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しんと静まり返った店内で向かい合う、男と女。
気まずげな雰囲気を和らげるように置かれた白いカップには、あたたかいココアが注がれている。少しでもリラックス出来るようにと、店主が砂糖とミルクをたっぷり入れてくれた特別仕様だ。
我が物顔で室内を歩き回っていた一匹の黒猫が、二人を見て呆れたように鳴き声を上げた。
あの後──駆け付けた警察官によって不審者は無事逮捕された。捕まった男は、最近この辺りを騒がせていた連続放火魔の容疑者だったらしい。確かに最近火事のニュースが多かったので驚いた。
私は一応事件の目撃者兼被害者という事で警察官にその場で色々と話を聞かれたが、時間も遅いので詳しい事は明日以降という事でまとまった。
片桐さんと橘さんはそんな私を一人で帰すのは危ないとエスポワールに連れて来てくれたのだ。あの公園から五分もかからず辿り着いた店内で、私は橘さんと二人きりにさせられた。こうして向かい合って、どれくらいの時間が経っただろう。
私は白いカップに静かに口を付けると、現状打破のため切り出した。
「「あの」」
……のだが、橘さんの声と私の声が重なった。まさかの丸被りである。意を決して口を開いたというのに……気まずいったらありゃしない。
「そちらからどうぞ」
「いえ、そちらからどうぞ」
「いや、そちらからどうぞ」
無駄な譲り合いである。このやり取りに、私の頭の中には「どうぞどうぞ」と言って帽子をくるりんぱするベテラントリオ芸人が浮かんできた。いや、あれは「俺がやるよ」が重なってどうぞの流れだから、この状況で使うセリフじゃないよなぁ。こんな思考回路に陥っているのはそう、現実逃避である。
「あー……その、大丈夫か?」
「ええ、だいぶ落ち着きました」
「そうか」
いつまでも現実逃避なんてしてられない。私はひとつ息を吐くと、困ったように眉根を寄せた橘さんを見据えた。
「……あの。さっき片桐さんが言ってた事なんですけど」
私の言葉に彼の眉がピクリと動く。
「橘さんがあの黒猫の飼い主っていうのは本当ですか?」
前足を丁寧に毛づくろいしている黒猫に目をやると、橘さんは静かに頷いた。
「……ああ。その黒猫は俺が飼ってる猫だ。名前は黒田。エスポワールによく出入りしてたコイツを拾ったんだ」
ヤ、ヤマトがエスポワールに来ていた? その衝撃の事実に私は目を見開いた。だってお店でヤマトに会ったことも見かけたこともなかったし。いや、それ以前に来てるなんて考えたこともなかった。どんだけ行動範囲広いのよ。縄張り争いとか大丈夫? ていうかヤマトの飼い主が橘さんってどういう事。狭すぎるでしょ世間。でも黒田って名前も手紙で言ってた通りだし、本当の事なんだろう。ああもう、橘さんが飼い主だって知ってたらあんなバカな事しなかったの……ハッと気付いた私の顔からどんどん血の気が引いていった。
……そうだ。ヤマトの飼い主が橘さんなら、私が文通していたYさんの正体は彼なのだ。
つまり、私のあの手紙はずっと橘さんに読まれていたわけで。くだらないことも失礼なことも散々書いちゃってたわけで。……ど、どうしよう。穴があったら入りたい。私は今現在、人生最大の羞恥を晒してしまっているのではないだろうか。知らないって本当に怖い。
……あれ? じゃあ橘さんは? 橘さんはヤマトが家に来てること、文通相手が私だってことを知っていたのだろうか。私は顔をリトマス試験紙のように赤くさせたり青くさせたりしながら、口を開いた。
「橘さんは、最初から全部知ってたんですか?」
「いや……」
「全部知っていて、私と文通してたんですか?」
睨むように見ると、橘さんは究極の選択を迫られたかのような渋い顔をする。眉間のシワも今までで一番深い気がする。
「……悪い。それも含めて少し説明させてくれ」
そう言って一つ息を吐くと、橘さんは静かに語り出した。
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その黒猫は、店の裏のゴミ捨て場に居た。
いつの頃からか現れるようになったソイツは俺を見つけると甘えたように鳴き声を上げて近付いてくる。食べ物をねだっているのだろう。余ったいちごを一粒だけ分け与えると、猫は嬉しそうにかぶりついた。
ネットで調べたところ、いちごは一粒程度なら猫が食べても大丈夫らしいので、こうしてたまに分け与えている。
野良猫にしてはやけに整っている毛並みをゆっくりと撫でていると、向こうの道路で信号待ちをしている一人の女性が目に入った。一つに結んだ艶めかしい黒髪を揺らし、白いシャツにグレーのロングスカートというシックな服装をしている彼女は、うちの店の常連客だ。
彼女は来店するたびショーケースを楽しそうに眺め、注文したケーキを美味しそうに食べていく。俺はその顔を見るのが密かに楽しみだった。凛々しく整った綺麗な顔が、俺の作ったケーキを食べた瞬間、ふにゃりととろけるように崩れるのだ。パティシエ冥利に尽きるとも言えるその笑顔を見るたびに、俺の心は何故か騒ついていた。
彼女は一人で来る事が多かったが、男性と二人で来る事も多かった。おそらく彼氏なんだろう。彼と話している時の彼女は、ケーキを食べた時のように甘い笑顔を浮かべているから。……いや、別にショックなんて受けてない。彼氏がいる事くらい想定済みだ。そう言い聞かせても、芽生えてしまった感情を消す事は出来なかった。
彼女を目で追うようになったのは一体いつからだろう。彼女の笑顔が頭から離れなくなったのは、一体いつからだったのだろうか。いや、たぶん初めて見たその時から、この感情は生まれてしまったのだろう。しかし、俺は彼女に自分の気持ちを伝える気は一切ない。見知らぬ相手から突然好意を告げられても、迷惑になるだけだろうから。それに、俺はただでさえ口下手でぶっきらぼうなのだ。彼女に不快な思いをさせたくない。俺は、あの幸せそうな笑顔が見れればそれで十分なのである。
……と言いつつ、彼女の笑顔が見たくて片桐と交代してレジ打ちをやった事まであるのだから、我ながら女々しいというか非常に気持ち悪い。恋は盲目とはよく言ったものだ。
信号が青に変わった。歩き出した彼女を見つめていると、撫でていた黒猫がナーオと鳴いた。すっと細められた金色の瞳は、まるで意気地なしと言わんばかりに俺を突き刺してくる。どうやらコイツには俺の気持ちがバレているらしく、こうして見ているだけの俺に圧をかけてくるのだ。ったく……ほっとけよ。
ソイツの頭を軽く撫でると、俺は溜息をついて店に戻った。




