再びアクセルを踏み込む。田中先輩は腰を曲げて体重をトラックにのせるように押していく。
ズシャ、ギュルギュルルル。
マズイ。さっきよりも、さらに水がたまってきた気がする。田中先輩が荷台のシャベルを掴み、タイヤの下にザッザッと土を入れる。
「いくぞ。せーの。」
ブル。ブルブルブル。ギュルギュル。
ズシャシャシャ。ズシャシャシャシャ。
車輪が空回りし、水を弾く音がする。
泥がいろんな場所に飛びはね、田中先輩はすでに泥だらけだ。泥が目に入ったのか何度か腕で擦っている。
「いくぞ。せーの。」
ブル。ブルブルブル。ギュルギュル。
それでも全身を使ってトラックを押す。
どれほど、それを続けたかわからない。たぶん、一時間くらい、車を押したり、土や枯れ草をタイヤの下に入れたりながらアクセルを踏んでいたが、ぬかるみから出ることはできなかった。
完全にはまってしまった。
徐々に日が傾いてきている。これ以上、同じことをしていても、埒が明かない。
恥ずかしいが、木山さんに電話をかけ、状況を説明して泣きついた。
今日はなんだか散々な日だった。




