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 ある日、店の客から野良猫は通報があったら保健所に引き取られ、最終的には殺処分されてしまうという話を聞いた。

その人の近所では衛生面や騒音などのトラブルから誰かが通報し、実際に保健所の人が引き取りに来たそうだ。可哀想だったが自分の家では飼うことが出来ず、どうしようもなくて苦しかったと落ち込んでいた。


 その残酷な事実を知って、俺は例の黒猫を探した。このままだと、いつかアイツも保健所に連れて行かれてしまうかもしれない。アイツは何も悪くないのに。ただ一生懸命に生きているだけなのに。それだけで命を奪うなんて冗談じゃない。


 裏のゴミ捨て場に座っていたソイツを見つけると、俺はそっと抱き上げた。


「なぁ、お前。もし嫌じゃなかったらうちに来ないか?」


 俺の言動に、黒猫は不思議そうに首を傾げる。


「このままだとお前、処分されるかもしれないんだと。俺はそんなの嫌だ。でも、飼い猫になればそんな心配はいらない。衣食住の心配もないし、さみしい思いもさせない。だからうちに来ないか?」


 しばらくして聞こえてきたニャーオ、という鳴き声を了承の返事と受け取り、すぐに動物病院に向かった。健康であるとお墨付きをもらい、店から徒歩二分の場所にあるアパートにソイツを連れ帰る。


 初めて来る場所なので警戒すると思いきや、黒猫は部屋に上がるとソファーで寛ぎ出した。なかなか図太い神経の持ち主らしい。


 俺はパソコンを開くと、ネット通販でケージやらエサやら必要な物をポチポチとカートに追加していった。そうだ、首輪も用意しないとな。商品画像を見ていくと、首輪にはリボンが付いたもの、鈴が付いたもの、ポケットが付いたものなど色も形も沢山あった。色々と悩んた結果、俺は三種類の赤い首輪を注文した。汚れた時や壊れた時のために替えがあった方がいいと思ったからだ。これで二、三日後には届くだろう。


 顔をゴシゴシとこする姿を見ながら、そういえばまだ名前を付けていなかったと思い出す。何がいいだろう。黒猫だから……く、く、くろ……くろい……くろいの……。


「……くろだ?」


 ぽつりと呟くと、黒猫はパッとこっちを向いた。うん、反応も上々だしクロダ、いや漢字の黒田にしよう。かっこいいし。そんな単純な理由で、黒猫の名前は決定した。





 家の中で飼おうとしたが、コイツはどうも外が好きらしい。家で留守番させておくと、窓を勝手に開けてあっという間に外に出てしまうのだ。仕方がないので好きにさせることにしたのだが、そうすると昼間は散歩に出かけ、夕方店に来て、仕事が終わったら家に帰るという特殊な生活スタイルが出来上がっていた。この状況が続くなら早急に首輪を付けなければまずいなと考えながらショーケースにケーキを補充していると、片桐に呼ばれた。


 どうやら、俺の気になっている彼女が彼氏と揉めているらしい。


 狭い店内では申し訳ないが話し声が耳に入ってきて、別れ話をしているのを聞いてしまった。俺は、彼女が店を出て行く背中を見送ることしか出来ない。


 暗い気持ちのまま家に帰ると、注文した荷物が届いていた。新品の赤い首輪を付けてやると、黒田はくすぐったそうにふるふると身体を震わせる。うん、やはり黒には赤がよく映える。これで外を出歩ていても飼い猫だとわかるはずだ。満足しながら散歩に送り出してやると、ソイツはその首輪にとんでもない物を挟んで戻って来た。


 ……指輪だ。


 しかも裏にしっかりとイニシャルが刻まれた、高そうなダイヤの指輪である。指輪を包んでいた白い紙には捨てるなり売り飛ばすなり貴方の好きなように扱って下さいと書いてあり、俺は眉を潜めた。……なんだこれ。こんな大層なものを処分してくれなんて言われても困るんだが。


 悩んだ末、俺は手紙の返事を書くことにした。仕方ないので指輪は持たせず預かっておこう。本人に届くかどうか分からないこの状況で、こんな高級な指輪を猫に持たせるのはリスクが高過ぎる。しかし、猫の首輪に手紙を挟むのはいかがなものか……と思案していると、ポケット付きの首輪を買っていた事を思い出す。そうだ、この中に手紙を入れれば猫も怪我をしない。まさか予備として買っていた首輪が初日に活躍するとは思わなかった。しっかりと畳んだ白い紙をポケットに入れると、黒田は何故か嬉しそうに喉を鳴らした。


 翌日には相手から返事が来ていて、その内容に驚愕する。……黒猫の名前がヤマトだと? いやいや、この猫の名前は黒田だ。だいたい、俺にはペットに自分と同じ名前を付ける趣味なんてない。それとも黒田は飼い猫だったのか? それから数通、小学生のケンカ並みのやり取りしていくうちに相手が黒田のことを大切に思っていることを知った俺は、共同で飼うことを提案した。相手もこの件を喜んで受け入れてくれて、コイツの名前は黒田ヤマトに決定した。自分の名前を呼ばれるのは変な感じがするが、猫は猫、俺は俺と割り切ってしまえば大丈夫だろう。たぶん。


「あれ? その猫って首輪してたっけ?」


 店の前に現れた黒猫を見た片桐が不思議そうに言った。


「……俺が飼った」

「タッチーが? マジで?」

「悪いかよ」

「いや? てかポケット付きの首輪なんて珍しい。なんか入ってんの?」

「うっせぇ黙れ」

「相変わらずひどい!」


 実をいうと、俺はこの顔も知らない相手と文通するのが楽しみになっていた。SNSとも普通の手紙とも違う、猫を通したゆったりとしたやり取りが心地良い。いつ来るかわからない返事も、思い付いた事を好き勝手に書ける気兼ねなさも気に入っている。まぁ、自分が口下手のぶっきらぼうで、人と話すのが苦手だからという事もあるが。


「ところでこの猫ちゃんのお名前は?」

「黒田。漢字の」

「うっわー、センス皆無だね!」


 ……ほっとけ。心の中で悪態をついていると、ちょっと真面目な顔をした片桐は俺の様子を伺うように言った。


「彼女、来なくなっちゃったねぇ」


 そう。あの日から彼女は店に来なくなった。きっと、最悪な思い出の舞台となってしまったここが嫌になったのだろう。残念だが気持ちは分かる。彼女の笑顔が見れなくなって、俺の心はぽっかりと穴が空いてしまったようだ。このまま会えないのかと思って諦めていると、突然彼女はやって来た。しかも、仕事の話を持って。


 初めて彼女とまともに話せた事は嬉しかったが、それと仕事は別問題だ。俺は俺の矜恃を持ってこの仕事をしている。



〝私はここのスイーツにいつも助けられてます。疲れた時に食べると癒されるし、悲しい時に食べると元気づけられる。嬉しい時や楽しい時は幸せな気分になります。私、橘さんの作るスイーツが大好きなんです〟


〝あなたのスイーツを食べて、笑顔になる人がもっと増えてほしいんです〟



 説得に来た彼女の言葉が、俺は何よりも嬉しかった。彼女の言葉がビジネス用の嘘ではなく、本心から出た言葉だというのは普段の様子を見ていればわかる事だ。三年も喫茶店(うち)に通っているのだから、信憑性は十分だろう。俺は自分が作ったスイーツで一人でも多くの人を笑顔にするという理想を実現させるためにも、この仕事を受けてみようと決意した。


 ──彼女が文通の相手だと気付いたのは、ガレット・デ・ロワに入っていた黒猫のフェーヴがきっかけだ。


 ポケットから転がり出たそれを見ると、彼女は俺が前に手紙に書いた幸運の黒猫の話をしたのだ。最初は動揺した。こんな偶然があるのかと信じられない気持ちだったが、よくよく考えると彼氏と別れた時期や名前のイニシャルなどがぴったりだったのだ。これはもう疑いようのない事実だった。俺は思わず笑ってしまった。だって、柄にもなく思ってしまったんだ。これは本当に黒猫が運んできてくれた幸運なんじゃないかって。


 俺は文通相手が彼女だと知っても、自分の正体を明かさずこれまでのようなやりとりを続けていた。しかしながら人間というのは欲深い生き物のようで……。今の現状に満足出来ず、それ以上を求めてしまうのだ。彼女と接するようになって、ますます彼女に惹かれていった事も一因なのだろう。


 もし文通しているのが俺だとわかったら、彼女はどう思うのだろう。気持ち悪いと引くだろうか、何故言ってくれなかったのだと怒るだろうか。それとも喜んでくれ……いや、それはないな。小さく溜息をつきながら決意する。それでもいつか、自分の正体を明かしてこの気持ちを告白しよう、と。


 そう思っていたのだが……いつか、なんて流暢な事言ってる場合じゃなくなった。彼女から来た手紙の内容から察するに、どうやら誰かに告白されたらしい。相手は大体予想がついている。慰労会の時に絡んでいたアイツだ。正直、俺は焦った。彼女とせっかく仲良くなれたのに、誰かに先を越されるなんて冗談じゃない。俺は全てを明かそうと決心し、手紙を書いた。俺が橘大和本人だと信じてもらえるように、証拠の品を入れて。


 緊張しながら黒田を送り出して数日が経ったが、アイツはいまだに戻って来ていない。黒田がこんなに長い間うちにも店にも顔を出さないのは初めての事だった。


 俺は不安に陥った。もしかして、真実を知った彼女は文通をやめてしまったのだろうか。俺の手紙を不快に思って、黒田を一人で飼うことにしたのかもしれない。だからアイツは帰って来ないのか? ネガティブな思考が頭を埋め尽くす。


 しかし、店に来る彼女は俺の手紙などなかったかのように今までと変わらない態度で話しかけてくるので、俺は大いに戸惑った。彼女に対してぎこちない言動をとってしまうくらいには戸惑った。もしかして、俺の手紙はなかった事にされてるのか? 今まで通りの関係でいようと? 返事がないのが返事という事なのだろうかと心底悩んでいると、窓から突然黒田が飛び込んできた。


 全身の毛を逆立て、シャーシャーと威嚇するように叫ぶ黒田は俺のシャツを引っ張り窓の外に出そうとする。尋常じゃないその様子を不審に思い、すぐに外に出ると走り出した黒田を追った。そして、辿り着いた公園で彼女と不審な男が対峙しているのを見て──。

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