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私はしゃがんでヤマトの首元に顔を近付け、穴があくほど凝視する。何度も何度も見てそれを確認すると、がっくりとその場に項垂れた。
ヤマトの細い首に、昨日までは見当たらなかった赤い色の真新しい首輪が、しっかりとはめられている。
……黒猫ヤマト、お前もか。
なんということだ。最後の晩餐、ブルータスに裏切られたカエサルの気持ちが痛いほどによく解る。
確かに、確かにヤマトは私の猫じゃない。例えどんなに可愛がっていても、悲しいことにヤマトは飼い猫ではなく野良猫なのだ。だから誰の物でもないし、いつ何処で誰が飼う事になったって文句は言えない。むしろちゃんとした飼い主が見付かる事はヤマトにとって良いことだ。
わかってる。頭ではちゃんと理解しているしいつかこういう日が来るかもしれないとそれなりの覚悟はしていた。だけど! だけどさぁ!
「…………何も今日。このタイミングじゃなくてもいいじゃない」
……そう。このタイミングで〝誰かのモノ〟にならなくたっていいじゃないか。だって、今日私は数年越しの恋を失ったばかりなのだ。その上ヤマトまで失えと? ……そんなのってあんまりだ。神様はどれだけ私を苦しめれば気が済むんだろう。私何か気に障ることした? お正月だってちゃんと神社に御参りに行ってるのに!! まさかお賽銭が足りないとでもいうの? 神が? そんなバカな!
やっぱり今日は人生最大の厄日に違いない。本当に最低最悪だ。
断崖絶壁から荒れ果てた海の奥底まで一気に突き落とされたような絶望を感じた。ようやく落ち着いた涙腺がゆらゆらと崩壊を始める。
なんだかアイツに振られた事よりもヤマトが離れていく事の方が辛い気がする。いや、こっちの方が断然辛い。
月明かりに反射して光沢を放つ赤い首輪をぼんやりと見つめる。
……あーあ。私が先に首輪を付けていれば、こんな風に誰かに取られなくて済んだのかなぁ。私がもっと何かしていれば。こんな事、今更思った所で後の祭である。ペット禁止のこのマンションを心底恨んだ。
ずずっ。みっともなく流れてくる鼻水を豪快に啜る。ティッシュを求めてポケットを探ると、さっき投げ捨てようとした不幸の象徴が出てきて思わず舌打ちを鳴らしてしまった。チッ、こんな時に出てくるなんて。早く捨てよう、そうしよう!
……あ、でも待って。どうせ捨てるなら……。
私は部屋からメモ帳とボールペン、それにヤマトの餌を手に持って、急いでベランダに戻った。
袋から出して皿に分けてやると、ヤマトは待ってましたとばかりに食らい付く。
その様子を見届けると、私は手のひらに乗せた不幸の象徴と対峙した。……どうせ要らないものだ。捨てるならヤマトに託してみるのも悪くない。
こくんと頷いて、私は用意したメモ帳の一番上をビリリと破いた。
この指輪を見付けた方へ
私にはもう必要ない物なので、捨てるなり
売り飛ばすなり貴方の好きなように扱って
下さい。
面倒をお掛けして申し訳ありませんが、よ
ろしくお願いします。
書き終えると、私はそのメモ用紙で例の指輪をすっぽりと包んだ。小さな塊になったそれをヤマトの首と首輪の間に無理矢理挟み込む。ヤマトは低い声でナァと短く鳴くと、窮屈そうに前足で顔を掻いた。が、すぐに何事もなかったように食事を再開させる。
私はふぅ、と息を吐いた。
あとは全てヤマト次第だ。散歩中に何処かに落としても、このまま家まで持ち返っても、途中で誰かに取られたって構わない。このメモを読めば、あとはその読んだ人がなんとかするだろう。もう私には関係ないことだ。
あ、でも。もしヤマトの飼い主がこれを見つけたらあっちはちょっと困るかもしれないな。でもそれくらいの迷惑は多目に見てもらおう。私のヤマトを奪った罰だ。
少し腕を伸ばして、軽くなった左手を月に翳す。……なんだろうこの感じ。たった数グラムの物がなくなっただけなのに、妙にスッキリした気分になった。
お腹いっぱいになって満足したのだろう。ヤマトが足元に歩み寄って、顔をすりすりと押し付けてきた。これはヤマト流の帰りの挨拶だ。目を瞑って、甘えるように擦り付けている。うん、可愛い。
ヤマトはぱっと顔を離すと、後ろも振り返らずに颯爽と歩き出した。さすが賢いヤマト、切り替えが早い。その背中をしっかり見送ると、私は泥のように眠った。